2019 6月 日光市足尾町 中才鉱山社宅
足尾銅山を経営していた古河鉱業は、各抗口や工場付近に職員と鉱夫のための住宅地を設け、社宅として提供していました。またその共用施設として集会所や共同浴場を備え、住宅地に隣接して神社も置かれました。足尾の町は、銅山関連施設の周囲に数多くの社宅群や一般住宅、商店などを合わせて1つの都市的形成がなされています。昭和時代の名残りのある社宅群は現在は町営となっています。年々入居者が減り取り壊しも進んでいます。
撮影:2016年
昭和の時代に何回かこの集落を訪れている。父が幼少期を過ごした社宅が中才の外れ、遠下のはざまあたりにあったという事で
父亡きあと2016年に久しぶりに再訪 まだ昭和時代の懐かしい風景が残っている。
鉱山長屋社宅は町のあちこちにまだ点在しているが、閉山の翌年あたりにいち早くなくなった本山社宅、2010年ごろに取り壊された通洞、愛宕下、深沢エリア、廃墟と化している芝の沢・・ 渡良瀬、赤倉、南橋、砂畑あたりも少なくなっている
撮影:2019年6月
古い石積みの階段
明治37年(1904)通洞第2選鉱所完成とともに、38年には銅山長屋6棟が建てられ、以後、選鉱に働く鉱夫の住居となっていく。さらに明治40年には商店など町部10余戸が建ち、集落の体裁が整うようになった。
明治41年2月、中才の銅山長屋が全焼したため、その復旧が進められ、同時にレンガ造りの防火壁を設ける契機となったといわれている。
明治43年(1910)には山沿いの道路が付け替えられ、現在の国道の道筋に変わった。これに伴い、旧道筋は足尾鉄道の軌道となったのである
昭和30年(1955)年に中才は、社宅が184戸、900人。町部61戸、262人を数えていたが、銅山閉山後は、町が社宅166戸の提供を受けて町営住宅にしたものの、人口の低落が続き、平成元年には全体で138戸、343人になった
銅山の町 足尾を歩く 村上安正氏 著より
比較的新しい集落の共同浴場
共同浴場前広場と長屋
平地の少ない山に面したエリアで、雛壇上に社宅群が形成されている 対面に斜面状に見えるのは旧通洞選鉱所跡
山側(西側)の社宅群
ここは入居者がいないようだ
足尾銅山を経営していた古河鉱業は、各抗口や工場付近に職員と鉱夫のための住宅地を設け、社宅として提供していました。またその共用施設として集会所や共同浴場を備え、住宅地に隣接して神社も置かれました。足尾の町は、銅山関連施設の周囲に数多くの社宅群や一般住宅、商店などを合わせて1つの都市的形成がなされています。昭和時代の名残りのある社宅群は現在は町営となっています。年々入居者が減り取り壊しも進んでいます。
撮影:2016年
昭和の時代に何回かこの集落を訪れている。父が幼少期を過ごした社宅が中才の外れ、遠下のはざまあたりにあったという事で
父亡きあと2016年に久しぶりに再訪 まだ昭和時代の懐かしい風景が残っている。
鉱山長屋社宅は町のあちこちにまだ点在しているが、閉山の翌年あたりにいち早くなくなった本山社宅、2010年ごろに取り壊された通洞、愛宕下、深沢エリア、廃墟と化している芝の沢・・ 渡良瀬、赤倉、南橋、砂畑あたりも少なくなっている
撮影:2019年6月
古い石積みの階段
明治37年(1904)通洞第2選鉱所完成とともに、38年には銅山長屋6棟が建てられ、以後、選鉱に働く鉱夫の住居となっていく。さらに明治40年には商店など町部10余戸が建ち、集落の体裁が整うようになった。
明治41年2月、中才の銅山長屋が全焼したため、その復旧が進められ、同時にレンガ造りの防火壁を設ける契機となったといわれている。
明治43年(1910)には山沿いの道路が付け替えられ、現在の国道の道筋に変わった。これに伴い、旧道筋は足尾鉄道の軌道となったのである
昭和30年(1955)年に中才は、社宅が184戸、900人。町部61戸、262人を数えていたが、銅山閉山後は、町が社宅166戸の提供を受けて町営住宅にしたものの、人口の低落が続き、平成元年には全体で138戸、343人になった
銅山の町 足尾を歩く 村上安正氏 著より
比較的新しい集落の共同浴場
共同浴場前広場と長屋
平地の少ない山に面したエリアで、雛壇上に社宅群が形成されている 対面に斜面状に見えるのは旧通洞選鉱所跡
山側(西側)の社宅群
ここは入居者がいないようだ
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