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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

「とりあえず」問題

2008-09-19 | ぶつぶつブログ

先日買った商品の部品がひとつが足りなかったので至急取り寄せてもらおうと家電量販店に電話した。電話に出た店員さん、部品が店に届いたら「とりあえず」お電話いたしますと言う。しかも二度三度「とりあえず」を繰り返す。「とりあえず」なんて言っちゃぁマズイでしょ、そういうとき、と思いつつ、どうも似たような言葉と間違って使っているような気もするな、などと考えている私。


「とりあえず」はここ数年ほんとうによく聞く。連発されるとちょっぴりイラッとくる。なんだか節操がないと言うか、場当たり的な受け答えにきこえる。あんの秀子さんの『日本語へんてこてん』では「とりあえず」を「アタマにつける現代版枕ことば」と呼んでいた。その代表例が「とりあえずビール」略して「とりビ」。


「とりあえず」には誠意がないと感じてしまう私のほうが古いのか。そういう私もつい「とりあえず」って言っちゃうことあるしなぁ。などと考えはじめると「とりあえず」問題があたまの片隅から離れない。「とり急ぎ」だったら問題なかったのではと気づいたのは数時間後だったか。


「とり急ぎ」と「とりあえず」、いやそっくり。そっくりだけど意味合いは違う。何より誠意が感じられる。とりあえず、「とりあえず」問題からは解放された

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ロンダリングの時代

2008-09-18 | ぶつぶつブログ

今回の事故米騒動は「ライス・ロンダリング」だそうだ。なるほど!と感心している場合ではないが、そうなると産地偽装、消費期限偽装などもロンダリングと呼べそうだ。非食用であったものが食用として流通していく過程で積み重ねられていく不正、それをロンダリングと呼ぶのはなんとも皮肉。欲得によって磨き上げられた汚染米が食用に広く出回っていたことがそらおそろしい。


以前、訪れてきた新聞勧誘員が「新聞なんてどこもいっしょでしょ」と言うのをきいてあきれたことがある。自分の売っている商品を貶めていることに気づかない無神経さがむしょうに腹立たしかった。「新聞なんてどこもいっしょ、景品のいいほうがいいでしょ」というのが彼らの常套文句。新聞社のひとたちは自分たちのつくる新聞の販売現場の実態を知っているのだろうか。


いずれにせよ、自分の売ろうとする商品に誇りをもてないのは哀しい、そう思う。


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顔と名前

2008-07-29 | ぶつぶつブログ

人の顔がなかなか覚えられない病気があるらしい。そこまでいかなくても、私は人の顔を見分けるのがあまり得意ではない。顔に反応する顔細胞が足りないのかサボっているのかちょっぴり気になる。接客のトッププロは一度でもお客として迎えた人を忘れないらしい。顔と名前を覚えるのはある意味人間関係の基本、その土台にいまいち自信のない私だ。


これとは別に、顔と名前が一致しないというのもある。顔はすぐに思い浮かぶのに名前が出てこない、あるいは名前に聞き覚えはあるのに顔が出てこないこともある。顔と名前が一致せず伝えられないもどかしさ、こちらはどなたも身に覚えがおありだと思う。


宙に浮かぶ顔と名前を見据えての「神経衰弱」。カードが合えばご愛嬌だが、間違えばとんだ失礼になりかねない。顔をきちんと識別し名前というラベルを貼るという作業はなかなか高度な技なのだとあらためて思う。

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憮然

2008-07-27 | ぶつぶつブログ

文化庁の「国語に関する世論調査」の結果が出て、慣用句の意味を取り違えていたり、他の慣用句と混同されたりしているケースのあることが指摘されていた。私の場合「憮然」はセーフだったが、「檄を飛ばす」は少々あやしく、「議論が煮詰まる」は完全に誤解していた。


よく「(考えが)煮詰まっちゃって」とか使っていのだがあれは間違いだったのか。「議論を煮詰める」という言い方もあるような気がする。それならわかるのだが、手近な辞書には出ていなかった。いい慣用句辞典が欲しいところだ。


「憮然」を間違えなかったのは身近に「憮然」としやすい人を見ていたから。早い話が父のことで、「憮然」というのはどういう表情なのか見知っているから間違えない。ぎゃくに、「檄を飛ばす」なんていう場面に実際遭遇したことはほとんどないので坂本竜馬みたいなひとを勝手にイメージして、鼓舞とアジテーションの中間くらいの意味あいかと思っていた。


「憮然とする」が失望よりも怒りの表現ととらえられているのには、「憮然とする」にいたる感情が理解されにくくなっているのもあるのではないか。手持ちの辞書では「驚いたり失望したりして茫然とするさま」とある。私など憮然とすることが実際には多いのに、それを「憮然」という言葉では認識していない。どうもオバサンには似合わないのだ、「憮然」という言葉は。しかし、なんでも「落ち込んだ」ですませるのも芸がないとは思う。


漢語というのは懐手した坂本竜馬に似合う言葉だという思い込みがあるせいかもしれない。「憮然」老人が姿を消したとき「憮然」という言葉も消えゆくのかもしれない。

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コミュニケーション

2008-07-16 | ぶつぶつブログ

コミュニケーションという言葉が、ぴったりくる訳語もなく略語もないままずっと使われているのは不思議といえば不思議。そういえばアイデンティティーなんていう言葉も似たような扱いを受けている。「コミュニケーションが大事」といった具合に日常会話にも頻出するにもかかわらず、あだ名で呼ぶのがなんとなくおそれ多くていつまでも本名で呼んでしまうそんなちょっと他人行儀な友人、みたいな言葉になっているのだろうか。


ジャーナリストの池上彰さんがコミュニケーションでもっとも大切なのは「想像力」だと仰っているのを知った。相手の置かれている立場を想像しどう伝えるか想像力を働かせる努力がコミュニケーションの基本だとのお話はとても具体的でわかりやすい。「NHK週間こどもニュース」のお父さんとしてこどもとのコミュニケーションに心を砕いて来られたからこその言葉だろう。


コミュニケーションというとまずは言葉が思い浮かぶけれど、言葉というのはなにかを語ろうとすると同時になにかを隠蔽しようとするところが必ずあって、真意はなかなか伝わらない。誤解のコミュニケーションではなかろうかと思うくらいだ。言葉のやり取りの水面下で無意識のコミュニケーションとでもいうものが必ずあって、実際にかわされた言葉よりも言葉の裏側にはりついた漠然としたなにかのほうが心に残ることは多々ある。


あのときのあの言葉はそういう意味だったのかと後で気づくなんていうことはしょっちゅうで、そうした察しの悪さ、ぼんくらさかげんが我ながら恥ずかしい。自分の関心事に固着しているので人の話も無意識にその文脈に流し込んで聞いているらしい。想像力は理解力とも大いに関係がある。想像力にも理解力にも少々難アリ、こんな私がブログなんか書いて大丈夫?


 

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