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::J'A DORE xx::

   福岡在住25歳♀の日常

ぼくは王さま

2006-05-25 | 本のこと
『ぼくは王さま』というシリーズの本、
多くの人が、一度は子供のときどこかで目にしたことがあると思います。
その王さまシリーズの著者、寺村輝夫が先日亡くなったというニュースを見て、
久しぶりに私もこのシリーズのことを思い出してとても懐かしくなった。

このシリーズ、いわゆる児童向けの本なんだけれども、
子供の憎めないわがままさや傲慢さや、思慮の浅さを王さまに、
そして、そんな子供に振り回され、時にはたしなめる大人達を
王さまの周りの家来たちに投影して、コミカルに描かれたこの作品。
私も好きで結構集めたなぁ。

子供の頃は、ただそのコミカルでちょっと不思議なその世界が
ただ楽しくて、単に『王さまばかだなぁ』なんて思いながら読んでました。

でも、いつぞや本屋でたまたま見かけて、思わず立ち読みをしたときに、
『王さまは子供だなぁ…』と思った自分。
そのとき、あぁ、自分も子供から大人の側に行きつつあるんだな、と思いました。

大人が読んでもきっと楽しい王さまシリーズ。
もう新作が見られないのは寂しいけれど、
きっと私はこれからも折に触れて、懐かしく何度も読み返すことでしょう。

とりあえず、どっかのダンボールにしまってあるやつを引っ張り出して、
無性に読みたい今日この頃です。

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ぼくは王さま
寺村輝夫



白夜行

2006-02-10 | 本のこと
ドラマやってますね、『白夜行』。
でも今日の話はドラマの方じゃなくて、小説のほう。
実はドラマは見てません。
原作を知っている小説の映像化を見るのは、あまり好きじゃないんです。
あまり、自分の中の世界観を壊されたくないので。
でもまぁドラマ化によってまたこの原作も最注目されているようなので、
ちょっとブログで話の種にしてみるかと。

あ、原作を読んだことなくて、ドラマを見てる人はこの先読まない方がいいかも。
ネタバレしちゃうかもw

東野圭吾原作のこの小説、一言でいえば『凄い作品』。
彼の才能はもの凄いと思わざるをえません。
千ページものこの作品、私、一気に読みました。
そのぐらい惹きつける作品です。

主人公2人、亮司と雪穂はの心が一切語られることはなく、
お互いを思う気持ちもほとんと描写されず、
互いが言葉を交わすこともなければ、出会うことも無い。
そんな中で存在する2人の関係はなんと呼べばいいのか。
絆、愛…?
いや、果たして2人の間にそんなものが存在したのだろうか?
とさえ思わせるほど、2人の視点は一切書かれていない。
もちろん意図的に、である。
そのことによって、読み手の想像と興奮をこの上なくかき立てることに成功している。
そして、この話の中には、都合の良い物語にありがちな『偶然』は存在しない。
全てが主人公の手によってもたらされた『必然』なのだ。

ドラマは主人公2人の純愛ものとして宣伝されていたが、
この小説はそんな一面的な話ではない。
もし、ドラマを見て、純愛物語を期待して原作を手にとれば、
間違いなく期待はずれに終わる。
何故なら、これはまぎれもなくミステリーだから。
一切語られることのない2人の関係、胸の内を読み解くミステリーなのだから。


読み終えたあとの、なんとも言えない絶望感と虚無感。そして疲労。
それは単にこの小説が長編だったからではない。
初めから終わりまで、救いが、無い。
あるのは人間の哀しさ、おぞましさ、恐怖、失望。
この本のラストは読み終えた者の中に重たい鉛を残す。

そういう小説がダメではない人、想像力をフルに使う小説がスキな人、
未読の人で、ドラマを見ていないという人。
是非是非、読んで下さい。お願いします。

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白夜行
東野圭吾

『ぼくは勉強ができない』

2006-01-19 | 本のこと
毎日の行き帰りの電車の中ですることと言ったら、音楽を聞くか本を読むか、寝るか。
比率は大体4:3:3くらい。
基本的にあまり乗り物では寝ない方だし
目が疲れたり酔ったりするから車内読書は気分がいいときだけ。
本は読み始めると止まらなくなることがしばしばなので、
電車に持ち込むのは短篇集と決めている。
そんなときに読む私のお気に入りの作家が、山田詠美だ。


私が山田詠美という作家を知ったのは高校生の頃だった。
初めて読んだのは『ぼくは勉強ができない
そこに描かれていた主人公も、当時の私と同じ高校生。

黙々と読んだ。

ひたすらページを捲ることに没頭し、
気が付いたら、「あ、もう終わったんだ」
と、なんだかいきなり現実に引き戻されたような感覚に陥った。

それくらい、ひとつひとつの言葉が濃密で、
私の心を掴んで離さなかった。

そこには私の断片がいるような気がしたから。


ぼくが、昔から憎んだのは、第三者が発する「やっぱりねえ」という言葉だった。
ぼくは、その逆説を証明することで、自分自身の内の正論を作り上げて来たのだ。
それは、ぼくは、ぼくである、というそのことだ。
他人が語れる存在にはならないという決意だ。


                                   『ぼくは勉強ができない』より


主人公、時田秀美の生き方をよく表してる部分だと思います。

秀美は大人から見れば、いわゆる“生意気”で“こましゃくれた”高校生。
なんでも決められた物差しを受け入れることを決してしない。

こういう生徒って、教師からは疎まれる。
自分もそういう子供だったので、よく分かるんだよね(笑)
当然、秀美も教師に疎まれるわけですが、
彼は、「違うものは違う」と躊躇なく言います。
そして、「自分は自分である」とも。

どんなに成績が良くて、立派なことを言えるような人物でも、
その人が変な顔で女にもてなかったら、随分と虚しいような気がする。


こんなことを思っちゃうし、言っちゃう子なんです、秀美はw
教師(や、多くの大人)は「勉強しろ。勉強しなきゃいい大人になれないぞ」という。
その言葉に怯えるように勉強をする子供。
勉強が出来ない自分に「どうせ落ちこぼれだから」と投げやりになる子供。

でも、秀美は違います。
彼は、“いい大人”ということの尺度が一つじゃないことを知っているのです。
そして、其れを決めるのは他の誰でもなく自分だと言うことも。
『ぼくは勉強ができない』と言うのは、そんな彼の、
『ぼくはぼくである』と言う意思表示なのだ。


今でも、たまにこの本を読み返す。
すると、秀美と同じ、高校生だった頃に読んだときとは、また違う気分にもなるのだ。
秀美の青さがやけに目に付いたり、ときにはうっとうしくも感じたり。
でも、その“青さ”を微笑ましく思いながら読む自分。
「あぁ、私も大人になったんだなぁ」と感じる瞬間である。
それと同時に自身の“青かった”時代に想いを馳せては、
ノスタルジックな気分に浸る。

読むべきときに読むべき本と出会う。
人との出会いもそうだが、まさに“運命”というやつ。

高校生のあの時に、私はこの本に出会えて本当に良かった。


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ぼくは勉強ができない
山田詠美


ちなみに、
今、電車の中で読んでるのはコレ↓
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晩年の子供
山田詠美