徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

祇園祭 後祭 山鉾巡行(2)

2014-08-08 14:11:28 | 京都散歩
7/24 祇園祭 後祭 山鉾巡行 2部


7番:鯉山


全面の懸装品が1600年頃にベルギーで作られた1枚のタペストリーを裁断して作られている


8番:役行者山(えんのぎょうじゃやま)


役小角が一言主神と葛城神の力を得て葛城と大峰の間に橋を架けた伝説に因む。


9番:黒主山


謡曲「志賀」に因み、大伴黒主が桜花を仰ぎ眺める姿が表されている




山 巡行(2)動画



諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」という。この語源は異説もあるが、前祭では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、後祭では山鉾の数が少なく小規模であることから、前祭を見逃して残るは後祭しかないような状況を指すようになったという説もある。

しかし、今回大船鉾が150年ぶりの巡行復帰。
京都の人の文化財復興に対する熱意に敬服させられる。以前、神社や寺などの文化財が修理改修されるときに地元企業や個人有志の寄付がすぐ集まると聞いたことがある。古都の文化財などへの信仰、伝統を受け継いでいくという文化が根付いているのだろう。

先祭の船鉾  (2011年撮影)
船鉾は、船首には想像上の鳥である鷁(げき)、船尾には飛龍紋の舵をつける
重量・8.41トン、高さ・6.7メートル、車輪・直径約2メートル。
鉾に載せる御神体人形は安曇磯長、住吉明神、神功皇后、鹿島明神の4柱


10番:大船鉾

(以下船鉾HPより抜粋)
大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされてい応仁の乱(1467年)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています。
天明の大火(1788年)で神功皇后の御神面を残して焼失、文化元年(1804年)には以前にも増して豪華な鉾として再興されました。現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変により木部など多くを焼失、以後は休み鉾となります
南の船鉾は前の祭に、北の船鉾は後の祭に巡行していました。二つの船鉾は同時に巡行することがなかったので、江戸時代以降はともに「船鉾」と呼ばれていました。
前の祭の船鉾が神功皇后の出陣を表すのに対し、後の祭の大船鉾は戦に勝った凱旋の船を表すものであることによるものです。


全長7・47メートル、高さ6・25メートル、重さ12トン余り。主にヒノキで作られた船体に4個の車輪がつき、切妻と唐破風(からはふ)の二重屋根が特徴の屋形が据え付けられる。
新調された船体の木組みと屋形は寄贈品。車輪と車軸などを菊水鉾から譲り受けるなど、町外からも多くの支援を受けた



辻回しでは報道関係のカメラマンは走り回り、観客は一段と沸きます。




鉾に載せる御神体人形は船鉾と同じ、安曇磯長、住吉明神、神功皇后、鹿島明神の4柱
別名「凱旋船鉾」とも呼ばれたように、神功皇后が武装を解いた姿です。御懐妊のまま出征し、無事帰国して応神天皇を出産されたことから、神功皇后は安産の神様としても信仰を集め、宵山の期間中安産の腹帯やお守りが授与されます。神功皇后は日本書紀に三韓征伐を行い、新羅・高句麗・百済を攻め立て降伏させたと記されています。三韓征伐の際には、お腹に子供(のちの応神天皇)を宿しながら戦ったそうです



誰かが再建には1億5千万ほどかかったといっていた。すばらしい完成度である


船形がよくわかります


江戸末期「蛤御門の変」で焼失していた「大船鉾」が見事再建した鉾で京都の町に凱旋巡行した姿を拝むことができました


大船鉾 巡行 辻回し 動画



山鉾巡行の最終の大船鉾が通過し四条通に向かった後、今までの後祭りで行っていた花笠巡行がやってきたので続いて見学。







きれいどころがやってきました


お姫様たち。笑顔が素敵です


宮川町や祇園のきれいどころが続きます





鷺踊りの子供たち


途中、救急車が通るため(熱中症?)警官が交通整理であわただしく動いたため、1時的に見物が遮られた。

花笠巡行 動画



花笠巡行を見終わった後、地下鉄で四条通/室町・新町通りj方面に向かったがすでに山鉾は鉾町の町席に着いていた。
狭い通りを帰途繰り込む雄姿を残念ながら見逃し。それにしても大船鉾の周りの観客の数はすごかった



あまりに暑いので帰りの夕方の新幹線の時間まで地下街で涼む。
だらだら長々となってしまったレポートでしたがこれにて終了。来年も先祭をぜひ又見に行きたい。















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