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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

朝食

2008-07-06 | さくさくコラム

webちくまに隔週で連載中の華恵さんのエッセイを(以前もふれたように)私はとても楽しみにしている。ちょっと前の第48回「朝食を笑うな」はときどき読み返したくなる文章だ。前半は高校の家庭科実習での朝食作りのエピソードが華恵さんらしく軽快に生き生きと綴られている。後半はちょっと重い。「将来どういう人と結婚したいの?」という、この年頃の少女になら誰でもちょっと訊ねてみたい質問に真面目に答えようとした華恵さんのこころに、小学校二年生の頃のある日の朝食風景がよみがえってくる。


簡単に言えば華恵さんのトラウマが引き出されてしまったわけだが、そのあたりの微妙な感情のアヤが見事にすくいとられていて、小説の一場面のようにそのエピソードが胸にくいこんでくる。華恵さんのみつけた「相手の朝食を笑わない人」という答えも秀逸だ。華恵さんの家庭はふつうの家族とちょっと違う。そのことを幼いながらに感じ取っている少女の気持ちを17歳になった今書けるということがすばらしい。


家庭と食の情景とは切り離せない。ことに朝食にはそれぞれの家庭の素顔が出る。華恵さんの見つけた真実はちょっとせつない。

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パソコンの「姿勢拘束性」

2008-07-05 | さくさくコラム

今朝の朝日新聞をパラパラ見ていたら「動けず疲労 パソコン作業」という見出しに目が留まった。「肉体労働は数分で疲れを自覚するが、パソコン作業は実は大変きつい労働なのに自覚しにくく、つい長時間続けてしまう傾向があるのです」という専門家の言葉が紹介されていた。「大げさに言えば、人類に、これほど動かないことを強要するのは、パソコンが初めてなんですよ」とも。


やっぱりねー。動かないことを強要するのは儀式や修行やある種の刑罰あるいは病を連想するが、パソコンがそれ以上の「姿勢拘束性」をもつものだったとは。そう、気がつけばパソコンの前で固まっていることが多い。「机にしばりつけられている」という表現は「パソコンにしばりつけられている」に取って代わられるかもしれない。


パソコン作業をする時には、1時間に10分は席を離れて身体を動かすことをこころがけるといいらしいのだが、これがなかなか。仕事が効率化すればするほど拘束時間が長くなるというパラドックスもある。パソコンの前にすわるとそこから動きたくなくなるのは呪縛の電磁パワーでも出ているのか。好き好んで拘束されている面もあるからますますやっかい。パソコン作業にはご用心。

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初夏

2008-07-03 | さくさくコラム

夏とはいえまだ本格的な暑さをまぬがれている今頃の季節が好きだ。長く尾を引くようなたそがれの空が街を包み込む。ひんやりとした夕方の風が日中の蒸し暑さにとってかわり一息つける。これが真夏だったら容赦ない西日にたそがれを楽しむ余裕はなくゲンナリしているところだ。


井上荒野さんは「そのときを取り戻したくてたまらなくなる」そんな「無数の、とるにたらない最後のとき」を紙ナプキンをたたむという情景からたぐりよせている。食卓の上に置かれた「琥珀色の大振りのガラスの花瓶の中に」紙ナプキンを三角におりたたんで入れるのが子どもの荒野さんの仕事だったという。(日経プロムナード6月28日『最後』)紙ナプキンをたたむのはちょっぴり晴れがましいお手伝いだったにちがいない。私にもおぼえがある。誕生会とかクリスマスがその出番だったように思う。


四辺の端にだけささやかな型押し模様がついた、しゃがしゃがした手触りの白い紙ナプキンを、まず斜めに二つ折りにしてから、両端を折り込んで百合の紋章のようなかたちにする。


「百合の紋章のような」かたちに折られた「しゃがしゃがした手触り」の紙ナプキンというものをあまり見かけなくなったことにまず気づかされた。レストランに行くとテーブルの上に金属製の紙ナプキン立てというのが必ずあった時代がある。今でも置いてあるところはあるが、先すぼまりの三角形をしたものはもう見かけないのではないか、そういえば。ちょっとしたレストランで出されるこのごろの紙ナプキンはもっとソフトでふんわりしておりナイフ・フォークを置いてもゆとりがある大判サイズだ。


たぶん誰かがはじめてティッシュペーパーか、それに類した便利なものを家に持ち込んで、ナプキンの出番はあっさりと失われてしまった。失われた、ということさえ気づかれずに、紙ナプキンをたたんだ最後のときは、日々の中に埋もれてしまった。


荒野さんが愛惜をこめて描き出す食卓の情景に過ぎ去った日々へのおもいがあふれている。


 


 


 

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無数のとるにたらない最後のとき

2008-06-29 | さくさくコラム

井上荒野さんの日経夕刊「プロムナード」コラムの連載を楽しみにしている。「最後」と題された昨日のエッセイもよかった。なかでも心に残るのはこんな言葉だ。


「言い換えれば、無数の、とるにたらない最後のときを積み重ねて、日々は過ぎていくということだ。人は最初のことはたいがい覚えているのに、最後の多くは曖昧になる。」


まったく同じようなことを私もつねづね感じているのだけれど、こんなふうに言葉にすることはできなかった。「無数のとるにたらない最後のとき」をそれと知らぬまにやり過ごしてしまう、そんなことはいくらでもある。そういえばあれが最後だったかもしれないと感慨にふけることもないではないが、日常生活のおおもとは連続線上にあって、そのゆるぎなさに支えられて生きているような気がする。


無数のとるにたらない最後のときを積み重ねていけること、それが生きているあかしであり、そのなかに喜びも悲しみもある。

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泥に抱かれる

2008-06-19 | さくさくコラム

昨日の日経夕刊コラム・プロムナード、アーサー・ビナードさんの「泥にはまって」が面白かった。初体験の田植えでビナードさんは「泥にはまった」と言う。裸足になって田んぼに入りふくらはぎの上のほうまで泥につかったときの感触をこう語る。


少し粘土質で粘り気があり、足を泥にしっかり抱かれている感じだ。


なるほどそんな感じなのか。田植え未体験の私は泥に足を踏み入れるときの感触が気持ちいいものなのかどうか、確かめたことがない。ヒンヤリしているのかそれともなまあたたかいのか、足ならOKでも手はどうだろうとか、未知の世界に想像をめぐらした。それなりの覚悟を決めれば泥ともなかよくなれそうな気がする。泥の投げあいっことか泥のなかで泳いだりするところまでいけるかどうかはちょっと自信がないけれど。


ビナードさんは本物の泥と触れ合ってから泥という言葉の使われ方が不適切だと感じるようになったという。とくに戦争の泥沼化という表現には「泥自体に対して失礼千万あることはいうまでもない」と憤懣をあらわにされている。母なる泥に抱かれ泥の恵みをうけて稲は育つ。泥の豊かさを知れば泥という言葉に対するイメージもおのずと変わる。私も泥体験してみたくなった。

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