エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

教会の変革

2017-05-09 | メッセージ
使徒15:6-11

 
まだ教義が定かではなかった頃。しかし、ケリュグマと呼ばれる信仰告白はそこそこ整っていたと思われます。何を告白したら共同体の仲間に加えてもらえるのか、一定の基準はできていったはずです。ルカはこれをしばらく後の時代から見ていますから、より整った形の信仰箇条を頭に、以前の状況を描いているという図式がここにあると考えてよいでしょう。
 
どんな人からなのか明確にはされていませんが、割礼が救いには必要だという声が出ました。パウロは旅先の教会で、こうした問題にすでに出会っていたはずです。ペトロもいる中で、いわばキリスト教の本部において、この問題が、無視できないものとして現れてきました。論争になったということは、声が一致しなかったということです。しかもそれは、救いとは何かという根幹に関わってくる可能性があり、教会が統一されるためには避けて通ることのできない問題となりました。
 
そこへ立ち上がり、場を一つにしたのは、ペトロでした。コルネリオとの一件があり、ペトロ自身経験があったのです。しかしパウロでは片付けることができませんでした。このとき、パウロの立場は、権威というものがなかったのです。パウロは、後にキリスト教の存続と拡大にほぼ唯一とも言える絶大な力を発揮したのですが、組織の中では一介の伝道師に過ぎなかったようです。
 
ペトロは、使徒たちや長老たちのいる中で、権威を以て発言します。聖霊は、異邦人にも与えられた、と。これを否定する者はいませんでした。そこへ割礼を施すとなると、かつての律法の縛りに逆戻りすることになります。ユダヤ人たちはそれでは救いを全うすることができませんでした。ユダヤ人たちが負いきれなかった軛を負わせることが福音といえるのかどうか、ペトロは問いかけました。
 
ユダヤ人に対して主イエスによる救いが恵みによりもたらされたということに信頼が置けるならば、異邦人にもそれが起こるのは当然だ、という説明です。人々は、これで我に返るようにして、論争は落ち着きまとまるようになりました。但しヤコブが現実的な措置を入れることになり、ユダヤの律法は根強い基盤をもつことは否めませんが、ずいぶんな進歩であったとは言えるでしょう。
 
ペトロの論旨は、確かにまともなのです。しかしそもそも論争というものは、本来混乱すべきでないものについて混乱を極めているものです。概ね会議というものが、意味のない混乱や誤解の中で時間を費やしていたという経験は、殆どの方がおありでしょう。自分がしてきたことは、他人も負担すべきである、という狭い了見が周囲を惑わします。自分だけのこだわりが人々を巻き込みます。常に自分を正義として発言することがどれほど問題を惹き起こすのかを改めて覚えます。
 
自由に意見を言う場は必要です。いつも誰かの言うことだけで決まるような組織の運営は、いずれ破綻するというのが歴史の教えです。日本だけではなくとくにヨーロッパではそうですが、教会が変貌しています。危機であるとも言えます。私たちは、私たちの聞き覚えてきた教義を、この割礼のように、こだわって保持しているのかもしれません。真っ当な意見が実は出ているのに、そんな例はないなどと否んでいないでしょうか。私たちが祈りのうちに変えられていくように、教会もまた、変えられる必要があるのかもしれないのです。
コメント
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