<大阪地震>震度6に大騒ぎになったが…日本、歯車のように動いた
2018年06月19日08時04分 中央日報
「震度6」の地震で日本列島が大騒ぎになった。
18日午前7時58分ごろ、大阪府北部地方を震央にマグニチュード(M)6.1の地震が発生した。
だが、日本社会の対応は歯車のように組織的だった。地震発生直後、NHKはもちろん民間放送も災害放送体制に入った。
吉村大阪市長も迅速な対応を行った。 地震発生6分後からツイートで状況報告、9時過ぎには学校に休校指示。
ちょっと学校に混乱がありましたが、既に登校した児童の安全の確保、インフラへの迅速な対応をした。
大阪市の対応・現状報告や注意喚起などについて、17時時点で27件のツイート・リツイートを行っている。
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2011年 3.11東日本大震災を経験した中国人
大地震後に感じた日本人の落ち着きと秩序
「北京週報日本語版」2011年3月14日 北京週報
東京で3.11大地震を経験した後、私が最初に感じたのは「人生が経験すべきことは全部経験した」だった。
死を恐れていないわけではなく、生きている間にこれほどの大地震を経験し、さまざまなシーンを体感し、
この目で目撃し、この耳で聞いて、大災難を生き抜いたような心持ちになったのだ。
11日午後2時46分、日本東北部の海域でマグニチュード(M)9.0の地震と津波が発生し、多くの死傷者が出ている。
東京でも震度5強を記録し、大きな被害を受けたわけであるが、市内が秩序立ている。
写真は隊列を並んでバスを待つ東京市民。
一、地震後の秩序整然とした避難
3月11日、金曜、私はオフィスで企画書を修正していた。突然、机や椅子が揺れ始めた。
十数秒後、状況がおかしくなってきた。机が移動し始めたのだ。私は机の下にもぐりこみ、手で頭部を守った。
日本で受けていた地震防災教育で、地震の時は慌てて逃げたりせず、まず机の下にもぐるように教えられていたのだ。
会社は8階にあり、激しく揺れた。みな互いにぴったりと並んで、一列になってビルを下りた。
避難の過程を通して取り乱す人は見られず、大声で叫ぶ人すらいなかったと記憶している。外には開けた広い
場所があり、私たちが避難してきた時すでに多くの市民がここに集まってきていた。私は言葉少なく、
ただ静かに周囲を見回し、地震後の人々の様子を見ていた。
西池袋公園付近の広場は避難してきた市民であふれていた。私は人の流れとともに秩序を保って移動した。
どの交差点にも警察がいて、車と人の交通整理に当たっていた。移動の途中、どの電話ボックスの前にも家族に
無事を伝えようとする人がいた。私が感動したのは、彼らが先を争ったりせず、静かに長い列を作っていたことだ。
池袋のようにさまざまな人々が集まる複雑な場所でさえ、秩序を乱す人は一人もいなかった。通りかかった
電話ボックスには中国人の姿も見られた。彼らは方言で故郷や肉親への思いを話しあっていた。
避難する途中で、人々はベビーカーを押す人に進んで道を譲り、子供が好奇心から密集した人の群れを見て
「ワーッ」と泣き出してしまっても、周囲の人はみなやさしい視線を投げかけていて、温かい気持ちになった。
車椅子に乗ったお年寄りが看護師に付き添われて近くの病院から避難してきた。病院からの避難プロセスが
どうなっているかは知らないが、日本では緊急時の病院からの避難はとても効率よく行われると聞いている。
ダウンコートをはおった看護師が二人いて、一人は腰をかがめて歩きながらお年寄りに状態を尋ね、もう一人は
車椅子を押してお年寄りを広い場所に連れていった。
池袋駅西口にはバス停が集中している。遠くから眺めるとバス停の前に人がごった返しているのが見えた。
早足で近くまで行くと、全員がバスを待っていることが分かった。S字形の長い列がくねくねと数百メートル続き、
列の最後尾がどこか分からなかった。私と同僚が最後尾を探そうとしていると、列に並んでいた市民が親切に
教えてくれた。交通整理員はいくらもいなかった。係員の管理もなく、何の指示のない状況でも人々が自覚的に
列に並ぶことに、私は深く感動した。
こんな風にして、私と同僚は広場近くで静かに余震が終わるのを待った。日本の人々が避難の過程で見せた
整然とした秩序と冷静な落ち着きのおかげで平静さを取り戻すことができ、揺れるビルの階段で感じた恐怖を除いて、
心の中は終始安全感であふれていた。
隊列を並んで公共電話を待つ市民たち(渋谷)
二、交通がマヒ、徒歩で帰宅
携帯電話は通じず、鉄道が止まり、私と同僚たちは池袋から動けなくなった。バスは池袋中心部を出て郊外に
向かいはじめたが、道路は想像できないほどの交通渋滞だった。次のバス停まで進むのにほとんど20分、
ひいては更に長い時間かかり、ちっとも進まなかった。バスが動いている時間よりも停まっている時間のほうが
はるかに長かった。混雑する社内で、私たちは互いにぴったりと身体を寄せ合うしかなかった。
真夜中近くになって急に携帯電話がつながるようになり、バスの車内で電話の呼び出し音があちこちで鳴った。
しかし、私を含め電話に出たすべての人が小さな声で何言か話した後すぐに電話を切った。
日本では、公共交通機関の中では電話をしないのがルールなのだ。このような緊急事態でも、人々はいつも通り
ルールを守った。日本人は全く頑固なんだから・・・・・・と思いこそすれ、内心粛然として襟を正す思いだった。
バスはたっぷり4時間余りかかって家の近くのバス停に着いた。そこから先はバスがなかった。タクシーを待つ
長い列がすでに数十メートル続いていた。仕方なく、私と同僚は徒歩で帰宅することにした。
道の両側は歩いて家に帰る日本人でいっぱいだった。黙々と、静かに一歩一歩先に進み、パニックやいらだちは
見られなかった。旧正月の帰省ラッシュ時ですら、これほど「家に帰る」という感覚を深く感じたことはなかった。
地震の後、最初に思い浮かんだのは、私の夢や、疲れや、喜怒哀楽のつまった場所に帰る、ということだった。
真夜中の日本の街角には家に帰りたいと切に望む人々があふれ、通りいっぱいになんとも言いがたい固い決意と
温かさが立ち込めていた。人の流れとともに、私も早足で歩いた。家に着いたのは深夜2時過ぎだった。
池袋を出てからすでに8時間が過ぎていた。
私は日本に来てから3年が経ったばかりだが、東京で100年に1度の災難に遭遇した。
緊急時でも落ち着きと秩序、無私の心を見せた日本には、少なくとも、学ぶところがあると思う。