毎日新聞のウェブ版でこんな書き出しの記事を見つけた。
TBSラジオ「永六輔その新世界」で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。
<「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争>
一読してさすが永六輔氏だと思った。
「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます。でも僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。
ここは大事なポイントだと思うのだが、私は学校でありがちな「挨拶運動」の類が大嫌い。挨拶を強要することは挨拶のこころに反すると思うからだ。挨拶とはなにかというと、挨拶をかわすものどうしお互いに相手を認め、「これ以上立ち入りませんよ」という約束事だと思う。挨拶をかわすことで余計な詮索や憶測を避けることができる。だからこそ「どちらまで?」「ちょっとそこまで」という挨拶が成り立つ。挨拶を強要することはいらぬお節介、ルール違反だと思う。
声に出してする挨拶だけが挨拶ではない。ちょっとした表情でもいい。なにがしかの反応があればいい。挨拶が気持ちいいものかどうかは時と場合、あるいは相手によるではないか。出会いたくない相手に出会いたくない場所で出会ってしまったとき「挨拶は気持ちいい」と言えるかどうか考えてみればいい。ひとのこころはこうあるべきと決め付けられるのを嫌うのだ。
給食費を払っているからという理由はいかにもナンセンスだが、挨拶を強要するなというのならわかる。だからと言ってむろんそんなことをわざわざ学校に申し入れる気もない。いまどき「いただきます!」「ごちそうさま!」をきちんと言うのは小学校くらいのものだろう。食事の時はそういう挨拶があるということを学校に来てはじめて知る子だっているかもしれない。だが、繰り返すようだが、大事なのは挨拶するかしないかということでなく、挨拶のこころを持っていることだと思う。
今日クルマの運転中に「もったいない」という言葉を話題にするラジオ番組を聞いた。「もったいないお言葉」とか「私にはもったいない」あるいは「もったいない、もったいない」と拝むといった「もったいない」のあるのを私もすっかり忘れていた。
日本には「もったいなくも」自分が授かったいのちを粗末にしては「もったいない」と感じるこころがあった!自分のいのちは自分だけのものではなくて、生きとし生けるもののいのちの連鎖の中にあり、多くのひとびとのおかげを被って生かしていただいているのだという気持ちを込めての「いただきます」であり「ごちそうさま」なのだ。「もったいない」を知れば「いただきます」がわかる、そういうことだったのか。