二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

不変の光

2024-07-15 19:02:00 | キリスト教神秘主義



 神秘主義宗教の主な特徴として「光」の体験が挙げられます。そしてそれは普通に見られる光とは異なったものです。これに関しては多くの記録が残されていますがそれらの中でも特に有名な人の体験をいくつか紹介します。
 
 アウグスティヌス(4~5世紀)はキリスト教の神学者。聖ヒエロニムスに助言を求める手紙を出したところ、書斎に光が満ち、ヒエロニムスの声が聞こえたという。

  

 わたしは書物から自分自身にたちかえり、わたしの心の内奥に進んでいった。

 わたしは進んでいったとき、私の魂の目にはそれはなおかすんでいたが、まさしく魂の目の上に、わたしの精神の上に、不変の光を見た。

 それは、肉眼にも見えるような普通の光ではなく、万物を照らすというような光でもなかった。

 わたしが見た光は
 そういう光ではなく

 このようなすべてとはまったく異なったものであった。

 …真理を知るものは
    この光を知り、

 この光を知るものは
     永遠を知る。

 それを知るものは愛である。

―中略―

 天上からあなたの声が聞こえるように思った。そこでわたしは「真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか」とたずねた。

 そうすると、あなたははるか彼方から、

「わたしは
 存在するものである」

  と叫ばれた。

 わたしはこの声をあたかも心で聞くように聞いたので、疑いの余地はまったくなくなり、「造られたものによって悟られ、明らかに知られる」真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう。

 アウグスティヌス/「告白」7巻10章


苦の終極/バーヒヤ経

2024-07-11 21:59:00 | 仏教の大意
 南伝パーリー経典に収められている見聞覚知と自己との関係に関するブッダの簡潔な教え「バーヒヤ経」です。
祇園精舎跡

バーヒヤ経

樹皮衣のバーヒヤは南の島スリランカから長いながい旅の末に、ようやく北方コーサラ国の首都サーヴァッティーにあるジェータ林の園で托鉢中のブッダに会うことができた。

 バーヒヤはその場で教えを求めた。しかし、ブッダは今は托鉢中である、という理由で二回も「後で説法します」と断りました。ところが、バーヒヤは「食べることは何時でもできるが、人はいつ死ぬかわからないのでその前に浄らかなこころを作ることが大事ではないか」と、ブッダを説き伏せて説法を聞く機会を得ました。ブッダはその場で立ったままバーヒヤに説法をしました。


平山郁夫画「祇園精舎 ブッダの説法」

「それではバーヒヤよ、あなたは次のように学ぶがよい。

 見たものの中には
 見ただけのものがあり、

 聞いたものの中には
 聞いただけのものがあり、

 考えたものの中には
 考えただけのものがあり、 

 知ったものの中にはただ
 知っただけのものが
 あるであろう、、と。

 バーヒヤよあなたはこのように学ぶがよい。バーヒヤよ、

あなたが見たものの中には
ただ見ただけのものがあり、

聞いたものの中には
ただ聞いただけのものがあり、

考えたものの中には
ただ考えただけのものがあり、

知ったものの中には
ただ知っただけのものがある。

バーヒヤよ、あなたは
そこにはいないのである。

バーヒヤよ、そこにあなたがいないから、バーヒヤよ、あなたはこの世にも彼の世にもその二つの中間にもいないのである。これこそが苦の終極である。」

 ウダーナ(自説経)菩提の章10


にわとりが先かたまごが先か

2024-07-11 20:48:32 | 哲学
ジレンマDilemma


「鶏と卵のどちらが先にできたのか」という因果性のジレンマの問題があります。


有名なこの問題は、一般的には「どちらが原因として先にあるか分からない」という比喩的な意味で用いられ、古代ギリシア時代から存在していました。

ジレンマとは二句分別のことで、言葉の示すように、ものごとを「真偽」•「善悪」•「白黒」•「大小」など、二つに分けて考える思考パターンのことです。三つに分けるのをトリレンマ、四つに分けて考える思考パターンをテトラレンマ、漢字で四句分別と書きます。


 二句分別は二値論理、二項対立、二分法、二元論などと同じ思考パターンであり、古代ギリシアの古典論理の系統です。ここでは原因と結果の二項対立の真偽是非をどのように考えるかが問われています。

ベン図は、重なる円やその他の図形を使用し、複数の項目の集合や概念の関係を図示します。視覚的に対象物を整理し、項目間の類似点や相違点を強調するために用いられることの多い図です。

二値論理はコンピュータの【0と1】のようにその中間がないのが特徴です。その中間部分、図の【AかつB】の重なり合った部分は古典論理では排除されて排中律とも矛盾律とも呼ばれている場所です。AとBとがそれぞれ独自の存在として区別できなければ名前のつけようがないからです。これを定式化したのが同一律です。

 AはAである。

 BはBである。

鶏は鶏であり、卵は卵であって鶏が卵になることも卵が鶏になることもなく、はっきりと区別されています。

 四句分別のベン図をながめながら考えると二値論理で矛盾だとして排除されていた場所が別の様相を帯びてきます。


相依性

四句分別では鶏と卵を独立した別々の存在と見ず、関係でとらえます。簡単に言えばつぎのようになります。

卵がなければ鶏もいず、

鶏がいなければ卵もない。


相互浸透

相互浸透とは互いに関係する相手の中に入り込んでいる状態のことです。にわとりの中に卵が入り、卵の中に鶏が入ります。

原因の中に結果が入り、結果の中に原因が含まれています。原因と結果が別々にならず個体の中で共存しています。具体的な絵を見ながらなら意味が伝わりますがこれを記号化して「Aの中にBが入りBの中にAが入る」と言うと途端に意味不明なことになります。記号には意味がないからです。


場所

重なり合った部分をどのように解釈するのかは難しいところですが、「場所」としてとらえるのが妥当ではないかと思われます。


共存の場所

共存の場所とは、鶏と卵が単なる結果でもなく単なる準備でもなく、鶏と卵が全体の場所において先もなく後もなく存在している場所のことです。すなわち現実の場所です。先後が生じるのは循環しているものを止めて考えるからです。つまり、止めた時点が始まりであり、かつ終わりというわけです。