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奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

系図上から消えた浄法寺修理の弟

2008年06月03日 | 重慶と浄法寺氏
浄法寺氏には系図上から消えた修理の弟がいた。
時の当主浄法寺修理重安は、南部宗家の家督を巡りって田子信直と自身の弟実親を擁立した九戸政実が争った際、最初日和見をしていた。

信直と政実が争った経緯はおよそ以下の通りである。
南部家24代の当主南部晴政が死去(暗殺と病死説あり)し、後を継いだ晴継が父の葬儀終わらせた帰りに暴漢に襲われ急死した。
南部家の一族や重臣は次の当主を決める為集まり評定が開かれた。

評定で重臣らは晴政長女の婿であり、晴継が誕生するまで養嗣子であった田子信直と、次女の婿である九戸実親を推す者に分かれていた。
田子信直の父は石川高信であり、晴政の父安信の弟であった。
それ故、先々代(実際は先代みたいなものだが)と血縁が近く、それが信直を推す者の理由の一つであった。

評定は九戸氏を推す者が多く、浄法寺氏も九戸氏を押していたと思われる。
その理由の一つは当主重安の先代以前に九戸氏の娘が浄法寺氏に嫁入りしており、九戸氏と縁戚関係にあることだ。
当時九戸氏は宗家三戸氏を凌ぐほどの戦力を持っており、隣接し、「鹿角の大将」と呼ばれた浄法寺氏と並んで鹿角口の合戦で主力であった。

評定で優勢だった九戸氏だったが、信直の参謀といえる北信愛の働きにより信直が南部氏の当主を継いだ。
これを不満に思った九戸氏はその後挙兵することになる。

浄法寺氏も家中は一枚岩ではなかったらしく、修理が日和見をやめて信直側に付き、東氏や上斗米氏と
ともに一戸城を守っていた際、弟やその家臣の浄法寺主膳に欺かれ城を追い出されてしまった。
その後、一戸城は上方(豊臣秀吉の軍勢)の支援を受けた信直側に奪還され、修理の弟や主膳の行方は知れない。

家臣の主膳は「浄法寺」の苗字を名乗っている為、本家に近い一族であろうと思われる。
そして、浄法寺氏の系図上から弟の名を探そうとしても、修理重安に男子の兄弟はいない。少なくとも系図上に記載はない。

のち修理を継ぐことになる重安嫡男の重好には弟がいるが、修理を名乗るのはこれより後である事、系図上に存在する弟に主家に叛いたであろうと思われる該当者はいない。
浄法寺氏の系図から消された修理の弟はさぞ無念であったであろう。                        

浄法寺の粟島神社

2007年06月27日 | 重慶と浄法寺氏
今回は浄法寺の神社を一つご紹介します。
とはいってもこの浄法寺、岩手県の浄法寺(町)ではなく、京都府亀岡市篠町にあります。

何故、京都府の浄法寺に来たかというと、この篠町浄法寺には松岡という地名があるのです。
岩手県二戸市浄法寺町にも松岡という地名があり、鎌倉浄法寺に出家していた重忠の末子は、
二戸郡を領有していた重忠の弟重宗の嫡子が死去して、跡継ぎがいないことから還俗下向して
家を継ぎ、松岡に住んで松岡氏を称したのち浄法寺を号したと云われております。

近くに畑(弾正忠)という、秩父畠山氏の子孫の可能性が高い城主がいたことから、この浄法寺も秩父畠山氏に関係するかもしれないと思い、篠町浄法寺を訪れたのでした。
この篠町浄法寺には浄法寺山があり、その頂上に鎌倉時代に創建されたと伝わる「浄法寺」があったとされ、跡地に粟島神社が建っています。
粟島神社の敷地内にその御堂跡があり、鎌倉時代に廃寺となった「浄法寺」の名残を伝えています。
すぐ近くには丹波浄法寺城跡があり、渡辺美作守の居城と伝えられています。

結果としてこの畑氏は秩父畠山氏の子孫でありましたが、丹波浄法寺の創建に関わることは何も分かりませんでした。

話は変わりますが、この亀岡篠町には足利尊氏が討幕の旗揚げをしたことで知られる篠村八幡宮、明智光秀の居城亀岡城があります。
粟島神社は専任の宮司がおらず、篠村八幡宮の宮司さんが兼務しておられます。
亀岡城は新興宗教団体の本部となっていますが、見学を申し込むことで天守台以外は見学できるようです。

二年も前の事を今更記事にしてみた浄法寺(HNとして)なのでした。

粟島神社入り口


御堂跡


篠村八幡宮


亀岡城外(晴れた日に歩くには最高の場所)


篠村八幡宮
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/hikarimo/jinjya/jinjya-index.html


今東光と浄法寺

2006年10月19日 | 重慶と浄法寺氏
毒舌作家で知られる今東光は天台宗の僧侶であった。
今東光は天台宗の大僧正となり、東北大本山中尊寺貫主を務め、のち浄法寺町にある八葉山天台寺の住職を兼務した。
天台字の住職を兼務することになったのは、明治の廃仏毀釈と昭和の霊木伐採事件で荒廃したこの寺を復興しようと、
山本吉男町長が中尊寺管主の今東光に対談、要望したことに始まる。



就任時に言った言葉は以下の通り。
「これまでの天台衆の坊主はでたらめだった。資金面では総本山(比叡山)にもゼニはないが、私が悪戦苦闘すればゼニを持って駆けつけてくれる者もいる。
だからといって七堂伽藍が建つと思っては困る。
埋もれていた信仰心を鼓舞し、復興を盛り上げるのが私の役目だ。
寺の復興はこれまでに一二、三ヶ所やってきた。私は大工坊主だ」

今氏は天台寺を気にかけながらも、就任の翌年お亡くなりになった。
今氏が亡くなった後、奥方が「天台寺の復興に役立ててください。今大僧正の遺志です」と一千万が寄贈され、その資金を元に収蔵庫が建設された。
今氏の供養塔は、浄法寺氏の後裔で41代目の松岡忠雄氏と佐藤庄逸氏の資金で建立したものである。
(天台寺の方に伺ったところ、本堂に今氏の位牌が安置されているが供養塔はないという)

以前、京都で今氏が重忠の末裔であるとの話しを聞いたことがある。
今氏の今は金に通じ、奥州安倍氏と同族だ。
今氏が重忠の末裔ならば、浄法寺氏の手により、供養塔が建立されたのも「縁がある」というものだろうか。

重慶と小久保家

2006年10月17日 | 重慶と浄法寺氏
埼玉県小川町上古寺(かみふるでら)

浄法寺氏の祖と伝わる畠山重忠の三男重慶は所々を流浪し、いつの頃か、上古寺の高山重遠(小久保晏関入道)を頼り、養嗣子となったと伝わる。
後、慈光寺第二十九世別当となり、引退後小久保家を継いだという。
慈光寺二十七世別当、厳耀は重忠の大叔父と伝わるが、これは同じ大叔父である重遠のことだと思われる。
小久保家裏手の山、高福寺のある土峯山には重慶が重忠を祭ったという塚が残される。



明治の時代に小久保家が墓を建立した。
小久保家には重慶の位牌が残されている。位牌には三部都法大阿闍梨重慶法印、文永元年(1264)二月寂と書かれている。
小久保家の方は、松岡氏が訪れた事があると仰っていた。
松岡氏とは浄法寺氏の子孫で、本家に近い一流である。

今話題の巨人、小久保氏は末裔になるのだろうか。

重慶と浄法寺

2006年10月12日 | 重慶と浄法寺氏
九戸西門、西門(二戸郡)を治めた領主は浄法寺氏である。
浄法寺氏の祖は桓武平氏秩父流畠山氏、畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が祖と伝わっている。
重慶については、浄法寺を始め、各地に伝説が残る。

まずは浄法寺氏の由来をいくつかご紹介しよう。

『奥南落穂集』
畠山庄司次郎重忠三男出家、大夫房阿闍梨重慶、奥州二戸郡浄法寺ニ住シ、
父重忠依讒討死、両兄共殺害ヲ憤リ兵ヲ起スノ企アルヨリ、鎌倉ノ命ニヨリ
長沼五郎宗政討手トシ来リ。重慶誅セラレ其の男幼弱、民間ニ潜シ、
後浄法寺太郎重基トイフ。夫々住居シテ近村ヲ従ヒ一家ヲナセリ。
南部守行公ニ応永ノ頃ヨリ従ヒ、軍功アリ。信直公御大、5千石ヲ領シ、
浄法寺修理重安、九戸攻ニ功アリ、帯刀ト改ム。

『南部藩士由緒記』(南部氏諸士由緒か)
畠山重忠と太郎重保が、奥州の戦功によって頼朝から二戸郡を受けたとする。
その後この地を継いだのは二男であるが、この嫡子が死んだため、
鎌倉浄法寺で出家した者が還俗してこの家を継いだ。

『南旧秘事記』
畠山庄司重忠の後裔也 右大将頼朝公伊達次郎泰衡御退治以後 重忠の弟重宗に二戸郡を賜
(此時畠山重忠の郎等本多次郎近常か二男供して下向故に浄法寺の内本田と伝村有)
浄法寺と唱ふることは 重忠の末子鎌倉浄法寺と云寺に出家して有けるか 重宗の嫡子死去して
嗣子なし 故還俗下向して家を継 仍て家名を浄法寺と号 (元松岡氏と称す) 子孫永く浄法寺に
居住し浄法寺修理代慶長年中岩崎合戦有 此時修理利直公の命に背き (或は岩崎城代被仰付
といへ共修理命に従はすとも云) 浄法寺五千石召放され 重宗より数代二戸郡を領する嫡家此時断絶す
(浄法寺氏は松岡から大館に移住し、西は田山から北は上斗米まで領有したという。その上斗米に本田という地名があり、それが本田の伝村があった場所であろう。上斗米本田に館跡があるというが詳細は不明)

一戸平糠 畠山家の由来
「畠山重忠、小坪の敗戦後、重忠の三男重慶坊なる人来りて、東平に寺院を開き、
地方民をして仏教に帰依せしめ、人民を教化せしが、後此地を去るに臨み一子を残してさる。
そのとき、我が子孫は永く此の地に移住すべし。万一寺院が衰いて信徒なくならば、破壊して家として、
本堂の丸柱を以て家の重要なる所に用すべし…」と言い伝えられ、寺財で作ったという柏の丸柱が残るという。
(この畠山氏の庵(寺院?)は平糠小学校の場所にあった)

頼朝による奥州征討の時に二戸郡と呼ばれるものがあったか、それは明らかではない。
「餃目氏旧記」(余目氏旧記か)によれば、頼朝は重忠を奥州守護に任命しようとしたと云う。
しかし梶原景時の讒言により思い留まったとある。
いつの頃かに、畠山氏分流は宇多源氏の佐々木氏と同じく、今の二戸郡に移住し、二戸氏を名乗ったようである。(天正の頃、九戸政実の家臣に二戸一休斎という人物がいる)
奥州征伐の功で重忠が賜ったと明らかになっているのは狭小といわれる葛岡郡(長岡郡か)だけであり、浄法寺松岡の地頭になったのは同じく奥州征討の功によるものと考えてよいのではないだろうか。

重慶母は「二戸郡史」によれば北条時政の娘、新編武蔵風土記稿 下関の宮之原系図によれば足立遠元の娘という。
足立系図によれば、北条時政の子、北条時房の母は足立遠元の娘である。
重忠の子、重秀の母も足立遠元の娘であり、時政と重忠は義兄弟にもなるようだ。

鎌倉の浄法寺については、江戸時代の編纂物「南方紀伝」に1430年(永享二年)の正月に炎上したと書かれている。
現存していなく、鎌倉のどこにあったかもわからない。また開基も不明である。