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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

共感の打率

2006-03-02 | 物言い

共感を得るのはコミュニケーションのヒットだと考えれば気が楽だ。三割打者で立派なもの。たとえばブログ。ブログの面白いところは個人的感情がストレートに出ているところ。理屈より感覚の世界だから共感できるものできないものがはっきりわかれる。「私はそうは思わない」にコツンとぶつかったとき、なぜそのひとは「そう思う」のか、あるいはなぜ自分が「そう思わない」のか、そこに思いをめぐらすことから「対話」がはじまる。

世の中には共感のメインストリームみたいなものがある。その流れに身をまかせていれば楽だし、なにより考えなくていい。メインストリームには勢いがあるから流れに乗っていれば強気にもなれる。だが、共感の満場一致はちょっと不気味。共感は気持ちのいいものだが、共感の中身だって打率三割くらいに思っていたほうがいいんじゃなかろうか。

 

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「いただきます」って言ってますか?

2006-01-28 | 物言い

毎日新聞のウェブ版でこんな書き出しの記事を見つけた。

TBSラジオ「永六輔その新世界」で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。

「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争

一読してさすが永六輔氏だと思った。

「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます。でも僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。

ここは大事なポイントだと思うのだが、私は学校でありがちな「挨拶運動」の類が大嫌い。挨拶を強要することは挨拶のこころに反すると思うからだ。挨拶とはなにかというと、挨拶をかわすものどうしお互いに相手を認め、「これ以上立ち入りませんよ」という約束事だと思う。挨拶をかわすことで余計な詮索や憶測を避けることができる。だからこそ「どちらまで?」「ちょっとそこまで」という挨拶が成り立つ。挨拶を強要することはいらぬお節介、ルール違反だと思う。

声に出してする挨拶だけが挨拶ではない。ちょっとした表情でもいい。なにがしかの反応があればいい。挨拶が気持ちいいものかどうかは時と場合、あるいは相手によるではないか。出会いたくない相手に出会いたくない場所で出会ってしまったとき「挨拶は気持ちいい」と言えるかどうか考えてみればいい。ひとのこころはこうあるべきと決め付けられるのを嫌うのだ。

給食費を払っているからという理由はいかにもナンセンスだが、挨拶を強要するなというのならわかる。だからと言ってむろんそんなことをわざわざ学校に申し入れる気もない。いまどき「いただきます!」「ごちそうさま!」をきちんと言うのは小学校くらいのものだろう。食事の時はそういう挨拶があるということを学校に来てはじめて知る子だっているかもしれない。だが、繰り返すようだが、大事なのは挨拶するかしないかということでなく、挨拶のこころを持っていることだと思う。

今日クルマの運転中に「もったいない」という言葉を話題にするラジオ番組を聞いた。「もったいないお言葉」とか「私にはもったいない」あるいは「もったいない、もったいない」と拝むといった「もったいない」のあるのを私もすっかり忘れていた。

日本には「もったいなくも」自分が授かったいのちを粗末にしては「もったいない」と感じるこころがあった!自分のいのちは自分だけのものではなくて、生きとし生けるもののいのちの連鎖の中にあり、多くのひとびとのおかげを被って生かしていただいているのだという気持ちを込めての「いただきます」であり「ごちそうさま」なのだ。「もったいない」を知れば「いただきます」がわかる、そういうことだったのか。

 

 

 

 

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雪の朝

2006-01-22 | 物言い

うちのマンションのゴミ集積場を見下ろしたら雪ぼうしを被った<新聞・ダンボールの山>と<缶・ペットボトルの山>が対角線をはさんで向かい合っている。土曜日は結局どちらも回収に来れなかったようだ。となると、明日の生ゴミはどこに出したらいいのだろう。対角線上に出すしかあるまい。

近隣を走るミニバスも今朝はチェーンをつけていた。住宅街の急坂を上り下りする路線だ。日曜の朝にしては混んでいる。ふだん歩く人もバスに乗っていたのかもしれない。幹線道路沿いの歩道はまだ雪で覆われていてスタスタとは歩けない。朝日の当たる側と日陰側では雪の融け具合がぜんぜん違う。スニカーの足裏全体で踏みしめるようにして歩く。坂道ではさっぱり頼りにならなかった靴底なのでなるべく雪の上を歩く。ミゾレ状にになったところはズルッとすべりやすい。マンホールの蓋のあたりだけがポッカリ抜けたようにく乾いている。正直なものだ。こんなにマンホールがあったとは知らなかった。雪の朝の発見。

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啖呵をきる

2006-01-01 | 物言い

お元日ということでブログもお休みにしようとじつは思っていたのだが、目の覚めるような啖呵を聞いてそんな正月気分は吹っ飛んだ。啖呵の主は室井佑月さん、場所は朝日新聞紙上「少子化変わる生活」という大見出しの左下である。

「私の一番の自信は、子どもと両親を食べさせていることかな。」のセリフにグッと引き寄せられる。「でも、今の日本には大きな不安を感じる。」と続く。

「国や政治家たちは、日本が借金で身動きが取れなくなるまで知らん顔していた。その結果、少子化対策にかける十分なお金もない。憲法9条が改正されたら、子どもたちが兵隊にとられるかもしれない。そんな社会にしておきながら、政治家や官僚たちが『少子化を憂えている』と騒ぐなんて、ウザイ。騒ぐ前に本気で借金を減らせ、と言いたいですね。」

佑月さん、よくぞ言ってくださった!少子化問題の議論に私はいつも憤慨していた。少子化?結構じゃないですか、子どもに希少価値がでるのなら。政治家や官僚の目に子どもは借金を背負う働きアリか兵隊アリにしか見えていないんじゃないかと本気で疑っている。産めや育てよで産んだこどもを育てるのは誰なのか。そうやって育てた子どもをむざむざ戦場にとられてなるものか。もっともらしい大義名分など信じない。

「子どもを産む産まないは他人にどうのこうの言われることじゃないと思う。」その通り!ニートは本人の気構えがなってないから、少子化は女性がわがままになったから、となんでもひとのせいにして自分はおいしいところだけもっていく政治家を「ウザイ」と斬って捨てた室井佑月さんの啖呵に喝采した。

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機能というもの

2005-12-19 | 物言い

さてブログライターから投稿できることは確かめられたのだがまだいくつかの疑問点がもやもやしている。また食わず嫌いしていたRSSリーダーにもお気に入りブログを登録してみた。なるほどこういうことなのか。パソコンの背後には鏡のなかの鏡像のようにどこまでも開かずの扉が続いているようだ。


投稿失敗は必ずしも自分のミスばかりではない。サーバーの不具合ということもあった。対応策としてはじめはメモ帳にコピペしていたのだがそのうちメモ帳へのコピぺは不要なことに気づき、投稿画面の範囲選択+コピーを習慣付けていた。たとえ失敗しても新規投稿画面にペーストすればすむ。それでとくだん不便は感じていなかったのだが、昨日たまたまブログライター機能に出会い鞍替えしたというわけだ。


パソコンを筆頭に携帯電話や家電製品の機能というもの、私はどれだけ使いこなせているのか。ひとつ製品を買うとその持てる機能をすべて使わないと気がすまないというかたもいるらしい。使わなくても理解しているというかたも多いのだろうが、私などは自分が必要と思える機能さえ使えればいいと思っている。知れば便利なものもあるのだろうがとりあえず不便は感じていないのでそれ以上学習しようと思わない。だが「便利を知ると不便がわかる」いうパラドックスからは自由になれないことをまたしても思い知らさせた。


 

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