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奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

浄法寺城にまつわる謎

2010年02月04日 | 重慶と浄法寺氏
九戸の乱を題材にした小説「九戸戦始末記 北斗英雄伝」の作者である早坂ノボル氏のブログ
、「日刊早坂ノボル新聞」で浄法寺城についての記事がありましたのでご紹介します。

日刊早坂ノボル新聞 (ブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/himekamitiger
(北斗英雄伝)浄法寺城にまつわる謎
http://blogs.yahoo.co.jp/himekamitiger/31291468.html
九戸戦始末記 北斗英雄伝 公式ホームページ
http://www.goemonto.rexw.jp/product4.html

当然ながら私は興味深く拝見させて頂きました。

浄法寺城は二戸市民の中でも認知度は低いでしょうし、せめてもう少し認知されてくれれば嬉しいのですが…。
是非、観光協会のサイトで紹介してほしいですね。

鬼鎮神社の節分祭
私は今回の節分祭に行ってはいませんが、行った人から聞いた話によると、虫取り網の網を持ってきた人がいるとの事。
さすがにそれはどうなんだろうなぁ…

平糠の事

2010年01月21日 | 重慶と浄法寺氏
平泉望む金山マップ完成 陸前高田-気仙沼市の団体
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20100120_11

浄法寺氏の祖、阿闍梨重慶の伝説が残る一戸町平糠にも、金売り吉次伝説の金山がありますね。
この記事を見てから「平糠 金山」で検索してみたんですが、ヒットしたとあるブログサイトで、「畠山重忠は平泉平定の功として平糠一帯に領地を与えられた」という資料があると…

この説、知りませんでしたが実に興味深い内容です。
平糠に畠山氏の領地があれば、そこに重忠公の子である阿闍梨重慶が来てもおかしくないですから。
いつか一戸の図書館で調べてみたいものです。

二戸市の風景 浄法寺城

2009年07月23日 | 重慶と浄法寺氏


 浄法寺氏累代の本拠地として伝えられる。浄法寺氏は、
源義経追討を命じられた畠山重忠の子孫といわれ、14代
重恒の代に南部藩に属したのち、25代重房のとき南部家
臣になったといわれている。この館は南北方面に連なる八
幡館、大館、西館、新城館の四郭でなる。全体の規模は、
東西400M南北700Mとなっている。

新城舘










葉タバコ


北舘


西館?




大館と西館の境目


高台から八幡館を写す

重慶ゆかりの日光 轟城と龍蔵寺

2009年05月25日 | 重慶と浄法寺氏
先日、栃木県の日光市に行ってきました。
まずは浄法寺の祖と伝わる畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が住んだという轟城へ。

轟城への入口は館坂上のバス停のそばにあります。案内板が建っていますが小さいので見逃すかもしれません。
轟城の轟は「とどろく」と読みます。





バスの時刻・運賃案内(PDF)


轟城


井戸跡?











石橋


続いて、重慶が庵を建てたことに始まるという龍蔵寺へ。
案内板があるかと思い、探しましたがありませんでした。




本堂


重慶阿闍梨塔(墓碑)


墓碑の前で拝んだ後に写真を撮って、東照宮へ。
二荒山神社と輪王寺は時間が足りなくて拝観できず…。
帰りに宇都宮市のみんみん本店に寄って餃子を食してきました。
王将の餃子とそんなに値段が変わらないので驚きました、安いですね・・・・


平成の大修理、期間は平成36年(2024)まで予定されています。


埼玉のSAで発見、天地人のサクマドロップス


浄法寺城跡 板石塔婆

2009年04月09日 | 重慶と浄法寺氏
以前、HPの掲示板に書いたことですが、ブログでも板石塔婆について紹介します。



板石塔婆とはその多くが鎌倉時代から室町時代に作られた追善供養塔であり、
関東武士の本貫地とその所領に限られるという。
主に武士、貴族が作らせた物である。畠山重忠の本貫地である現在の深谷市にも多い。

これは当家の私有地にある板石塔婆。城跡内北館に在り、浄法寺氏に関係すると思われる。
制作年代は不明で何故日輪が刻まれているのかは分からない。

刻まれた文字の中に即雪浄心信士とある。裏には何も刻まれていない。道号に即雪、戒名に浄心、そして位号に信士と書かれている。
浄心の浄は出が浄法寺の一族であることを連想させ、信士は在家の者に与える位号だが、これは庶子の流れを意味しているのではないか。
嫡流ならば恐らく居士号であると考えれられるからだ。この板石塔婆に年号が書かれていない為、その時代の当主、子の誰か特定できない。
浄法寺氏の墓所と同じくいずれ調査されるべき物だと思う。だが、埋墓であると思われる墓所を発見するのは難しいかもしれない。

浄法寺氏の墓所があったと考えられる場所は、浄法寺城の城内(西舘の福蔵寺、大館の旧尋常小学校跡地
、北舘の上野(写真の塔婆付近)、一戸平糠の畠山家等があるだろう。
数十年も昔の事だが、浄法寺尋常小学校があった場所から骨が見つかっている。
年代など詳しいことは不明である。

今から何十年前の事だが、役場の方がこの板石塔婆を知り、岩手大学に調査を依頼したことがある。
だが回答は「詳しいことはわからない」との事だったようだ。
当時、この郭は城跡であることが判明しておらず、平成に入ってから城跡の一部と判った。
当時の町民、そして今の町民でもこの地に城跡が在る事を知らない人が多いだろうと思う。
浄法寺城の郭には八幡館、大館、西館、新城館、そして北館(仮称)があるが、
それらは単に地名としてしか捉えられていない事が多い為だ。
当然、それらの事を教える事ができなかったから、山(ほとんどは畑だが)に在る石碑のまま終わってしまったのではないか。
この板石塔婆も是非調査して頂きたいものだ。

尚、町内に鎌倉時代の物とされる浄法寺城主の乳母を祀ったという宝篋印塔がある。
以前、掲載された本(いわて旅街道)の地図を基に探したが見つからなかった。
私は浄法寺氏の祖、重慶の遺児重基の乳母ではないかと考えている。