アイ・コンタクトといえば、イコール“愛コンタクト”! って私たちはすぐに想定してしまいそうですが、本当にそう言えるでしょうか? そこに哺乳類特有の「社会的関与」の表われをみるポリヴェーガル理論も、その気配なきにしもあらずですが、果たしてどうでしょうか?
2人の人間が、30cmの至近距離で30秒間じっと見つめ合っているとしましょう。そこには、たちまち怪しい雰囲気が漂い始めるでしょうが、たぶんその後2人は、 抱き合うか、さもなければ殴り合いになるかのどちらかでしょう。つまり愛と敵対の両極の可能性があります。ケンカをしようとする時か、恋に落ちようとしている(すでに落ちている)時でなければ、ふつう2人の人間が黙ったまま10秒以上互いの眼を見つめることはないと言われます[スターン『母子関係からの出発』,p.25](ただし唯一の例外は、乳児と母親の関係ですが、これもしかしヒトにのみ特有の、生物学的にきわめて稀な例外とみるべき現象です)。
そして実に、(類人猿以前の)ほぼすべての動物にとって、相手をじっと見つめることは敵意の表われであり、アイ・コンタクトはむしろ威嚇の信号行動です(でもそれなら「交感神経系」の「可動化」反応です)。もしこれをじっと見返せば、威嚇の儀式的水準をこえる、本気のケンカを宣戦布告したことになってしまいます。アイ・コンタクトが、動物たちに最も危険な行動として恐れられる所以です。彼らにとって目と目を合わせることは、いわば相手のテリトリーを侵犯することであり、マカクザルなど、出合いがしらのほんの一瞬のまなざしで勝負が決してしまうほどです・・・いうまでもなく、視線をそらした方が負けです。
その場合アイ・コンタクトは、愛か敵対かよりも、愛であれ敵対であれ、それがどこまで本気かの本気度を示す信号になっているというべきかもしれません。とすればアイ・コンタクトはむしろ、自-他の意図の一致・不一致の度合を確認する行動であって、自他の分離を前提としたうえでの自他の融合、三者関係を前提としたうえでの二者の関係ということになります。現にアイ・コンタクトは、哺乳類でもまだ十分には発現しきらず、霊長類、なかでも真猿類でこそ顕著に生じ始める行動であり、またアイ・コンタクトが生じる際の脳内では、背内側前頭前皮質を中心とするメンタライジング・ネットワークが活性化することも確認されてきています[乾 敏郎,『脳科学からみる子どもの心の育ち』p.129]。アイ・コンタクトはいわば愛には愛を、敵対には敵対をもってする返報性(reciprocality)の度合を示す信号であり、返報性のメディアとしてこそ社会的なのであって、単に愛のメディアとして社会的なのではありません。そもそも愛と敵対の両面あってはじめて社会的なのです。
では、愛であれ敵対であれ、もしアイ・コンタクトで自-他の意図の不一致があらわになるとしたら? そのとき私たちが感じるのが恥です。というか、そもそも自分が相手を見るのを相手が見る、または相手が自分を見るのを自分が見るというアイ・コンタクトの構造自体、すでに恥の構造そのものではないでしょうか。現に、相手から見られることなく自分が相手を見る時には少しも感じなかった恥を、自分が相手を見るのを相手が見ているのがわかるや、たちまち強烈に感じてしまいます。そして恥を感じたそのとき、多少とも私たちは凍りつくのです。だとすればアイ・コンタクトは、「社会的関与」の源でもあり、「可動化」の源でもあり、そして「不動化」の源でもあることになります。腹側迷走神経複合体の活性化でもありうるし、交感神経系の活性化でもありうるし、背側迷走神経複合体の活性化でもありうることになります。まさにこの重層性においてこそアイ・コンタクトは社会的なのであり、そこに「社会的関与」だけを見ようとするのは、その表層だけを掬って捨てる惜しむべき営みと言わねばなりません。