遇合庵主人のブログ PART2

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千昌夫「北国の春」

2020年09月19日 | 昭和歌謡

今から20年以上前の1998年の秋のこと。「君、何か、出し物をやってほしい。」北京のある宴会の席で、中国人の先生からこう言われ、私は本当に困りました。実は、それから8年後、北京のカラオケボックスで、私は1999年頃に中国で盛んに歌われた(中国のテレビ・ラジオで盛んに流された)ある一曲を歌い上げて大喝采を浴びたのですが(←自分で言うな!)、この20年以上前の宴会の席では、その歌もまだ知りませんでしたし、手品ができるわけでもなく、唯一参加している日本人として、何をすればよいか、本当に困りました。私の出番の一つ前の人たちが、タテブエでの演奏でした。それを聞いた時、「そうだ!」と思い立ち、演奏終了後に、私の出番でも伴奏してほしいと交渉してOKをもらいました。私の出番となりました。私は、「日本語で「北国之春」を歌います」と言って、タテブエの前奏に続いて、「しらかば~あおぞ~ら」と歌い始めたのです。1番だけ歌って終えましたが、大喝采とまではいかず、拍手もそこそこでした。つまり、受けたわけではなく、反応がいまいちだった、ということです。この理由は、後で判るのですが、出番を終えた私は、ともかく終わったという安堵感でいっぱいで、その宴会がどのようにして終わったのか、記憶に残っていません。
なぜ、私が北京の宴会の場で「北国の春」を歌って、そんなに受けなかったのか。それは、もちろん、私の歌の実力が無いことも影響しているでしょうが、実は、「北国の春」は、中国では、テレサ・テンの中国語によるカバーが大ヒットして彼女の代表曲として大衆に浸透しており、その「北国之春」は、テレサ・テンのオリジナル曲だと多くの中国人が思い込んでいて、私は、彼女の「北国之春」を日本語訳詞で歌った、と思われたからです。実際は逆です。日本人によって日本で作られ(いではく作詞、遠藤実作曲)、そして、日本人の歌手・千昌夫によって歌われ、日本で三年にわたってロングヒットした曲を、テレサ・テンがカバーして中国でも大ヒットし、彼女の代表曲とされているのです。これと同じことは、「蘇州夜曲」や「四季の歌」(中国語で「四季之歌」)にも見られる、という話を聞いたことがあります。
さて、先ほど、「北国の春」は、「三年にわたってロングヒットした曲」だと書きました。千昌夫は、作曲家の遠藤実の門下生。「星影のワルツ」が、実はこの歌も3年かかって売れてミリオンセラーの大ヒットとなり、1968(昭和43)年のNHK紅白歌合戦に初出場しています。千は、この年から紅白には4年連続で出場していますが、その後、低迷期を経験します。でも、この時期に、良い歌が出ているんですよ。それは、1976(昭和51)年リリースの「夕焼け雲」です。1番の「帰らない 花が咲くまで帰らない 帰らない」、3番の「帰れない 帰りたいけど帰れない 帰れない」、ここの歌詞は、田舎を離れ、よその土地で踏ん張って生きている者の胸には、突き刺さるんですよね。横井弘の詞です。
そして、この翌年1977(昭和52)年に「北国の春」が発売されて話題となり、千は6年ぶりに紅白にカムバックします。この歌は、発売初年よりも翌年に、そしてさらに翌々年に、と売れ続けてミリオンセラーとなり、1978(昭和53)年も1979(昭和54)年も紅白では「北国の春」を歌唱しています。1979(昭和54)年の紅白では、白組司会の山川静夫アナウンサーから「3年連続同じ歌」と紹介されました。これはどういうことかと言うと、紅白で3年連続同じ歌を歌唱したのは、千が初めてだったからです。
「北国の春」は、結局、1980(昭和55)年の春頃まで売れたロングセラーです。千は、その後、1986(昭和61)年まで紅白に連続出場しますが、この再び脚光を浴びた時期の千の歌のベースは、望郷だったと言えます。紅白での歌唱歴で確認してみますと、1981(昭和56)年の「望郷酒場」、1982(昭和57)年は歌唱4回目の「北国の春」、1983(昭和58)年の「夕焼け雲」(この歌はこの年に再リリースされました)、1984(昭和59)年の「津軽平野」、1986(昭和61)年の「望郷旅鴉」というラインアップです。北国への望郷の歌(ふるさと演歌)と言えば、千昌夫がそれを代表していた時期が確かにありました。
ところが、それが揺らぎ始めます。歌のことだけに絞って理由を考えてみますと、やはり大きかったのは、青森県出身の吉幾三の台頭だった、と思います。吉幾三が世の中に知られたのは、1977(昭和52)年リリースの「俺はぜったい!プレスリー」のヒットですが、その後ヒットが続かなかったところ、千昌夫に提供した1984(昭和59)年の「津軽平野」がヒットし、演歌の作詞・作曲で頭角を顕します。翌1985(昭和 60)年には自作の「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒットします(「ザ・ベストテン」にもランクインしています)が、コミックソングのように捉えられたのか、年末の紅白には選ばれませんでした(吉は、その翌年から紅白に16年連続出場しますが、この歌を紅白で歌唱したことがありません)。翌1986(昭和61)年、絶対売れないという千の反対を押し切ってリリースしたのが、自作の演歌「雪國」でした。秋から冬にかけて、じわじわ売れてきて、ちょうど吉がNHKの大河ドラマ「いのち」に出演していたことも良かったのだと思いますが、年末の紅白に初出場を果たします。この1986(昭和61)年の紅白には、千と吉が二人とも出場していますが、この「雪國」の大ヒット、そして「津軽平野」「俺ら東京さ行ぐだ」のイメージから、北国への望郷を歌う東北地方出身の代表歌手は千から吉に完全に移ってしまった観があります。流行歌手としての千の紅白出場はこの回で終わり、その位置に吉が座って、両者が入れ替わったのです。それと、この時期は、細川たかしの「望郷じょんから」(1985年)、新沼謙治の「津軽恋女」(1987年)といった北国出身の歌手が歌う北国を想う演歌がヒットしたことも、千ひとりが北国への望郷の歌を担うわけではなくなった一因だろう、と私は考えています。
さて、「北国の春」に話を戻しますと、千は紅白には1986(昭和61)年に出場した後、翌年・翌々年は選ばれず、昭和が終焉を迎えました。ところが、千は、1989(平成元)年の紅白に再出場を果たします。この年の紅白から、放送時間が拡大して2部制になりますが、この年は第1部が「昭和の紅白」、第2部が「平成の紅白」で、千は第1部の出場歌手に選ばれ、なんと5回目の「北国の春」を歌唱したのです。つまり、「北国の春」は、昭和を代表する大ヒット曲だという位置付けで、千は選出されたのです。まぁ、紅白で「3年連続同じ歌」を歌ったのは、昭和時代では、千だけですからね。
千は、これまで、紅白で「北国の春」を6回歌唱しています。その6回目はいつだったのかというと、2011(平成23)年に22年ぶりに出場した紅白においてです。この年の3月11日に発生した大震災で、千の出身地の岩手県陸前高田市は津波で壊滅的な被害をこうむりました。被災地域の復興と被災者への支援が叫ばれていく中で、私は「これは、ひょっとしたら、千昌夫が出場して、「北国の春」を歌うかもしれないな。」と、思っておりました。案の定、千は選出され、22年ぶりの紅白で「北国の春」を歌いました。これが6回目。私は、この時、「北国の春」という歌の持つ生命力を感じないわけにはいかなかったです。
写真は、私物ですが、『千昌夫全曲集~若き日の歌~』というCDです。いやいや、若き日の歌とは言わず、千昌夫には、これからも元気に歌い続けてほしいです。特に「北国の春」には、長期にわたって支持されてきた生命力があるのですから。
最後に、今から想うと、紅白でのかなり象徴的な場面を。1985(昭和60)年、千は白組の3番目に「あんた」を歌唱しましたが、この時の対戦相手は、「愛人」で初出場を果たしたテレサ・テンだったのです。「北国の春」が(東)アジアで広くヒットした千と、(東)アジアの歌姫をNHKが引き合わせたのですが、私に言わせると、これこそ、「北国の春」と「北国之春」の組み合わせではないですか!「北国の春」の紅白同じ歌対決でも良かったなぁ。



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