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『ハートは心臓にある』 (グリオーマ・脳腫瘍・てんかん発作・へたれ日記)

脳腫瘍(グリオーマ)と共に生き、人生を哲学します。2015年2月に再発・手術、膠芽腫と診断→抗がん剤治療中です。

女子力を上げたい。

2014年06月18日 22時25分02秒 | これまでのこと


仕事とも関係していることなので、
スマートフォンをあれこれいじっています。

仕事ではタブレットPCの
調整を行うこともあります。

でも、僕の指のせいなのか、
慣れていないせいなのか、
相変わらず、入力ミスばかりです。

効率を上げるために機械を買うのに、
これでは効率が良くない!ということで、
タッチペンを買いに行きました。

いろいろな形があったけれど、
一番、かわいいものにしました。

おそらく、ネイルなどに凝っている女性が
タッチパネルを操作する際に使用する
製品だと思います。

パッケージには「女子力アップ」と
書いてありました。

そもそも、僕は男性なので、
女子力はゼロです。

このペンを使ったら、少しは上がるかもしれません。
でも、逆にマイナスになるんじゃないか、との
懸念もあります。

タッチパネル自体の操作性は
格段に上がりました。

特に範囲選択が思うようにできるようになったので
携行する文房具のひとつに加えようと思います。

これを機に女子力も上げようと思います。
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2014年06月15日 22時32分22秒 | これまでのこと


残念なことに、こうしている間にも、
誰かが何かの病気に罹患している。

最近、グリオーマになって間もない方と
知り合い、助言を求められることが増えた。

主にてんかん発作に関わることだ。

僕は医師ではないけれど、
グリオーマ、そして、てんかん発作と共に
何年も生きている。

何度も失敗している。

状況は違っていても、
僕の失敗談だけでも伝えられたら、と思う。

たくさんの仲間と出会ってきた。
その中で感じたことがある。

いかに自分の状況を客観視できるか、
それはとても大切なことだと思う。

僕自身も、もちろんだけど、
自分のことを知るのは怖いと思う。

でも、特にてんかん発作に関しては
どういう状況で起こりやすいか、
また、外出先などで起こった場合、
どのように対応すべきか、を
しっかり考えておかないと、
自分の身を守れない、と感じている。

僕は養護学校(現特別支援学校)の教員だったから
いろいろなパターンの、てんかん発作を見てきた。
本で勉強もした。

だから、自分の発作をビデオに
撮ってもらって研究した。

そのことで余計に怖くなってしまったら、
発作の誘発要因になってしまうから
人には勧められないけれど、
僕は、可能な限り、自分に与えられた条件を
知ろうと努めてきた。

教科書には「受容」という言葉があるけれど、
受容も何も、自分から問題の渦中に
飛び込んでやるぜ!といつも思っている。

そして、発作のときは、
心底怖い思いをしている。
何度喰らっても慣れることは無い。

外側から見てどうなのか、
怖いけれど、そこから目を逸らしたくない。
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絵本

2009年12月20日 23時45分32秒 | これまでのこと


実家で誕生日のお祝いをしてもらいました。


楽しかったです。


母が、昔、僕が読んでいた絵本を見つけたと言って、
見せてくれました。


もともと、絵本はすごいと思っていましたが、
自分が何度も読んでいたものを、
今、改めて読み直すと、
「はぁ~、こりゃ、ちょっとした小説より面白い!」と
改めて感じました。


僕は本を読んだり、文章を書いたりするのが好きです。


でも、それは、根っこに、
幼いころに読んでもらった絵本があるんだな、と感じました。

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31:仕事への復帰

2007年05月12日 08時15分17秒 | これまでのこと

※回想録「これまでのこと」の続きです。
                       →[経緯]

2006年初頭より、
張り切って仕事に復帰しました。
発作はずっと起こってないし、
こりゃー、ヒダントールくん(薬)が
うまく効いちゃってくれてるのかなー。
なーんて甘く見ていました。

この時点で既に、
「おそらくグリオーマですよ」って
言われてるのに、全然、実感無し!
まだまだ余裕で行けるぜー。
あぁ、恐ろしや現実逃避願望。

でも、仕事上の『性能』という点では、
パワーダウンをはっきり自覚できました。

まず、抗てんかん薬、
慣れるまでは眠いです。

仕事で印象に残っているのは会議の場面。
頭の上を、会話がびゅんびゅん
飛び交っていたような気がします。
情報を、さばききれない、という感じです。

けいれん止めの薬を飲んで
ぐっすり眠る子どもたちと
毎日接していたはずなのに、
いざ、それが自分に来るとなると…
やっぱり、びっくりします。

『障害・病気の受容』っていうのは、
本人にも家族にも大切なこと…って、
自分が一番、受容してない……。

僕は一応、そういう施設で働いていたけど、
結局、「障害とか病気とかそういう問題」を
外側から見ていたのだと思います。
とてもとても近い距離に事実はあったのに、
僕にはそれが見えなかった。

とにかく、当時の職場の皆様には
迷惑かけ放題でした。
その節はたいへんお世話になりました。
ありがとうございます。

施設で働いた4年間は、僕にとって、
最良の時間でした。

幸い、僕は、ゆっくり時間をかけて、
自分の「障害や病気」と
向き合う機会を得ました。

これからも考え続けたいと思います。

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30:新しい生活

2007年04月23日 07時47分42秒 | これまでのこと

※回想録「これまでのこと」の続きです。

2005年12月26日 退院
正月は実家で静養
2006年初頭より、仕事に復帰。

新しい生活が始まりました。
実家から電車と自転車を使って、
職場に通勤することになりました。

この時期に関しては、自分でも、
よく思い出せない部分があります。
でも、興味があるので詳しく書きます。
わたしが、自分の病気をどういう過程を経て
「受容」したのか、分析します。

当時のわたしの内面を整理します。

グリオーマについては、医師からの説明と、
インターネット上の情報で知りました。
抗てんかん剤を飲み始め、その後、
この時点では発作が起こっていません。
おそらく、「もう大丈夫だろう」と
考えていたはずです。

当時のわたしの関心事は『仕事』でした。
仕事を辞めたくなかったのです。

『とりあえず様子を見る』という意味での
退院だったと思うのですが、
わたしは、「まだまだ働くことができる」と
真剣に思っていました。

通勤経路が変わったので、それまでとは別の
スポーツジムに入会しました。
当然、親から止められました。
「もう少し、様子を見てからにすれば?」

(覚えていないのですが)わたしの回答は、
『いや、そういう問題じゃないんだ』
と強硬なものだったそうです。

この時点で、既に冷静さを欠いていました。
認めたくなかった。
何とか、“現実”にしがみつこうとしていた。

からだを鍛えようとした、ということは
つまり、左手左足に力が入りづらくなってきた、
ことを自分で理解していたということです。

からだを使う仕事でした。
状況によっては、人の命を預かる仕事でした。
だから、もう、あきらめなくてはいけない。


あきらめきれませんでした。
わたしは、仕事に復帰しました。

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29:桜

2007年04月20日 10時16分24秒 | これまでのこと

昨日のブログにも、
たくさんのコメントをいただきました。
ありがとうございます。嬉しいです。

このブログのテーマというか、
ひとつの結論……
『わたしのスタートライン』について
先に書くことにしました。
☆写真は、先日、近所の桜並木で撮りました。


[2006年9月某日 D病院にて]
(手術も放射線治療も終わった後、です。)

わたしは、
主治医の先生の目を見て言いました。

先生。先生は立派なかたです。
僕も先生のようになりたいのです。
人を救う…ことは
できないかもしれないけれど、
誰かの支えになれるような、
そんな"仕事"がしたいんです。
だから先生、教えてください。
"仕事"をするためには、
自分の条件を知る必要があります。
自分がこれからどうなって、
そしてどのくらいの可能性で、
最終的に、どういうふうに死ぬのか、
今考えられる範囲で教えてもらえませんか?

先生もわたしの目を見ておっしゃいました。
※先生のお話の中で"仕事"に関する
部分だけを書きます。

やることをひとつに絞ってはいけない。
そのひとつがダメになったときに、
次の行動ができなくなるからだ。
できれば複数の仕事を
同時並行で進行させたほうが良い。
期間、については、まず2~3年をひとつの
区切りとして考えた方がいい。
今後2~3年は
まず、再発の可能性は少ないだろう。
はじめから、5~10年計画を立てるのは…
厳しいかもしれない。
短い期間で計画して、うまくいったら、
その期間を延長すればいい。
発作は無くならないと思う。
むしろ増える可能性が高い。
再発は、"大きな発作"という形を伴い、
その後、発作は、さらに増えるかもしれない。
睡眠不足、ストレスはできるだけ避けること。
"仕事"にストレスはつきものだから、
その点は、難しいけれど……。
あと、発作時になどに頭を打たないように
気をつけて。

わたしは、訊きました。
 
「再発後、右手を使って情報を発信することは
 できそうですか?」

「うーん……それはその時に
なってみないと分からない。
(腫瘍は運動を司る部分にあるので)
顔面左手左足は
動かせなくなってしまうと思う。
生存率などについては……たとえば、
1~100までの数字があるとして、jiveくんが、
限りなくその100の値に近いことを、
わたしは願っているよ」

それを聞いて、わたしの中でスイッチが
切り替わりました。パチンっ。
先生、ありがとうございます。
(とにかく、メチャメチャ良い先生なのです)
"あきらめ"ではなくて、"決意"すること。
それがわたしの新たなスタートラインです。

……手術から1年。もう、じゅうぶん、
ゆっくりボーっとしました。

ブログは、始めてもうすぐ3ヶ月。
毎日、文章を考えることは、わたしにとって、
一番の"脳トレーニング"です。
お読みになってくださる皆様のおかげです。
ありがとうございます。

そんなわけで(?)わたしは、きわめて
前向きです。自分と、そして運命とこれだけ
真っ向勝負ができるなんて最高です。
焦りを推進力に変えて、いざ"微速前進"!?

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28:確率

2007年04月19日 06時21分51秒 | これまでのこと


※回想録「これまでのこと」の続きです。

まじめに書きます。(いつもまじめです。)
わたしが、最初に見たネットのページには
こう書かれていました。

『グレードⅡの5年生存率は50%』

ドクターから、おそらく、腫瘍のグレードは
「Ⅱ」であろうと説明を受けていたので、
『あ、自分はこれに該当するな』と思いました。

今、ネットを検索しても、このページは
有りません。生存率の数字も、
上がっています。

だから、あくまでも仮定として話を進めます。

もし『あなたの5年生存率は50%です』
と言われたら、あなたは、
あと、何年生きられる、と思いますか???

不謹慎な質問でしょうか。申し訳ありません。
実際にそれを体験したわたしは思いました。
「あと5年は生きられるだろう」

統計的には、わたしの直感は正しいと思います。
中央値から大きく逸脱するとは考えにくい。

自分のことを冷静に振り返ります。
わたしは当時から、そして今でも、
自分の残り時間を、その"生存率"の年数より、
"多めに見積もって"暮らしています。
少なくとも「5年以下」だとは、考えたことが
ありません。

 どうしてだろう?
 「前向きに生きよう」としているから?
 厳しい現実を見たくないから?
 でも、考えてみれば、
 「前を見る」ということは、つまり、
 「厳しい現実」と向き合うこと、
  ではないのか?
 現実と折り合いをつけ、
  与えられた条件でベストを尽くすことが、
  真に『前向きな生き方』ではないのか?

……考えています。考えるのが好きなのです。

お読みになって、不愉快に思われたかたが
おられましたら、申し訳ありません。

もちろん、わたしは、今も『希望』を持って
生きています。
いえ、今こそ、自信を持って、
強い信念と、意志と、そして希望を胸に
生きていると言うことができます。

そして、ここまで書いたときに、
わたしの『希望』は、そのエネルギーは、
病気のことを知ったわたしの
「(その当時の)絶望感」に
裏打ちされている、と感じるのです。

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27:ネットによる告知

2007年04月17日 08時26分48秒 | これまでのこと

※回想録「これまでのこと」の続きです。

話が前後してしまいますが……。
退院時に、b先生から検査の結果についての
お話をいただき、その際に病名と、
だいたいのことはうかがいました。

でも、b先生の説明の最後が、
「ここで詳細をお話するより、
インターネットをご覧になって
いただいたほうが、良いと思います」
とのことだったので、当然、家に帰って
パソコンのスイッチを入れ、
検索サイトの窓に「神経膠腫」と入力しました。

『いきなりインターネットを見ろ、だなんて
ひどい!』
という声がわたしの周りにもあったのですが…。

少なくとも、わたしは、
b先生が、そのような形でグリオーマについて
"告知"してくださったことに感謝しています。

わたしは、物事が、ゴチャゴチャするのが
好きではないからです。
(ブログの文章はゴチャゴチャしてるけど)

実際問題、開いたネットのページには、
「それ以上でも、以下でもない」ことが書いて
ありました。わたしは、それを見て、
ゆっくり時間をかけて理解することが
できました。

b先生は、きっと、わたしの性格というか
性質を考えて、そのような方法をとって
くださったのではないか、と思っています。
(事実、その後の診察や入院でのご説明は、
とても丁寧なものだったのです。)

☆実は
両親には事前に詳しい話があったの
かなぁ……。
まぁ、どうでもいいや、そんなこと。

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26:引越し

2007年04月11日 09時30分26秒 | これまでのこと

2005年12月26日、
とりあえず(?)退院できました。

でも、b先生から
「いつどんな発作が起こるか分からないから
できればご家族と生活してください」
とのお話があったので、泣く泣く、
一人暮らしを断念しました。

・・・というか、
「帰る場所(実家)がある」ってこと自体、
恵まれていて、感謝しなくちゃ
いけないこと・・・ですよね。
バカ息子でごめんなさい。

幸い、当時の職場は、実家からでも、
通うことのできる距離にありました。

生活の場、だけでなく
もうひとつ、引っ越したものがあります。
「スポーツジム」です。

アパート周辺にあったジムを解約し、
『新・通勤コース』の途中駅前にあった
ジムに入会しました。

……っていうか、やばくないですか??
僕、未だに、このときの自分の行動の
意味が理解できないんですけどー。

このとき、すでに、階段歩いていて、
左足カクン!みたいなことはあったのですが…。

でもさ、
からだを鍛えてどうにかなる問題じゃ
ないよねぇ??(→当時の俺)

あー、でも、認めたくなかったんだろうなー。
当時の仕事が大好きだったから、
一日でも長く、働きたかったんだろうなー。

でも、仕事帰りにジムはマズい…よね。
過度の疲れは大敵なのですよ(→過去の俺)。

当時の俺、知る由も無し!すげぇ、このジム、
でかい風呂が付いてんじゃん!!最高!!!

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25:記憶の整理

2007年04月09日 22時47分01秒 | これまでのこと

荷物が片付きました。すっきりしました。
メモや、手帳、病院からもらった資料なども
整理しました。
ようやく(?)、いろいろ思い出してきました。
(実は、かなり忘れてしまっていた)

記憶と記録の断片をかき集めて、
わたしの闘病記『これまでのこと』の続きを
書こうと思います。

※わたしに関する部分だけが、ほぼ事実です。
 その他の部分は、出来事の“軸”だけを
 残して、あとは、『創作』しています。
 
2005年
12月10日(土)未明?1回目の発作
12月14日(水)未明 2回目の発作
 [検査入院]
12月26日(月)退院

ここまでブログに書きました。

ちょっと思い出したことです。
14日のけいれん発作のあと、わたしは、
股関節と背中の痛みを訴えたそうです。
でも、何より痛かったのは、うっかり(?)
噛んじゃった舌!

『時間が経てば自然に治りますよ』って、
言われて実際に、今はきれいに治っています。

人間のからだってすごいね。
でも、治る経過を毎日、
鏡に映して観察しちゃった。
うわー、黒いのと白いのと(?)、血の塊
みたいなのが、だんだんくっついて……涙。

もう二度と噛まないぞ!と決意して、
その後は噛んでいません。さすが俺!!

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24:Wについて(2) 

2007年03月22日 07時30分13秒 | これまでのこと

 (続き)

 Wは、わたしが入院したというしらせをきいて、お見舞いに来てくれました。忙しい中、仕事を抜けて、はるばる電車を乗り継いで、来てくれたのです。

 病室に来てくれたWに、わたしは言いました。

 「あのとき、免許のこと、気がつかなかったよ、ごめん」

 Wは、何もこたえませんでした。握手をして、Wと別れました。

……

 わたしはこれまで、何度も書いてきました。“重度心身障害者総合施設”で働いていた、とです。

 それは、過去にこだわっているとか、知識や経験を自慢するとか、自分の考えの正しさを示そうとしているとか、そういう目的ではありません。

 むしろ、自分が、どんなに愚かであるか、それを見つめ、記録したいのです。
 
 施設で働いていた頃は、てんかん発作、けいれん発作を目にすることは、日常でした。脳にしょうがいを持っておられるかたが大勢いらっしゃったからです。

  “てんかん”という“しょうがい”を持ちながらも、薬で発作を抑えて、暮らしておられるかたは、たくさんいます。しかし、運転免許となると、取得が難しいかたも、中にはおられます。

 もっと早く気がつくべきだったのです。“知っていた”のに、でも“分からなかった”。

 Wは、何もこたえなかったけれど、わたしを責めることもしませんでした。お見舞いにきてくれた。ありがとう。嬉しかった。
 
 ……頭の中に、解けないパズルがあります。それはきっと、決して解くことのできないパズルです。でも、わたしは考え続けたいと思います。

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23:Wについて(1)

2007年03月21日 12時32分49秒 | これまでのこと

 「22:告知の瞬間」の続きです。そのとき、わたしが感じた3つ目のこと……学生時代の友人、Wについて書きたいと思います。

 学校を卒業してからは、疎遠になっていたのですが、あるとき“久しぶりに会おうか” ということになりました。

 Wは酒を飲みません。でも、『オマエだけ飲めばいいよ。俺はウーロン茶でいいから』と言ってくれたので、居酒屋で話をしました。

 たまたま、話が、車のことになりました。当時、わたしは念願のマイカーを手に入れて、 有頂天だったのです。

 『俺、運転免許取ってないんだよね』というWの言葉に、わたしは「え?酒はともかく、免許なんで取らないの?」と、たずねました。
 
 Wは、その“理由”を言いました。

 「えーっ?そんな“理由”なの??免許、取ればいいじゃん。絶対楽しいって。」

 わたしはふざけて、Wに、免許取得を、強くすすめました。
 
 そのときは分かりませんでした。でも、時間が経つにつれ、彼のこたえた“理由”が、わたしの中で違和感となって、何か、どこか、心にひっかかっていました。

 彼の“理由”は、“人に訊かれたときのために予め用意されたもの”のように感じられたのです。

 ……

 「脳腫瘍、グリオーマ」という病名を告げられたとき、わたしの頭の中で何かがパチンとはじけました。“これだ……!”

 (続く)

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22:告知の瞬間

2007年03月19日 13時54分11秒 | これまでのこと

 まじめに書きます。(もちろんいつもまじめに書いています)

 「現代医学では治せない」「インターネットの情報以上のことは言えない」とお話をいただいても、正直、『え?』という感じでした。

 もちろん、場の雰囲気、特に看護師長さんの険しい表情から、『あまり良くないことだ』というのは分かりました。

 人生はテレビドラマではありません。でも、わたしという人生の舞台においては、わたしが主人公です。それはわたし以外の人も同様だと思います。

 わたしがその瞬間に感じたことは、『え?』という気持ちの他、3つあります。
 
 1:まず、「両親はこのことをどう思っているのか」と思いました。しまった、失敗した、両親に心配をかけている、という気持ちです。

 2:もうひとつ、「『スターウォーズ』が終わっていて良かった」ということです。

 わたしは、映画『スターウォーズ』が大好きなのです。いつもわくわくしながら映画の公開を待っていました。全6部作は、その時点で既に完結。ふーっ、良かった。(←それどころじゃないだろ!と自分でも思いますが、とにかくそう感じたのです。)

 3:もうひとつ、学生時代の友人Wについて考えました。彼については……次の機会に書こうと思います。

 ……感じたことは、いろいろごちゃまぜになっているので、もちろん、その瞬間に上の3つをぱっと思いついたわけではないと思います。

 ただ、わたしにとっては、あまりに印象的な瞬間でした。その日、そして翌日ぐらいに感じたことが、記憶の中でその一瞬に集約されているのだろう、と考えています。

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21:病名告知

2007年03月17日 09時11分18秒 | これまでのこと

 数日後、脳血管撮影の結果がでました。b先生から、病気についてお話をいただけることになりました。

 長机が四角に並べられた、小さな会議室のような場所でした。

 正面のホワイトボードの前にb先生が立っています。左斜めの長机には病棟の看護師長さんが座っておられました。そしてわたしの左がわには両親が座っています。わたしも、もちろん座っています。

 b先生は、ていねいにお話をしてくださいました。お話はとても簡潔でした。

 先生はまず「神経膠腫(グリオーマ)」とホワイトボードに書きました。

 『はじめに申し上げておきます。これは、現代医学では治すことのできない病気です。』

 沈黙。

 『詳しいことは、わたしがここでお話するより、インターネット上の情報をご覧になっていただくのが良い、と思います。グリオーマ、という言葉で検索すれば、たくさん出てくると思います。そこに書いてある以上のことを、わたしは言うことができません。』

 腫瘍のグレードはⅡ、Ⅲである、というようなお話もあったような気がします。でも、とにかく、詳しいことは、実際に腫瘍を採取して分析してみるしかない、というような話だったと記憶しています。

 当時、わたしは仕事に行きたくて行きたくて仕方がなかったので、とりあえず様子をみる、ということになり、退院しました。抗てんかん剤、「ヒダントールF」は引き続き処方されました。 
 
 病院を出て、両親と共に駐車場に向かいました。そこでようやく『インターネットかよ!』とツっ込んでみたものの、両親沈黙。あ、やっぱヤバイ……ですよね、この状況??  

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20:男性の看護師さん

2007年03月15日 08時58分24秒 | これまでのこと

 女性の看護師さんに比べたら数は少ないけれど、男性の看護師さんも病院では大活躍!!すごいなぁ。

 ……脳血管撮影が終了し、病室に戻ったわたしですが、問題はそれからでした。

 動くと、検査の際にカテーテルを刺した、右足の付け根部分から再度出血する可能性があるので、一晩は、ベッドの上に寝たままです。そうなると、排泄もベッド上、ということになります。

 体内に残る造影剤を外に出すためにも、たくさん排尿しなくてはいけなのですが……いざ、尿瓶(プラスチック製です)をあてても、なかなかオシッコが出ない!!

 男性のかた、もし未経験でしたら、ちょっと想像していただきたいのですが、仰向けになったままオシッコするのって難しくないですか???

 『オシッコ出ないです…』涙のナースコールです。焦ってさらに出なくなっちゃう。

 男性の看護師さんが、「んー、じゃ、jiveさんさ、ゆっくり、少しからだを横にしてみて、たぶん、そうすると出やすいと思うよ」。

 まず、看護師さんの、その“ふつう”の態度が、焦ったわたしを安心させます。

 ん、オシッコ出ました!感動しました。「あー、やっぱり“男性の看護師さんがいる”っていうことは、大切なことなんだな」って思いました。

 ……もちろん、その後、手術やら発作やらを経験したので、今ではどこでも排尿可(?)のわたしです。なんでも慣れちゃえば平気平気。
 
 でも、あのときは、ほんとうに助かりました。ありがとうございました。

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