
終戦直後、米軍の実弾射撃演習場がつくられた大高根村など(現村山市)で反対運動に立ち上がった住民の歴史を語り継ぐ講演会が10月15日、村山市戸沢地域市民センターで開かれ、37人が参加しました。主催は治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北村山支部。「住民の頭上を米軍の砲弾が飛び交った村」を知る人たちの思いは―。
“あのたたかいを風化させない”
講演会は、県歴史教育者協議会と北村山9条を守る連絡会が共催しました。
はじめに主催者あいさつした治維法国賠同盟北村山支部の大場總支部長は、安保法制廃止、発動阻止が緊急課題の今、大高根軍事基地反対闘争を学ぶ意義は大きいと述べました。
尾花沢9条の会代表の梅津保一氏が「歴史を知ることの重み 碑(いしぶみ)は語る―大高根軍事基地反対斗争闘争記念碑―」と題して基調講演を行い、続いて、大高根軍事基地反対闘争を体験した県歴教協会長の川崎利夫氏と村山市白鳥地区住民の細谷克夫氏が講演しました。
終戦直後に米軍は旧海軍神町飛行場キャンプ(現東根市)に駐留を開始し、1946年6月までに大高根村など1町4村で計4700㌶を接収し3か所に砲座を建設。大高根村などの西部の山の斜面に射撃標的を設置し、同年12月に砲撃演習を開始しました。
砲座と射撃標的の間には住宅、農地、生活道路がある、全国で例のない射撃演習場でした。山肌は焼け、放たれた砲弾が地域の田畑に無数に直撃。時には空中で炸裂し、その破片が民家を襲いました。
乳牛の乳は出なくなり、炭焼きや山菜取りは大きく制限されるなど農耕の自由が完全に奪われました。
1956年12月に地域住民に返還されるまでの間、不発弾の爆発で住民4人が死亡したのをはじめ生命をおびやかし、騒音被害など生活全般に甚大な影響を及ぼしました。
梅津氏は、59年に同市白鳥(しろとり)地区に建てられた「大高根軍事基地反対斗争闘争記念碑」の碑文を一文ずつ解説し、「碑には村の歴史を掘り起こしていくきっかけがある」と指摘しました。
碑文の記述に沿って、反対する住民組織の結成(白鳥更生同志会・34人、53年12月)や、農地をつぶし基地を拡大する強制測量への抵抗(55年)、大高根基地の朝霞移転発表(56年3月)、基地撤去・全面返還までの流れをたどりました。
川崎氏は当時山大生として基地反対闘争に参加した記憶をたどり、弾薬が高値で換金されたことから、子どもを含め村人は生きるために薬莢を集めに山に入り、暴発で犠牲者が次々と出たことを証言。
「反対闘争は基地によって生活を場を奪われ、どうにか取り返そうとの考えからの行動だった」と述べ、沖縄の米軍新基地建設反対運動にもふれ、「心の中に大高根軍事基地反対闘争は大きく残っている。沖縄に連帯しなければならない」と語りました。
細谷氏は、「自分は昭和7年(1932)生まれだが、いまの時代は私の幼い頃によく似ている」と切り出しました。

少年の目に映った終戦時の様子と、占領統治が始まり米軍のジープが村に現れた時のことや、砲座と13基の射撃標的づくりに住民が動員されたこと、昼夜関係なく砲撃演習が連日続いた恐ろしさ、山火事が頻繁に起きても立ち入り禁止令で消火に入れず、真っ赤に燃え続けたことなど生々しい光景を証言しました。
静かな山は弾拾いの場になりました。51年には、着弾地の山に入り不発弾で遊んでいた小学2年生の男の子と女の子が爆発により命を落としました。
細谷氏は、村の若者を中心に軍事基地の存在に疑問の声があがり、反対闘争へと発展した背景と経過を詳しく語りました。
治維法国賠同盟北村山支部の冨樫和子事務局長が閉会あいさつを行い、「歴史を風化させないとりくみが大事だ」と結びました。