お彼岸を少し過ぎてしまったが今日お墓参りをした。自分の家庭を持ってからは昨年父が亡くなるまでながらくご無沙汰していたが、子どもの頃からの馴染み深い場所、この墓の前にこれまで何度立ったことだろう。
墓に入っている「ご先祖」のうち私が直接知っている人は半数に満たない。この墓に入る予定の親族はあと何人だろうなどとちょっと不謹慎だが現実問題として考えてしまった。私は入れない。べつに入りたいというわけでもないのだが、比較的新しい夫の実家の墓はもとより、ほかのどの墓より馴れ親しんだ墓ではある。
同じ墓に入るご縁というのもあるのだなぁとここに来る度思う。親子で入れるとはかぎらないし、嫁姑の骨壷が並んでいることもある。夫婦なら死後も一緒か。誰と入りたいなどと考えてもどうにもならない、まさにご縁のあるものどうしの終の棲家。
墓参りするとき、誰がメインの墓参りかなんとなくイメージしている。以前は祖父母だったが今は父だ。墓というのは、不在あるいは欠如といったこころの空虚を地下の空洞というかたちでなぞらえ、封じ込めたものかもしれない。