奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

九戸四門 浄法寺地方は西門

2006年10月01日 | 重慶と浄法寺氏
九戸四門は糠部を9つの戸(牧野)に分け、東西南北を分かつ四門を置いたことに始まるといい、安倍氏、或いは下向してきた南部氏に由来するという。
九戸四門という呼称は九箇戸四門とも、四門九戸ともいい統一したものではない。

さて、一説によると南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門に六戸・七戸に北門、八戸が東門だという。
これによれば浄法寺は南門の中に入っていることになる。しかし、本当にそうだろうか。

天台寺を詠んだ句に「極楽や 東へ来たよ 西の門 月の桂に 清き水浪」という句がある事から天台寺は西門であることがわかる。
また、宮太鼓の4度目の修理の際に書かれた、永禄二年の墨書銘に西門住平朝臣能州と書かれている。社寺や仏閣はその地域を領有している豪族によって庇護されるのが慣わしであるから、この人物は二戸郡浄法寺を支配していた秩父平氏畠山氏流の浄法寺氏であり、浄法寺も西門に含まれるとみて間違いないだろう。
東北大教授の入間田氏は一戸・二戸を西門、九戸・葛巻を南門、三戸・四戸・五戸を北門、八戸を東門としている。
また二戸を苗字地にした二戸氏には桓武平氏畠山系と佐々木系の二戸氏がいる。
現在、岩手、青森には少数で何故か山形県に多い。

大永四(1524)年には天台寺を一番札所とした奥州糠部郡三十三所を西門の住、吉祥坊が巡礼している。
おそらくは天台寺の坊であろう。
浄法寺城跡の西館(仮称)には永禄元(1558)年に盛岡の源勝寺7世朔圃が末寺として開創したという吉祥山福蔵寺がある。
だが、天文十五(1546)年に開創したともいい、その開基は明らかではない。
この時代に開創されたのであれば吉祥坊に由来するのではないか。