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貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

県境変更に寄せて

2010-03-04 19:33:02 | 日記
3月1日付けで群馬県と埼玉県との県境が変更され、群馬県太田市と埼玉県深谷市との間で、利根川を挟んでお互い対岸に在った所轄の行政地をトレードし合ったとのニュースをテレビで見た。

当該の地は我が郷里であり、此処にまつわる思い出もあることから当然のこと耳目をひきつけられた。

坂東太郎・利根川の左岸に在る深谷市高島の一部が大田市分(群馬県)となり、右岸に川を挟んで飛び地のようにしてあった太田市南前小屋の区域を深谷市分(埼玉県)に、それぞれを編入し新たな行政区分として、利根川によって県境が区切られるすっきりとしたものとなった。

元の深谷市分の地は現在ゴルフ場で人は住んでは居らないが、太田市分の南前小屋には160人ほどの人たちが居住していて、この人たちからの強い要望があって今回の新しい県境の線引きとなったとのこと。

利根川を挟んで一行政区ごと対岸側へ飛び地のようにして位置づいている所としては、左岸に埼玉県北埼玉郡北川辺町が、群馬・茨城県側に所在しているし、また、右岸に茨城県猿島郡五霞町が埼玉県側に位置していることが知られる。

が、今回新しく県境の区分が敷かれた場所の付近には、小さな区域が川を挟んで対岸の他県側に飛び地している所が、幾つか今回の場所以外にも所在していて、此処より上流、同じ深谷市側にに群馬県伊勢崎市境島村が利根川を越えて埼玉県側にあるし、反対に群馬側に埼玉の熊谷市小島がある。

これらは利根川の流路の変遷によって生じたことであり、堤防も無く治水が機能しない古い時代には、当然のことながら洪水によって川の流れは変わる訳で、人間にとっての好・不都合に関わりは無く、自然の成り行きに従わざるを得なかったであろうから、その都度、今回のような境界の変更など、今までにもあったであろうと想像できる。

特に日本第二の大河である利根川が、山地から流れ下って平野部へと出て、これに周辺の山地から同じようにして流れ下って来る、烏川・神流川・広瀬川などなどの支流を呑み込むこの辺りは頻繁にその流路は変わって来たに違いがなく、広大な氾濫原となっている。

利根川の右岸側に在る、群馬県伊勢崎市境島村地区の南にある埼玉県深谷市横瀬に在る華蔵寺は、その開基が新田義兼で開創は鎌倉時代であるが、その頃は上野国新田郡であったようだから、その冬至の利根川は、おそらくこの寺の在る場所よりも更に南を流れていたのであろう。

このように利根川はこの付近に住む人たちにとっては、誠に御しがたい気まぐれでわがまま放題な存在であるのと同時に、定期的な川の氾濫によって土砂が上流から運こばれて地味は肥沃な地で、また、江戸時代以降には河道を利用した舟運が盛んになり、物資や人の輸送に利用されるようにとなり、川筋には幾つもの河岸が築かれて、各地から人・物・文化が運ばれてきて賑わいを見せていたという。

その昔、子供の頃に映画や歌謡曲で長谷川伸の「一本刀土俵入り」の物語のあらすじを知った時、主人公である相撲取りの駒形茂兵衛は、一度親方から破門を受けた身ではあったものの、相撲を諦めきれず生まれ在所の上州駒形村から、再度江戸の親方の下へ破門を撤回して貰い弟子にして貰おうと出向く設定の中、何でその舞台が下総取手宿なのだろうか?と疑問に思ったことがあった。

駒形茂兵衛の在所、現在の伊勢崎市駒形広瀬川の縁から江戸へ出るのであったのなら、本庄宿へ出て中仙道を辿るのが当たり前で、そうした旅程しか思い浮かばなかった当時の私は、これが不思議で不思議でどうしてなのだろうかと考え込んだことのあったことを記憶している。
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