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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

田辺聖子さん

2008-10-29 | さくさくコラム

田辺聖子さんが文化勲章を受賞されることになった。そのニュースの発表される前日から朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの」コラムで田辺さんのインタビュー記事の連載が始まり田辺節の健在ぶりを目にしたばかりだったので、うれしい驚きだった。


第一回「恋に大切なのはやさしさ」はこんな質問からはじまる。「最初に、失礼を顧みずお聞きしますが、女性にとって「美人」は幸せの条件でしょうか」これに対して田辺さん「なんでそんなアホなこと言うの。(中略)「美人、美人」って騒ぐ男性は、「パァ」よ。恋を知らない人たちよ」あのやさしくたおやかな口調でこんな啖呵を切る田辺さん!背中をどんと押された気分。


「恋の究極の姿とは?」と問われて「人間っていうのはもともと「人をなでなでして、自分をなでなでされるもの」だと思うの」とのお言葉。いや、まいりました。恋愛だけでなくすべての愛に共通する愛の「究極の姿」をこんなにもやさしく子どもにもわかる言葉で語れるなんて、田辺さん、すごい!


昨日の第二回では「年を取るということは、それだけ、言葉を獲得しているということなの」と。うーむ、わが身をかえりみて冷や汗が出た。覚えたのは弁解やカモフラージュの術ばかり、「自分の言葉」といえるものなんて持ってない!ブログを書きつつそのことを実感する毎日だからこそ身にこたえるものがある。「自分の言葉」には耳を傾けさせる力がある。そういうことはわかるのだけれど。


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内心の自由

2008-10-05 | さくさくコラム

私の育った時代は目上に口答えすることは厳しく戒められることが多かった。私は内心これに猛反発を感じていた。とくに理由も聞かず頭ごなしに叱られたときは、いつまでもそのことへのウラミツラミが消えなかった。生意気盛りの頃は納得いかないまま謝らされるというのがどうにも腹にすえかね、いろいろな本を読み漁っては反駁の言葉を探していた気がする。


北川氏のエッセイを読んで久しぶりにその感覚を思い出した。「たとえ相手が子どもであっても、たとえ悪いことをしたのが事実であっても、その内心に踏みこんで表現を強制することは許されない」ということが100%達成されている社会など現実にはないとは思うが、そういうことが社会的に合意されているかどうかの違いは大きい。


このエッセイの後半部分を読むと、この「内心の自由を尊重する」という発想が「対話」を成立させていることがわかる。「主張することによって、先生と子どもの間に対話が生まれ、教室という社会における『個』として認知されるのである」というところは我が意を得たり。「内心の自由」なんていう言葉はいまどきの日本でははやらないし、対話という言葉もどこか胡散臭くみられているかもしれない。だが「内心の自由」を保証することが対話の大前提であり、人間関係の出発点は対話にあるとのおもいは私のなかにある。

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「謝ること」と「許すこと」

2008-10-04 | さくさくコラム

白水社のホームページに北川達夫氏が寄稿されている「日常性としての異文化」という文章には考えさせられた。「なにげない日常生活の、ちょっとした行動の違い、その行動の背景にある発想の違いが、知れば知るほど『分からない』という感を強めていくのである。」というあたりは異文化のなかで長年生活された方ならではの実感だと思う。


北川氏は「謝る」という行動を例にとり、悪いことをしたら「謝る」のが当然の義務だという日本人の発想に対し、フィンランドでは「相手に謝るかどうかは、他人が強制すべきものではなく、最終的には本人の自己決定に委ねるべきである」とされていると書かれている。実際に教育現場では「謝ることは自分に与えられたチャンスであるということを徹底して指導する」という。


このあたりの事情はちょっと誤解を招きやすそうなので北川さんの文章をじっくりお読みいただきたいのだが、「謝ること」と「許すこと」は人間に与えられた最後のチャンスであるという考え方は文学のテーマそのものではないか。「謝ること」と「許すこと」にはひとりの人間の全存在がかけられていると言っていいくらい重いものだということを子どもたちに教えるということは、それを道徳として教えるよりもはるかにむずかしいはず。そこでは「なぜ」謝るのか、「どう」謝るのか、とことん自分で考え抜くことが求められているからだ。


「謝る」よりさらにむずかしいのは「許す」こと。謝りの言葉の軽重が許しの可能性を左右するとも言える。謝られたからといって許せるものではないという状況は日常茶飯事。へたに謝られるとさらに怒りの炎がメラメラと燃え上がる。どこかで誰かが「許せない!」と息巻いているのを毎日のように耳にする。ことごとさように謝ることは難しいし、許すことはさらに難題。そういうことは道徳では解決できない。


「謝ること」と「許すこと」に真剣に向き合う、そういうことにからあまりにかけ離れた日本の現状をあらためて思い知った。心ここにあらずの謝罪は人を侮蔑するもの、繰り返される謝罪のポーズにはもううんざり。日本人の人相がどんどん悪くなっているようで心配だ。


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「夢がなくても、大丈夫」

2008-08-24 | さくさくコラム

ある五十代の俳優さんのインタビュー記事に「夢がなくても、大丈夫。普通に生きていけますよ、きっと」という言葉があった。「夢がなくても、大丈夫」とはいいな。こういう言葉を聞くとほっとする。


ところで、赤坂真理さんからの宿題の回答は思いがけないものだった。男性の場合大切なのは社会的信用、若く見えると「外見」と「立場」がつりあわないという悩みになるという。男性にとってキーワードは「立場」というのは私にとっては死角だった。男性はどんな集団に属するときも「立場」とか「序列」を意識しないではいられないのか、このあたりが私にはわかりにくいところ。


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分相応な自由

2008-08-22 | さくさくコラム

「家事を大変にしているのはあなただった!」という見出しに思わず手が出た新聞折込紙「リビング」8月23日号(サンケイリビング新聞社)。「こんなに便利になったのになぜ家事がラクにならないの?」とは私もつねづね感じている疑問だ。


社会学者の品田知美さんによれば「生活水準が上がるとともに、人々の暮らしに対する意識も向上しているから」で、「家事はここまでやるべきという意識のハードルを上げ、頑張りすぎているのは、ほかならない、自分だったというわけです」とのこと。言われてみればその通りかもしれない。正直言ってそんなに頑張っていない私でも「ここまでやるべき」という目標値だけはすこぶる高い。


「永久就職」とか「三食昼寝付き」とかいった言葉が聞かれなくなって久しい。あるべき主婦像というのはどんどん変化していて、カリスマ主婦はいわばキッチンの女王様、こともなげに三ツ星クラスの料理の繰り出されるキッチンは燦然と輝く殿堂だ。「主婦は家事のプロたれ」と喧伝された時代もあった。いま「家事のプロ」を標榜しようとしたらとんでもないことになる。家事の御三家ともいうべき掃除、洗濯、料理、そのどれをとってもその道を究めるとなれば研究室か実験室で過ごす時間のほうが長かろう。


どんどん高機能となっていく家電製品についていくのも一苦労。相対的に見るとルーティーンでこなせる部分が減って、情報を集めたり選んだりする作業が増えた。それが楽しみであるうちはいいが、いちいち判断を下すとなるとけっこうなエネルギーを使う。


いまや主婦はいわゆる家事以外のところにも多大のエネルギーを振り向けなくてはならないので、できるだけ家事は省力化したい。ところが家事への要求水準がどんどん上がるものだから省力化した分が新たな家事を生み出すというパラドックスはどこまでもついてまわる。女王様の微笑みは脳裏にちらつくけれど、女王には女王のお悩みもあるはず。分相応な自由(自堕落?)を享受していると思えばいいではないか。


それもこれもみんな言い訳にしか聞こえないのは不徳のいたすところ、かな?


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