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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

病院という装置

2009-02-09 | さくさくコラム

このところ毎日更新されている中沢けいさんの病院日記が快調だ。病院は人を病人にするための一大装置。入院すると患者はすべてをゆだねるという通過儀礼を経なくてはならない。


中沢さんの日記からはおとなしく病人になることを拒む不羈の魂みたいなものが感じられる。病院という装置は患者にそこでのお約束事に従順であることを求める。病院は圧倒的に優位で一個人である患者は無力という図式。病院というところはいのちを人質にとって人を病人にするところだったのかと思えてくるのが可笑しい。


病を経過させるためにそうした仮想装置を必要とするのが現代という時代なのだろう。

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作家魂

2009-02-04 | さくさくコラム

作家の中沢けいさんのHP「豆畑の友」をどういう経緯で「お気に入りブログ」に入れたのか覚えていない。「伊藤製作所~豆畑支所~」のバナーをクリックして伊藤比呂美さんのブログにアクセスするために開くことの多いページだったのが、ここへきて俄然「大家さん」のブログ「コラム豆の葉」から目が離せなくなった。


店子の伊藤さんが「大家さんの心筋梗塞レポートがあんまりおもしろいので、自分のを書く気がぜんぜんしない」と書かれているのもむべなるかな。不謹慎なようだが私もおもしろすぎる「心筋梗塞レポート」に目を見張り手に汗握っているひとり、転んでもただは起きない作家魂に感嘆する。


生きるか死ぬかの瀬戸際のというものはこういうものなのか。自身の一大事に遭遇しながら作家としての冷静な目を持ち続けていることのすごさ。搬送の救急車の中で先にペンネームを名乗ってしまい、次に本名を伝えたので現場が混乱したというなんともリアルな顛末。そんなさなかにも「鍋蓋を押し付けられたような痛み」という比喩表現の出典を思いめぐらす。「深い井戸の底からぬっと顔を出して事情説明」なんていう表現もものすごい。


いやはや、恐れ入りました。切迫した事態が綴られているのになんともいえないおかしみがたちのぼる。常人にはとうていできない離れ業だ。中沢さんの「生還」をともに喜びたい気持ちでいっぱいだ。


 


 

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三輪車

2009-01-23 | さくさくコラム

昨日の日経夕刊生活欄の「三輪車街から消えた!?」の見出しに目がとまった。私など手押し車から三輪車、補助輪つきの子供用自転車、そしてその補助輪がとれるという成長の歩みが目に浮かぶのだが、幼児がいても三輪車を持たない家庭が半数近いというから驚きだ。


三輪車をとばしていきなり自転車という流れをつくった最近の子育て事情もわかる。幼児の身の丈に合った三輪車を自在に乗り回す時間のかけがいのなさに気づくのはずっとあとのことだ。地面を這うようにしてこぐ三輪車は、自転車と比べるとじれったい。そのじれったさをたっぷり味わってから自転車に乗ると、まるで馬にでも乗ったように視界が広がる。そのギャップが成長のあかし、子どもの誇りだ。


先へ先へとはやる親心を抑えてじっくり子どもとおつきあいするにはゆとりが必要。さて、私はどうだったかしら。こころのなかにちょっぴり疼くものがある。


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時のつながり

2008-12-16 | さくさくコラム

今朝の朝日新聞に児童文学者の松岡享子さんのインタビューがのっていた。


今の子どもを気の毒に思うのは、とても刹那的なこと。今、身に起こっていることしか目に入らなくて、時のつながりの感覚がものすごく短い子が多い。読み継がれてきた本には、その時間の感覚を延ばしてくれる働きがある。「昔の人からずーっとつながっていて今に至る」という時間の流れが感じられるのです。(「子どもの本棚 クリスマス特集」)


「今、身に起こっていることしか目に入らない」子どもを育てたのは私たちかもしれない。「昔の人からずーっとつながっていて今に至る」という大河のような時の流れを常日頃意識するような生活を私たちはしているだろうか。


「時間感覚を延ばす」とはおもしろい表現だ。子どもが繰り返し同じ本を読みたがるのはその繰り返しのなかにこそ汲めども尽きぬ喜びがあるからだ。そうした繰り返しもまた「時間感覚を延ばす」のに与っているような気がする。

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美人幻想が世を救う?

2008-10-30 | さくさくコラム

「美人、美人」と騒ぐでない、という田辺さんの一喝は清清しい。「美人、美人」と騒ぐのはいまや男性よりも女性だ。女性のめざす「理想の美人」と男性のそれとの乖離は進む一方だと私は思う。だいたい「美人」というステージに立てるのは女性全体のいったい何パーセントくらいか冷静に考えてみればわかるというもの。


「美人」幻想にどっぷりつかってしまって男性のことなど眼中にないというのは本末転倒なはずだが、女性は同性の目を何より気にする。逆につねに男性をきっちり意識している女性は、同性には嫌われがちだが男性の受けは悪くないはずだ。


化粧法を教える番組などを見ているとその高度なテクニックに感心する。女性が自己満足を得るために費やす努力というのはたいしたもの、その貪欲さをエンジンにして生きられる女性は強い。


ちょっぴり暴走気味でも、女性のエンジンが尽きることない幻想を燃料に回転し続けるかぎり、世は磐石。こんなご時勢だからなおのことそう思いたい。

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