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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

お子さんは?

2024-09-07 | 短歌のレッスン
今日の日経歌壇の穂村弘選にこんな歌があった。

インタビューイーがをんなのひとであるばあひ子があればその数は書かれる    本多真弓

インタビューイーとはインタビューされるひとのこと。女性アスリートが取材に答えているような場面が想像される。インタビューアーがお子さんは何人?と直接きかなくてもそうした情報はインプットされていると思われる。

以前このブログで「ママさん〇〇」という呼称について「ママという称号」というタイトルで書いた。もう10年以上前のことだ。状況は相変わらずといっていいようだ。だからこそこんな歌がうまれる。八七五七七のちょっと変則的なリズムと下の句の句またがり、さらには文字の並びが不協和音を奏で、なかなかに辛辣な歌ではなかろうか。

「お子さんは?」というなにげない問いにはさまざまな先入観が折りたたまれている。さらっと答えたほうが感じはいいかもしれないがスルーしてもいい質問だと思う。インタビューアーの見識が試されている。すくなくともこの歌の作者のような視線のあることを知っておいてほしい。
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9月になって

2024-09-05 | 短歌のレッスン
9月になってマンションの外廊下に動かないセミがちらほら目にはいる。カナブンなのかコガネムシなのかわたしには区別できないが、緑色のきれいな虫も動かないまま隅っこに転がっていたりする。夫はそういう虫たちがまだ生きているかもしれないと宙に放してやったりしている。申し訳ないがわたしは触るのもいや。

砂子屋書房の「一首鑑賞」の今日の一首とその鑑賞は胸にしみるものがあった。

夫のように救出したところでセミは遅かれ早かれ力尽きる。目の前からその姿を消したいだけではと考えてしまうわたしは優しさが足りないのだろうか。
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太き指先

2024-08-16 | 短歌のレッスン
昨日8月15日のふらんす堂の「短歌日記」はこんな歌だった。

戦争を押し拡げむとする太き指先は見ゆ 夏草を刈る   大口玲子

この歌から岡本太郎の初期の油絵作品が脳裏に浮かんだ。濃密な暗い色調で不穏な未来を暗示するような作品群だ。なぜかこの歌はそうした絵画を連想させるものがある。机上の世界地図をなぞる太い指先、それは「戦争を押し拡げむとする」意志をもった指先なのだ。

そして唐突に「夏草を刈る」と続く。「夏草を刈る」という日常がまばゆい光につつまれている。草を刈っているのは作者自身だろう。草を刈りつつ「太き指先」を幻視しているのだろうか。


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ふらんす堂短歌日記

2024-04-24 | 短歌のレッスン
ふらんす堂の短歌日記、今年は歌人の大口玲子さんが担当されている。昨日の歌がなぜかこころに残ってなんども読み返している。

われといふ人間の浅瀬あゆみつつハマシギは深くうつむいている   大口玲子

わたしの脳裏に浮かんでくるのは、引き潮の波打ちぎわの濡れた砂地が平らかに果てしなく続いておりえさをついばみにハマシギ(かどうかは正確にはわからないが)が数知れず浜辺を歩き回っているという光景。かつてそうした光景をまのあたりにしてその美しさに感動したことをひさびさに思い出した。

「われという人間の浅瀬」とはどういう意味なのだろうかとずっと考えている。わからないながらもその浅瀬と「深くうつむいている」ハマシギはひとつの世界に抱かれているように感じる。ただ美しいだけではないなにかを深く感受されているのだろう。
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「ゆひら」

2024-01-11 | 短歌のレッスン
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ   穂村弘

穂村弘の短歌のなかでももっとも有名なもののひとつ。昨夜、NHKEテレ「穂村弘 短歌という魔法(前編)」で穂村氏は「ゆひら」とさわぐ女性はちょっと熱っぽかったので体温計を口にくわえ窓に額をつけたら雪が降っているのに気づいた。そういうシチュエーションとして説明されていた。

この作品についてはだいたいこんな読みが多いけれど、わたしは以前からなにか釈然としないものを感じていた。女性が体温計をくわえるのは基礎体温を測るためで、風邪か何かで熱っぽいならば脇に挟む普通の体温計ではないかと。

「ゆひら」とさわぐ女性は雪を見てはしゃいだ。そこに妊娠の可能性という要素が入ってくると歌の読みは変わってこないかということだ。「うれしい」もあれば「困った」もあるその可能性。

体温計をくわえたまま「ゆひら」という無邪気な女性像にそんな屈折をもちこむことでふたりの関係に生じる微妙なゆらぎを詠んだものではないかと思う。

それにしても「ゆひら」は絶妙、まさに「短歌という魔法」であることにかわりない。
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