徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

a day of NARA(2) 興福寺 平城京跡

2011-05-28 16:14:43 | 京都での自転車ライフ
日差しが夏を感じさせ、気温も27℃以上あるだろう
猿沢の池から臨む興福寺の五重塔


境内に入ると鹿がたむろしています。鹿せんべいも売ってたし、昔の
修学旅行を思い出しました。・・ここきた記憶はないです

有名な、阿修羅像、四天王立像等、
千三百年にわたる長い歴史の過程で収蔵された仏像がある
寺というより博物館。今度じっくり見学したいものです
五重塔と・・・  

東金堂(共に国宝)
(文献引用)
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年-720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。

1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。
中金堂再建中。南大門再建中。


次に、坂を登ってやって来たのは東大寺二月堂
奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。

三月堂

清水の舞台に似たところがあるな

修学旅行と思しき学生さんも多かったな


二月堂境内から奈良市内展望。 左のお堂が東大寺大仏殿、あちらの山が生駒山 とMKさんの解説つき


順序が逆になりますが。二月堂途中にあった 池の中に位置する浮見堂
橋は新しく掛け直したものだったので白木色のまま

池のほとりにあった洞水門。写真の解説のとおり


春日大社の 登り途中にある 園窓亭  紅葉が美しいそうでMKさんお気に入りの場所。なるほど


東大寺大仏殿。今日は通過のみ。見学はまた今度


お昼を吉牛で食べた後、R369を西へ  そしてここ平城京跡。
去年の1300年遷都式典の時はすごい人手だったらしい
正面は南端に位置し、平城宮の正門として有名な朱雀門(すざくもん)。平城京の入り口である羅城門からこの朱雀門までは幅74mの朱雀大路がまっすぐに延びていました。朱雀門の左右からは高さ6mの築地(塀)が巡らされ、130haの広さの平城宮全体を囲んでいたそう

再建された朱雀門はつい最近完成したものらしい


敷地内を鉄道が走っている 近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の間に位置する。
平城宮は710年から784年までの奈良時代の都で京都に遷都されて以後百年も経ないうちに田畑となり、以後1000年以上も田畑のままだったらしい。ので、発掘調査前の高度成長期に鉄道を通したのだろうか


(文献引用)
平城京のメインストリートは、京の南門である羅城門から北にまっすぐにのびる幅約74mの朱雀大路です。朱雀大路をはさんで西側を右京、東側を左京といいます。左京には北の方で東にさらに張り出しがありました。平城京は大小の直線道路によって碁盤の目のように整然と区画された宅地に分けられています。平城京の住民は4~5万人とも10万人ともいわれますが、天皇、皇族や貴族はごく少数の百数十人程度で、大多数は下級役人や一般庶民たちでした
1998年に奈良市の東大寺・興福寺・春日奥山・正倉院などとともに世界遺産に指定されました。
平城宮跡が指定されたのは埋蔵文化財という名目です。
 確かに平城宮の地上には朱雀門、東院庭園など、最近の建物がいくつ
かあるだけで、広い広い野原です。
 でも埋蔵文化財が東アジアの古代都市をみごとに見せてくれることを、そして人類の歴史を解明する上で重要な手がかりとなることをユネスコが認めてくれたのです。

平城京は 中国・唐の長安をモデルにしたとTVで見たことがある
写真に写っている北端は大極殿だったかな
この後、遺構展示館を見学し、帰途に着きました


(文献引用)
和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。元明天皇が律令制に基づいた政治を行う中心地として、飛鳥に近い藤原京から都を移したのです。中国・唐の長安城などを模範とした都をつくることは、当時の東アジアの中で国の威厳を示す意味もありました。
その後、聖武天皇は740年から745年まで、都を転々と移しますが、745年には再び平城京を都としました。そして長岡京に都が移る784年までのあいだ、奈良の地が都として栄えたのです。この時期を奈良時代といいます。平城宮は710年から784年までの奈良時代の都です。広さは120万平方メートル余、奈良県の県都である奈良市のほぼ中央に位置しているにも関わらず、広々とした野原として保たれています。東南隅には東院庭園が、南端中央には朱雀門がそれぞれ復原され、西北隅には平城宮跡資料館、また北端中央部には遺構展示館が設けられています

京都に遷都されて以後百年も経ないうちに田畑となり、奈良時代の遺構・遺物が地中に取り残されました。
国が本格的に調査に乗り出したのは1959年、たかだか40年前でしかありません。当時は紙の他に木の札(木簡)に書類や帳簿を書きつけることも多く、発掘調査の際にこうした木簡がたくさん出土します。

広大な面積で調査を終えているのは3割です。全部終わるにはまだ100年はかかると言われています。学者によっては、木簡の保存のためには科学技術がもっと発達するまでこのままで置いておく方がベターと発言する人もあります。


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2 コメント

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お疲れ様でした (ken)
2011-05-28 23:45:38
まだまだ、行く所はたくさんありますから、楽しみにしていてくださいね。
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rerere (eibu)
2011-06-04 02:24:38
いつも有難うございます
夏は山間部ですかねー
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