盛岡市本町に浄土宗のお寺、大泉寺があります。
元々は三戸にあったお寺で、盛岡城築城と同時にこの地に移転してきました。
三戸大泉寺の跡地には末寺の長栄寺が建立され、南部氏26代当主南部信直の次女「檜山御前」の五輪塔が残されています。
檜山御前の檜山は檜山城主秋田実季の弟英季に嫁いでいたことが由来です。
おかんの墓
おかんの顕彰碑
おかんの父であるこの畠山重勝、恐らくは浄法寺氏の一族であると思われますが、詳しいことは何もわかっておりません。
浄法寺氏は政実と信直が争った際、当初日和見をしておりました。
後に修理重安は信直に付くことになりますが、浄法寺氏の家中は一枚岩ではなかったらしく、修理重安弟やその臣「主膳」、浄法寺氏庶流の一部が九戸氏の味方に付きました。
以前、検索サイトで「浄法寺城」を検索した際、大谷吉継が天正十九年(1591) の六月に浄法寺城を攻め落とすとの記載を発見しました。
九戸一揆蜂起に対処するための出陣でありますので、この浄法寺城は現在の岩手県二戸市浄法寺町の浄法寺城の事だと思われます。
この浄法寺城を攻め落とされた当時、修理重安は既に信直に付いておりますので、一戸城が上方の軍勢に落とされた際、修理の弟や主膳等の九戸氏に味方する浄法寺氏の一族はこの浄法寺城に逃げ、篭っていたのでしょう。
浄法寺城が落ちた際、残った浄法寺一族は九戸城に入場したと思われます。
九戸城に入場した者の記録に浄法寺氏の一族であろうと思われる人物が他にもおります。
私は畠山重勝はその一人だろうと考えています。
尚、浄法寺氏の記録に浄法寺城が攻め落とされたとする記載はありません。
修理重安にすれば、一戸城を弟やその臣の主膳に欺かれて追い出されただけではなく、本拠地である浄法寺城を奪われ、上方の軍勢に落とされたという事は恥辱であり、修理の弟が系図上から消された事と同様に記録に残されておりません。
元々は三戸にあったお寺で、盛岡城築城と同時にこの地に移転してきました。
三戸大泉寺の跡地には末寺の長栄寺が建立され、南部氏26代当主南部信直の次女「檜山御前」の五輪塔が残されています。
檜山御前の檜山は檜山城主秋田実季の弟英季に嫁いでいたことが由来です。
おかんの墓
おかんの顕彰碑
おかんの父であるこの畠山重勝、恐らくは浄法寺氏の一族であると思われますが、詳しいことは何もわかっておりません。
浄法寺氏は政実と信直が争った際、当初日和見をしておりました。
後に修理重安は信直に付くことになりますが、浄法寺氏の家中は一枚岩ではなかったらしく、修理重安弟やその臣「主膳」、浄法寺氏庶流の一部が九戸氏の味方に付きました。
以前、検索サイトで「浄法寺城」を検索した際、大谷吉継が天正十九年(1591) の六月に浄法寺城を攻め落とすとの記載を発見しました。
九戸一揆蜂起に対処するための出陣でありますので、この浄法寺城は現在の岩手県二戸市浄法寺町の浄法寺城の事だと思われます。
この浄法寺城を攻め落とされた当時、修理重安は既に信直に付いておりますので、一戸城が上方の軍勢に落とされた際、修理の弟や主膳等の九戸氏に味方する浄法寺氏の一族はこの浄法寺城に逃げ、篭っていたのでしょう。
浄法寺城が落ちた際、残った浄法寺一族は九戸城に入場したと思われます。
九戸城に入場した者の記録に浄法寺氏の一族であろうと思われる人物が他にもおります。
私は畠山重勝はその一人だろうと考えています。
尚、浄法寺氏の記録に浄法寺城が攻め落とされたとする記載はありません。
修理重安にすれば、一戸城を弟やその臣の主膳に欺かれて追い出されただけではなく、本拠地である浄法寺城を奪われ、上方の軍勢に落とされたという事は恥辱であり、修理の弟が系図上から消された事と同様に記録に残されておりません。