goo blog サービス終了のお知らせ 

主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

「うらやましい悩み」

2008-08-18 | さくさくコラム

男性は団体戦で利益の分配を図るとは赤坂真理さんの持論。なんでも個人戦に持ち込みがちの女性は「『自意識と私の戦い』みたいな自家撞着に陥る」という赤坂さんの指摘は鋭い。「うらやましい悩み」を持つものどうし群れてカムフラージュしては、というのが赤坂さんの処方箋だ。なるほど、なにかと同類で群れるのはカムフラージュ作戦だったのねと膝を打った。どうりでそっくりさん集団が街を闊歩しているわけだ。


ただしこれが「うらやましい悩み」となるとご同類を見つけるのが難しかろうとお察しする。そもそも「うらやましい悩み」というのはそういう悩みを持っていること自体なかなか明かせないはず。明かすにしてもよほど相手を選ばないといけない。赤坂さんのところにひきもきらず相談が持ち込まれるのもそういうわけだろう。


そういう人知れぬお悩みを「ぜいたくな悩み」と決めつけず「うらやましい悩み」と受け止めてくれるところが赤坂さんの人気の秘密。私にもそういう悩みのひとつやふたつはあると言ってみたい。


コメント

「若く見られる」というお悩み

2008-08-17 | さくさくコラム

このところの猛暑にパソコン前で文章をひねり出す根気も尽き果てた、というのはもちろん言い訳。とはいえ、けさの涼しさに生き返った思いがするのはほんとう。


昨日の「赤坂真理のうらやましい悩み」(日経プラスワン)は「若く見られる」ことにまつわるお悩みを分析。男女とも「三十代後半から四十代」に多い悩みだけれど「微妙ながらはっきりした男女差がある」とのこと。それは何でしょう?というのが赤坂さんからの今週の宿題だ。ふむふむ、考えてみようじゃありませんか。


この問題のカギは「三十代後半から四十代」という年頃にあるのではないか。男女差があるとすればそれしかない。女性にとってこの年代、とくに三十代後半というのはじわりと「中年」が迫り来るのを意識し始める頃、いわゆる「アラフォー」だ。いっぽう男性の場合、四十代でも「青年」扱いされることがある。七十代が現役でご活躍などという世界での感覚だとは思うが。


見た目の若さというものは女性にとって大きな関心事、女性はさまざまな「情報」をそこから読み取る。「若く見られる」のは独身よりも既婚女性のほうが、風当たりが強い気がする。既婚で子持ちの女性が「見た目の若さ」という持ち駒まで使うとちょっとやりすぎ感があるのかもしれない。


「横並びを好む同性の中で反感を買わないために、自虐ネタを小出しにしたりします。実は老眼が始まったとか白髪が多いとか。こういう微妙すぎるほどのバランスをとって生きているのが女性です。」という赤坂さんの指摘には思わず苦笑。こういう細かい芸当ができるかどうかで集団の中でのポジション取りが変わってくるというわけですね。


同性のシビアな視線に耐え、反感を買うことなく自己アピールできる女性、これはもう才能というか持って生まれた星ですかね?

コメント

性格

2008-08-04 | さくさくコラム

朝日新聞日曜版(緑のbe)に連載中の「常識ずらしの心理学」、昨日の「性格は華麗に変化する」が面白かった。「性格という一つの実体(モノ)が体内にあるという考え方はやめよう」とは筆者のサトウタツヤ氏。そうそうとうなずく。


サトウ氏は性格には三種類あると説く。「私が考える私の性格」「誰かといっしょにいるときの私の性格」「多くの人の中にいる時の私の性格」の三つ。そのなかで大きく変化する可能性を秘めているのは二番目の「関係性の中の性格」だという。


「ひとは変えられない」というときの「ひと」は「性格」と言い換えてもいい場合が多い。たしかに「ひと」は変えられない。そういう「性格」のひとだと思っている限り変えられない。自分が変われば相手も変わるというのは、まず相手についての自分の思い込みを変えよというということなのだろう。なかなかむずかしいことだ、現実には。だが、相手の「性格」ではなく相手の置かれている状況や立場に考えをめぐらすことは努力すればできなくもない気がする。


自分の性格については自分が一番よく知っているというのもたぶん思い込み。まずその思い込みを外すことが先決だろう。そのうえで相手に添ってみる。それができれば万々歳!いずれにせよ無理は禁物。イライラや不満は小出しにガス抜きし、相手との距離を保って風通しをよくすることを心がけるというのがおとなの処方箋かな。



コメント

お子様味覚

2008-07-18 | さくさくコラム

ももせいづみさんのブログ「ごはんぢから~武蔵野婦人の厨房から」を読んで元気が出た。題して「アゲゾコチャーハン」。そのしょっぱなに「ザマミロチャーハン」という言葉が出てくる。なになに「ザマミロチャーハン」ですと?


心の中で「えへへ、ざまーみろー」とやさしく思いながら
表はあくまで普通に。おいしいね、と言って無駄話しながら食べる。
母としては妙な幸福を感じる一瞬>笑。


愉快痛快「ザマミロチャーハン」!食の首根っこを押さえられるとはこういうことだよ、そこの者!


うちの息子は香味系の野菜が食べられない。ミョウガを筆頭にセリやシソといった野菜を入れると全部よりわける。これらの野菜は私の大好物ときているからそのたびにあたまから湯気が出る。汁物や混ぜごはんなど息子の分だけ特別扱いするのもイマイマしい。ごはんに混ぜ込んだシソは拾い出す、おすましのミョウガはお椀に貼り付ける、といった具合で食卓の上で毎度繰り広げられる仁義なき戦いにこちらもうんざりだ。


一矢を報いる機会をうかがう私におおいなる援軍現る!といったところだが、私自身子どもの頃食べることが不得意だったので、無理強いはしたくない。食事が苦痛になる。いつまでもお子様味覚というわけでもなかろう。いつの日か必ず味覚は化けるとの期待をいだきつつ、お子様味覚との根競べは続く。


コメント

食べるものを見ればその人がわかる

2008-07-07 | さくさくコラム

華恵さんの思い出の朝食はオートミール。「その頃家にいた男の人」に「そんな離乳食みたいなやつ。まともな人間が食べるもんじゃないよ。」と言われて「ひどく悲しい気持ち」になった小学二年の華恵さん。次に言及するとき、その男性を「そいつ」と呼びたくなるのもわかるというもの。


家族は食べ物を分かち合う最小の共同体。「正しい日本の朝食」と「アメリカの風のブレックファースト」とのあいだで揺れる華恵さんはどんな朝ごはんを作る人になるのか、食べるものを見ればその人がわかるという言葉を思い出した。

コメント