令和時代になぜ憲法改正
(その3) 改憲を求めるアメリカ
2019/10/16 Japan In-depth 古森義久 (ジャーナリスト・麗澤大学特別教授)
▲写真 G20大阪サミットでの日米首脳会談(2019年6月27日)出典: Flickr; The White House (Public domain)
【まとめ】
・軍事的に無力な日本の安保を担ってきた米国が公然と不満表明。
・「小切手外交」が冷笑され、日本は身勝手な異端の国扱いされる。
・日本の憲法改正を求める米国内の声はすでに27年前に存在。
さて日本国憲法とアメリカとの特殊なかかわりの第二は日米同盟という言葉ですべてを説明することも
できる。
アメリカは日本が現憲法のままでは外部からの軍事的脅威に無力となることは知っていた。だから日本の
国家安全保障はアメリカが引き受けるという政策を決めた。1952年4月に発効した旧日米安全保障
条約に基づく同盟関係がその基盤となった。
このときの安保条約は米軍が日本国内の基地を自由に使うことで実際上は日本の防衛をも受け持つという
枠組みになった。だが条約ではっきりと米軍の日本防衛を明記してはいなかった。その点を堅固にした
のが1960年の日米安保条約だった。この条約は現在もそのままであり、日本が外国から軍事攻撃を
受ければ、米軍も共同対処することを規定していた。
▲写真 1960年に効力が発生した日米安全保障条約。外務省外交史料館で展示されている署名(2009年撮影)。出典:Wikimedia Commons; World Imaging
それ以降、現在にいたるまで日本の国家安全保障、つまり自国の防衛はアメリカの強大な軍事抑止力に
依存してきたわけだ。日本はあくまで最小限の防衛力を持つだけで、「専守防衛」という自己規制を
課してきた。この点も異端だった。もちろん憲法が理由である。
アメリカは日本が軍事面で自衛さえも抑制するという異様な態勢を受け入れてきた。日本はむしろ
軍事的に弱いままでアメリカに頼るという構図が歴代アメリカ政権の対日政策の基本でもあった。
換言するならば、日本は世界でも例外的な日本国憲法を保持したままでよいというのがアメリカ政府の
政策でもあったのだ。
ところがいまではアメリカのその対日政策の基盤となる実情がすっかり変わってしまった。意図も認識も
変わってきた。その間には半世紀以上の歳月が流れ、国際情勢が激変していた。
アメリカ側の日米同盟に対する姿勢の最初の変化は1980年だった。その前年の79年末にソ連軍が
アフガニスタンに軍事侵攻した。全面的な軍事占領作戦だった。
▲写真 アフガニスタンに展開するソ連軍(1984年)出典: Wikimedia Commons; Public domain
アメリカの時のジミー・カーター大統領はそれまでの自分の対ソ連観がまちがっていたと宣言し、
ソ連の軍事膨張へのグローバルな対抗策をとった。その際に日本に対しても防衛費を「着実かつ顕著に
増加してほしい」と要請するようになった。それまでの対日安保政策からは画期的な変化だった。
ただし日本はその要請にほとんど応じなかった。
▲写真 ジミー・カーター第39代大統領(1977年1月)
その後の1980年代は日本経済の膨張の時期でもあり、アメリカには日本からの自動車、電気製品など
良質で廉価の商品がどっと入り、米側企業が退潮した。日米貿易摩擦である。この時期には日本が
防衛面でソ連の脅威に対応する負担を果たさないという米側からの抗議が起きた。日本の防衛面での
「ただ乗り」非難だった。
だがそれでも日本は東西冷戦中、自国の防衛は日米同盟によってアメリカに依存するという基本枠組み
を保ち続けたのである。憲法9条による自国防衛の欠落をアメリカの軍事力で補うということだった。
アメリカ側でもこの枠組みを保ち、日本の防衛の負担を肩替わりする意図は揺らいでいなかった。
ところがアメリカ側では1991年ごろから日本の防衛政策に対して、より公然とした不満を表明
されるようになった。この年はソ連の共産党政権が完全に崩壊した東西冷戦の終わりを画していた。
国際的な脅威の形態や特徴が変わってきたのだ。
1991年1月からの第一次湾岸戦争ではクウェートを軍事占領したイラク軍を撃退する多国籍軍の
先頭に立ったアメリカは日本にも直接の貢献を求めた。だが憲法により集団的自衛権の行使も海外での
戦闘もできない日本は非軍事要員の派遣さえできず、カネだけを払った。日本のこの態度は国際的に
「小切手外交」として冷笑された。日本は国際平和のためにも、同盟国支援のためにも、実際の
防衛行動はとらない身勝手な異端の国とレッテルを貼られるようになったのである。
▲写真 湾岸戦争、砂漠の嵐作戦。米空軍戦闘機(1991年)出典: Wikimedia Commons; U.S. Air Force (Public Domain)
アメリカ各界でも日本が多国間でも二国間でも他国と対等な防衛努力ができない状況は日米関係に
とっても有害だと批判する向きが増えてきた。
そんな時期の1992年、アメリカでは日本に憲法の改正を公の場で求める動きが初めて起きた。
ワシントンの保守系の大手研究機関「ヘリテージ財団」が「日本の国民精神の再形成」と題する報告書で
日本を責任ある同盟パートナーとするためだとして日本国憲法改正を提言したのだった。この提言は
厳密には当時のブッシュ政権に対して日本の憲法改正を非公式な形で促すことを勧告していた。
▲写真 ヘリテージ財団 出典: The Heritage Foundation facebook
「日本は憲法ですべての力の行使を否定したため、政府も国民も力の行使が重要な要因となる現実の
国際情勢を正しく理解できなくなった。国際平和維持活動にも参加できず、同盟国のアメリカの軍事
行動も助けられなくなった」
「アメリカ政府はいまや日本に民主主義を守るためには力の行使の可能性が否定できないことを
認識させ、自国が全世界でも例外だという意識をなくさせるためにも日本に非公式に憲法改正を
促すべきだ」
こんな趣旨の提言は傲慢な基調でもあったが、日米同盟の強化という目的は前向きだった。
いまトランプ大統領が語る日米同盟不公正論と根も幹も同じくする改憲の勧めは、すでに27年も前に
アメリカ側に存在したのである。
(その4) カラスも行使する集団的自衛権
写真:日米共同統合演習(2016年)出典:防衛省統合幕僚監部ホームページ
【まとめ】
・日米同盟の片務性への不満が一般の米国民に広がる危険あり。
・護憲派主張の欠陥は国際環境を無視する点。自然の摂理にも反する。
・憲法論議には米国の動向と国際的な視点踏まえる姿勢が不可欠。
そして2019年の現在、アメリカ側では日本が憲法を改正して、防衛面で普通の国となることが
日米同盟への寄与となり、米側の国益に資するという認識が超党派で定着してきた。
この流れは長年の「日米安保はビンのフタ」という沖縄駐在のアメリカ海兵隊司令官の言葉に象徴された
「日本は軍事面で抑えておいたほうがよい」という思考からの脱却だった。その変化の理由はまず
国際情勢の変化と米側の負担過剰の意識に加え、同盟パートナーとしての日本への信頼の増大でもあった。
だがアメリカ政府は日本に憲法を改正してほしいとは公言はしない。他国の憲法の扱いに要求をぶつける
ことの不適切さを認識しての配慮だろう。
▲写真 海自護衛艦「かが」を視察する日米首脳(2019年5月28日 神奈川・横須賀市)出典: Flickr; The White House (Public domain)
しかしアメリカ側の現状への不満はもう明白なのだ。トランプ大統領が日米同盟の不公正さをたびたび
指摘するのも、その表れである。同大統領は日本の集団的自衛権の禁止から生じるいまの日米共同
防衛面での片務性をもはや有害だとして批判するのだ。その批判を延長すれば日本の現行憲法の特殊性
にぶつかることは言を俟たない。
こうした状況はアメリカ側での日米同盟堅持の政策にもやがては影響しかねない。同盟への支持が
揺らぎかねない。「日本とのこんな不公正な同盟をなぜ維持するのか」という疑問がアメリカ側一般
レベルでも広がる危険さえあるのだ。
そしてさらに危険なのは現在の日米同盟のままではアメリカが中国や北朝鮮との万が一の軍事衝突の際に
日本をともに戦う味方として当てにはできないという懸念である。
現実のアメリカの抑止力、戦闘力でも日本が米軍と行動をぴたりと一致させるか否かでは重大な
違いがある。要するにいまのままではアメリカからみれば、本当の危機に面したときに日本が完全な
仲間なのかどうかがわからないということなのだ。
こうみてくると日本の憲法改正論議ではアメリカの意向はやはり主要な要因とみなさざるをえないことが
明確となろう。
日本では憲法改正は「日本を戦争のできる国にさせるからよくない」という主張がある。
「平和がなによりも大切だから」という改憲反対のスローガンも聞かれる。いずれも日本国の安全や
防衛を無視する情緒的な政治プロパガンダである。
この種の主張に従えば、日本は自国を守るためにも、自国民の生命や生活を守るためにも、物理的な
防止策をとってはならないことになる。自衛のための戦いも禁ずると述べているのだ。
その通りになれば、どうなるか。
わが日本国はいかに小規模の武装集団によってでも外部から攻撃された場合、あるいは攻撃するぞと
脅された場合、一億数千万の国民全体がその外部からの無法集団に対して即時、自動的に全面降伏
することになる。なぜなら一切の戦いはいけないからだ。
日本国内の治安を考えても、この「戦争はよくない」式のプロパガンダの虚構は明白である。日本国内で
凶悪犯罪が起きて、その犯人が武器を持って抵抗するとき、警察は実力行使での逮捕はできないのだ。
なぜなら「戦うことはよくない」からだ。
この点で最近、私が強い説得力を感じさせられたのは昭和天皇のご発言記録だった。この8月に
報道された初代宮内庁長官の田島道治氏が記したという昭和天皇発言録に以下のお言葉があったという
のだ。
「軍備といっても国として独立する以上必要である。(そのために)憲法を改正すべきだ。
(中略)警察も医者も病院もない世の中が理想的だが、病気がある以上、医者は必要だし、乱暴者がある
以上、警察も必要だ。侵略者のない世の中には武器はいらぬが、侵略者が人間社会にある以上、
軍隊はやむをえず必要だということは残念ながら道理がある」
▲写真 日本国憲法に署名する昭和天皇 (1946年11月3日)出典: Public domain
1951年春、日本の憲法ができて4年ほど、独立を翌年に控えての昭和天皇のご発言だったという。
ここで強調された「道理」に反するのがいまの憲法であり、その「道理」を無視するのが、なにが
なんでも憲法を変えるなと叫ぶ勢力なのである。
自国を防衛するための物理的な手段での抵抗や抑止をも「危険」だとするいまの護憲勢力の主張は、
自然世界のごく単純な道理にも反していると、私はまじめに思う。
護憲勢力は日本が自国防衛のためにも戦争はしてはならないと主張する。独立国家がみずからを
守るための物理的な阻止行動を一切、とってはならないというのだ。残された唯一の選択肢は降伏である。
自国の放棄である。
この主張は人間の生命の本質に反する政治デマゴーグを思わせる。
なぜなら自分の生命に危害が襲う際に自分を守らないのはふつうの人間ではない。生きるという行為は
その行為の否定を否定することが不可欠なはずだ。
極端にいえば、命ある人間が自分の肉体にナイフが刺されるそのプロセスを熟視してもそれを黙視
するだけで、阻止してはならない、というのがすべての戦いの禁止論なのだ。
人間だけではない。カラスもリスも自分の生命を守るためには戦う。いや自分だけでなく、子を守る
ために外敵と戦う。冗談ではなく、カラスもリスも個別の自衛権だけでなく、集団的自衛権をも行使
するのだ。自分が攻撃されていなくても、愛する子への襲撃を防ぐために戦うのである。
これはもうほぼ冗談の領域だが、先日、朝日新聞にある種のアブラムシの生態についての記事があった。
木の株の内部に生殖するそのアブラムシ集団は外部から外敵が木株に穴を掘って侵入しようとすると、
うちの一匹が自分の全身をその穴の出口に貼りつけ、みずからを犠牲にする危険を冒して残りの仲間の
アブラムシの生命を救うのだという。
これも自衛の戦いではないか。日本のいわゆる護憲派はアブラムシにも戦いは危険だからそんな抵抗は
するなと指示するのだろうか。自己に対する危険を物理的に防ぐこと、つまり戦うことを、すべて事前に
禁止するというのはこのように自然の摂理、生命の摂理にも反するのである。
「平和」という言葉を叫ぶことで憲法改正に反対する勢力のさらなる欠陥は国際環境を無視する点
だと思う。国家にとっての平和とは国内の治安だけではない。戦争がない状態が平和であれば、
問題となる状況は国内の治安ではなく日本と外部勢力との関係となる。
▲写真 平和安全法制を戦争法と呼ぶ野党、左翼、 首相官邸前でのデモ (2014年6月30日)出典: Flickr; midorisyu
つまり平和か否かは日本にとって外国との武力衝突、あるいは武力での威嚇がない状態が第一義となろう。
だから日本を取り巻く国際環境、つまり外国の動向がどうであるかが平和か否かのカギとなるのだ。
だがいま日本国内で「戦争は絶対によくないから改憲はよくない」と主張する側は日本の国外の情勢
に触れることがまずない。一国平和主義なのである。
だが現実には平和というのは一国と他国との関係を指す。だから日本の外部の状況を考えない日本の
平和というのは矛盾であり、虚構だといえる。
令和の新時代の憲法論議にはアメリカの動向だけでなく、こうした国際的な視点をも踏まえての現実的な
姿勢が欠かせないと痛感する次第である。
この記事は日本戦略研究フォーラム季報(2019年10月刊行)に掲載された古森義久氏の論文の転載です。