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<大阪地震>震度6に大騒ぎになったが…日本、歯車のように動いた/ 3.11経験した中国人:大地震後に感じた日本人の落ち着きと秩序

2018-06-21 20:11:49 | 天災・地震・台風・豪雨・火山・大火災

<大阪地震>震度6に大騒ぎになったが…日本、歯車のように動いた 

 2018年06月19日08時04分    中央日報

「震度6」の地震で日本列島が大騒ぎになった。


  18日午前7時58分ごろ、大阪府北部地方を震央にマグニチュード(M)6.1の地震が発生した。


  地震の客観的な大きさを測定する「マグニチュード」とは違い、相対的な揺れを強度で示す「震度」の場合、

大阪市北区や高槻市などでは「6弱」が、京都府の一部では「5強」が、兵庫・奈良・滋賀県の一部地域では

「5弱」が観測された。


  日本気象庁が発表する震度は揺れのない0から最大7まで(5と6は強・弱に分けられている)全10段階ある。

6弱は全体10段階中8段階目に該当する。最近10年間、震度6弱以上の地震は日本で5回あった。

だが、大阪府では1923年観測開始以来初めてだ。


  この日、近畿地方の大部分で震度2以上の揺れが観測された。瀬戸内海を間に挟んだ四国でも震度2~4の揺れがあった。


  今回の地震で、大阪市東淀川区の80代男性と高槻市の9歳の小学生が崩れた壁の下敷きになって亡くなるなど

4人の死亡者が発生した。けが人も300人以上発生した。 (死者は5人になりました)


  新幹線の一部区間をはじめ、鉄道の大部分がしばらく運転を見合わせ、高速道路も通行止めになった。そのため、

出勤途中の市民の足に大きな乱れが出た。停電と火災、建物破損の届出も相次いだ。

  だが、日本社会の対応は歯車のように組織的だった。地震発生直後、NHKはもちろん民間放送も災害放送体制に入った。


  地震発生2分後の午前8時、首相官邸と各政府部署で対策室が稼動した。それから3分後には安倍晋三首相が

「人命第一の基本方針で政府一丸となって対応せよ」とし

(1)早急な被害状況の把握(2)被災者の救命・救助等の災害応急対策(3)避難や被害等に関する国民への適時的確な情報提供--

に取り組むよう関係省庁に指示した。続いて、防衛省・国土交通省・厚生労働省・文部科学省など関連部署大臣の

指示が現場に伝えられた。


  8時20分には自衛隊のヘリコプターが被害地域の上空から撮影した映像を首相官邸対策室に送った。

近隣の敦賀原発、高浜原発、大飯原発などで特別な異常兆候は発生しなかったという点もすぐに報告された。

8時31分に菅義偉官房長官が、その27分後である8時58分には安倍首相がカメラの前で政府の対策を明らかにした。


  地震発生から1時間も経たないうちに、国土交通省がまとめた報告書には、高速道路の区間別統制状況

(西日本高速道路が管理する9路線10区間の通行止め、阪神高速全区間の通行止め)と鉄道運行状況、

点検のために一時的に閉鎖された被害地域内3カ所の空港の運営再開時間や予定時間が一目瞭然に把握できるように

整理されている。


  気象庁は記者会見を通じて「地震発生後1週間ほどは最大震度6弱の地震が再び起きる可能性がある」と国民に

注意を呼びかけた。


  この日、安倍首相は「公共交通やガス、水道など、被害地域の生活不便を解消するために注力する」という立場を

明らかにした。


  ガス管の復旧には時間がさらにかかるとみられているが、大阪を中心に17万世帯で発生した停電は3時間ほどで

すべて復旧した。東海道新幹線(東京-新大阪区間)は午後1時ごろ、山陽新幹線(新大阪-博多区間)の運行は

午後3時ごろにすべて正常化した。


  2時間30分ほど電車に閉じ込められていたというある市民は、NHKインタビューで「素早い案内放送と駅員さんの

頑張りのおかげで、乗客は全員、動揺せずに秩序整然としていた」と話した。


  この日、SNSでは「動物園からシマウマが逃げた」「京セラドーム大阪の屋根に亀裂が入っている」等の

偽ニュース、さらに「在日外国人の窃盗・強盗にはくれぐれも注意を」という差別的内容が拡散された。

だが、こうした投稿に対して「差別的発言はやめよう」とする批判の書き込みもSNSに多く掲載されたと

NHKは報じた。


  一糸乱れぬ対応にもかかわらず、日本国民の地震への恐怖はさらに高まっている。最近、千葉や群馬県などでも

強い地震が相次いで発生したためだ。東北大学の遠田晋次教授はNHKに対し、「大阪を南北に伸び、大地震を

引き起こすと想定されている『上町断層帯』がずれ動いたかどうかは現時点ではわからないが、断層帯の北端の

地下の深い場所が動いた可能性もある」とし「震源の周辺には活断層が多く、今回の地震をきっかけに地震活動が

活発になる可能性もあるので今後も注意が必要だ」と注意を促した。


 吉村大阪市長も迅速な対応を行った。 地震発生6分後からツイートで状況報告、9時過ぎには学校に休校指示。

ちょっと学校に混乱がありましたが、既に登校した児童の安全の確保、インフラへの迅速な対応をした。

大阪市の対応・現状報告や注意喚起などについて、17時時点で27件のツイート・リツイートを行っている。

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2011年 3.11東日本大震災を経験した中国人

大地震後に感じた日本人の落ち着きと秩序

 「北京週報日本語版」2011年3月14日  北京週報


 東京で3.11大地震を経験した後、私が最初に感じたのは「人生が経験すべきことは全部経験した」だった。

死を恐れていないわけではなく、生きている間にこれほどの大地震を経験し、さまざまなシーンを体感し、

この目で目撃し、この耳で聞いて、大災難を生き抜いたような心持ちになったのだ。


11日午後2時46分、日本東北部の海域でマグニチュード(M)9.0の地震と津波が発生し、多くの死傷者が出ている。

東京でも震度5強を記録し、大きな被害を受けたわけであるが、市内が秩序立ている。

写真は隊列を並んでバスを待つ東京市民。


一、地震後の秩序整然とした避難

3月11日、金曜、私はオフィスで企画書を修正していた。突然、机や椅子が揺れ始めた。

十数秒後、状況がおかしくなってきた。机が移動し始めたのだ。私は机の下にもぐりこみ、手で頭部を守った。

日本で受けていた地震防災教育で、地震の時は慌てて逃げたりせず、まず机の下にもぐるように教えられていたのだ。

会社は8階にあり、激しく揺れた。みな互いにぴったりと並んで、一列になってビルを下りた。


避難の過程を通して取り乱す人は見られず、大声で叫ぶ人すらいなかったと記憶している。外には開けた広い

場所があり、私たちが避難してきた時すでに多くの市民がここに集まってきていた。私は言葉少なく、

ただ静かに周囲を見回し、地震後の人々の様子を見ていた。


西池袋公園付近の広場は避難してきた市民であふれていた。私は人の流れとともに秩序を保って移動した。

どの交差点にも警察がいて、車と人の交通整理に当たっていた。移動の途中、どの電話ボックスの前にも家族に

無事を伝えようとする人がいた。私が感動したのは、彼らが先を争ったりせず、静かに長い列を作っていたことだ。

池袋のようにさまざまな人々が集まる複雑な場所でさえ、秩序を乱す人は一人もいなかった。通りかかった

電話ボックスには中国人の姿も見られた。彼らは方言で故郷や肉親への思いを話しあっていた。


避難する途中で、人々はベビーカーを押す人に進んで道を譲り、子供が好奇心から密集した人の群れを見て

「ワーッ」と泣き出してしまっても、周囲の人はみなやさしい視線を投げかけていて、温かい気持ちになった。

車椅子に乗ったお年寄りが看護師に付き添われて近くの病院から避難してきた。病院からの避難プロセスが

どうなっているかは知らないが、日本では緊急時の病院からの避難はとても効率よく行われると聞いている。

ダウンコートをはおった看護師が二人いて、一人は腰をかがめて歩きながらお年寄りに状態を尋ね、もう一人は

車椅子を押してお年寄りを広い場所に連れていった。


池袋駅西口にはバス停が集中している。遠くから眺めるとバス停の前に人がごった返しているのが見えた。

早足で近くまで行くと、全員がバスを待っていることが分かった。S字形の長い列がくねくねと数百メートル続き、

列の最後尾がどこか分からなかった。私と同僚が最後尾を探そうとしていると、列に並んでいた市民が親切に

教えてくれた。交通整理員はいくらもいなかった。係員の管理もなく、何の指示のない状況でも人々が自覚的に

列に並ぶことに、私は深く感動した。


こんな風にして、私と同僚は広場近くで静かに余震が終わるのを待った。日本の人々が避難の過程で見せた

整然とした秩序と冷静な落ち着きのおかげで平静さを取り戻すことができ、揺れるビルの階段で感じた恐怖を除いて、

心の中は終始安全感であふれていた。

隊列を並んで公共電話を待つ市民たち(渋谷)


二、交通がマヒ、徒歩で帰宅

携帯電話は通じず、鉄道が止まり、私と同僚たちは池袋から動けなくなった。バスは池袋中心部を出て郊外に

向かいはじめたが、道路は想像できないほどの交通渋滞だった。次のバス停まで進むのにほとんど20分、

ひいては更に長い時間かかり、ちっとも進まなかった。バスが動いている時間よりも停まっている時間のほうが

はるかに長かった。混雑する社内で、私たちは互いにぴったりと身体を寄せ合うしかなかった。

真夜中近くになって急に携帯電話がつながるようになり、バスの車内で電話の呼び出し音があちこちで鳴った。

しかし、私を含め電話に出たすべての人が小さな声で何言か話した後すぐに電話を切った。

日本では、公共交通機関の中では電話をしないのがルールなのだ。このような緊急事態でも、人々はいつも通り

ルールを守った。日本人は全く頑固なんだから・・・・・・と思いこそすれ、内心粛然として襟を正す思いだった。


バスはたっぷり4時間余りかかって家の近くのバス停に着いた。そこから先はバスがなかった。タクシーを待つ

長い列がすでに数十メートル続いていた。仕方なく、私と同僚は徒歩で帰宅することにした。

道の両側は歩いて家に帰る日本人でいっぱいだった。黙々と、静かに一歩一歩先に進み、パニックやいらだちは

見られなかった。旧正月の帰省ラッシュ時ですら、これほど「家に帰る」という感覚を深く感じたことはなかった。

地震の後、最初に思い浮かんだのは、私の夢や、疲れや、喜怒哀楽のつまった場所に帰る、ということだった。

真夜中の日本の街角には家に帰りたいと切に望む人々があふれ、通りいっぱいになんとも言いがたい固い決意と

温かさが立ち込めていた。人の流れとともに、私も早足で歩いた。家に着いたのは深夜2時過ぎだった。

池袋を出てからすでに8時間が過ぎていた。


私は日本に来てから3年が経ったばかりだが、東京で100年に1度の災難に遭遇した。

緊急時でも落ち着きと秩序、無私の心を見せた日本には、少なくとも、学ぶところがあると思う。