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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

亀治郎さんの批評眼

2010-08-12 | さくさくコラム

歌舞伎俳優の市川亀治郎さんの文章にはじめてであったのは日経新聞のコラム「プロムナード」だ。いつか取り上げようと思っているうちに連載が終わってしまった。入れ替わりといってもいいタイミングで今度は朝日新聞のコラム「彩・美・風」にさっそうと登場された。この文才が世に認められないわけがない。


亀治郎さんの文章の魅力は清清しいまでの率直さ、若さあふれる真摯な態度にときおりキラリと光る批評眼がすてきだ。昨日の『なぜ、もっと視ないのか?』では十代の頃に重ねた展覧会めぐりの体験が語られている。「人と人の間を巧みにすり抜け、手際よく最前列に進み出て、心ゆくまで鑑賞する。これは子供の特権である。」とあるからまだ特権を行使できる年頃だったのだろう。その年でずいぶんとしぶい趣味をおもちだったことにまず感心する。


人波でごったがえす展覧会場で亀治郎少年は「せっかく間近にある作品をなぜこの人たちはもっと視(み)ないのだろう?」といぶかる。大人たちは作品をみるより解説を読んでいる時間のほうが長いとの指摘は耳に痛い。作品を前にして声高に語る人たちもいる。よくある展覧会風景だ。


先日大学生の息子が国立新美術館で開催中の「オルセー美術館展2010」に行ってきた。入場1時間待ちだったうえ会場内もかなり混雑していたという。音声ガイドの貸出場所の人だかりもすごかった。なにより、おばさんたちがうるさかったという感想をきかされたばかりだ。展覧会は中高年女性にとってはテーマパークみたいなもの、六本木という場所柄もあっていやがうえにも盛り上がってしまうそのはしゃぎようがわかるだけにわがことのように気恥ずかしい。


亀治郎さんは「知識という眼鏡」の意義を認めつつ「その一方で、安易に眼鏡に頼りすぎると、裸眼で物を見る努力を怠るようになる。そしていつしか眼鏡なしでは何も見られなくなってしまう。」と語る。なかなか厳しい指摘だ。作品と裸の目で向き合う「静かなる格闘」を語る亀治郎さんに惚れました。


(亀治郎さんの「彩・美・風」は朝日マリオン・コムでも読めますのでよろしかったらどうぞ。)


 


 

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コラム「彩・美・風」

2010-02-11 | さくさくコラム

「狐」さんの書評コラムと「日刊ゲンダイ」の取り合わせは「らしくない」ところが面白いのだが、そもそもいま通勤電車で新聞を読む人がいるだろうか?通勤時の息抜きは携帯か音楽プレーヤーといったよりコンパクトでパーソナルなメディアにすっかりシフトしている。あえて夕刊紙という雑踏でコラムを書くという選択をした「狐」さん、ご存命だったらこうした流れをどうごらんになっただろう?


昨日の朝日夕刊「彩・美・風」コラムは、そこから風が吹いてくるような素敵な文章だった。石川直樹さんの「ブリコルールという生き方」。石川さんのお名前は最近どこかで見かけた。写真家、冒険家にして文章家という星野道夫さんのような方と知ったばかりで、さっそくその文章にふれる機会がおとずれたわけだ。


同じ文章を「朝日マリオン・コム」サイトで読むことができるのだが、ネットの文章からはなぜか風が吹いてこない。中身は同じなのに入れ物が違うと違って見えるということなのか。なんのかんのいっても私は新聞世代らしい。紙面を広げたときぱっと目に飛び込んでくるものを大切にしたいと思うのだ。「彩・美・風」はそういう意味で読んでみたいとそそられるもののあるコラム。石川直樹さんのあと二回分がいまから楽しみだ。


 

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「ママさん○○」と呼ばないで

2010-01-09 | さくさくコラム

きょうの朝日新聞の土曜版beの「フロントランナー」は宇宙飛行士の山崎直子さんだった。ヒューストンでの記者会見の席で山崎さんは立ち上がってこう発言したそうだ。


「みなさん、私をママさん飛行士と呼ぶのをやめてもらえると、ありがたいのですが」


これは勇気ある発言、思わず拍手したくなった。日本ではスポーツ選手をはじめ子育て中の女性を「ママさん○○」とことさらママであることを強調することが目立って多い。家事育児と両立させながら専門分野でがんばっている女性を応援する気持ちでそう呼んでいるのはわかる。けれども「ママさん○○」と呼ばれるほうはどんな気持ちなのか、ときには重荷と感じることがあるのではないかと思う。


ママさんであることをことさら強調するのはそこに女性の生き方の理想を求めているからでななかろうか。いまはやりの言葉でいえばライフワークバランスだ。呼んでいるほうは褒め言葉のつもりかもしれないが、褒めるというかたちで価値観を押し付けているともいえる。


「ママさん○○」と呼ばないでという女性が出てきたのはいい兆候だ。「ママさん」であったり「オクさん」であったりする前に自分なのだ。「ママさん○○」という称号など不要な時代が早く来てほしい。

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かゆみと痛み

2009-08-25 | さくさくコラム

今朝の朝日新聞科学欄に「かゆみと痛みは違う神経回路で感じている」ことが動物実験で突きとめられたとあった。「かゆみは軽い痛み」という説をどこかで聞きかじったおぼえがあるので、おや、やっぱり別の回路だったのかと思うと同時に、こんなこともまだ解明されていなかったのかという驚きもある。


「かゆみだけに反応して脳に『かく』という行動を引き起こす神経を見つけた」のは画期的な成果だという。かゆいからかくというのはほとんど無意識に始まる。「かく」という動作をしている自分に気づいて「かゆみ」の発症に気づくことも多い。ところが「かく」という動作は「かゆみ」に注意を向けさせるだけでなく、かゆみそのものを増大させてしまうことが多い。かかずにはいられないのだが、かくとますますひどくなるという悪循環はまさに「痛し痒し」。「かく」は刹那の快感とわかっていても、その悪循環を断ち切るにはそうとうの我慢を強いられる。


「痛み」のほかに「かゆみ」というセンサーがあるのはなぜだろう。痛みを警報とすれば「かゆみ」は注意報くらいなのか、「痛み」に比べやや遅れをとっている感のある「かゆみ」の研究は、まだ緒に就いたばかりということらしい。


 


 


 

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「安心」感

2009-02-23 | さくさくコラム

豪州家畜生産者事業団駐日代表という長い肩書きをもつ女性の書いた今日の日経夕刊のコラム「Nipponビジネス戦記」は痛いところをついていた。<「安心」は日本人独特の感情>というタイトルにひかれて読んだのだが、「生産者の顔」が印刷された生鮮食品の包装が日本独特であることにふれ、こう分析する。


「客観的なデータや管理制度に対する信頼が薄れた結果、主観的に責任の所在を『生産者の顔』に求めることで、『安心感』を得ようとしているのかもしれない。」


なかなか鋭い指摘だと思う。「顔」が安心の拠り所になりうる日本人をこの賢明な女性は笑ったりしない。「私自身も生産者の顔として消費者の目に触れるよう、色々な場面に『顔』を出していきたい。『安全』と『安心』の両方を届けることも、ここ日本において私自身に課せられた大事な役割だ」という言葉で結ばれていて、そのビジネスセンスに感心した。


しかし彼女は言うべきこともはっきり言っている。「どんな商品でも、品質や安全性は客観的なデータや裏づけを持って確信するものであり、作り手の顔の有無と何の関係もない。」と。


「生産者の顔」への信頼を裏切るような事件が実際起きたことを考えると、日本人の「安心」は主観的なものと言われてもしたかない気がする。「安心」もしょせんは「安心」感にすぎないということなのか。


それにしても、「『安心』という言葉を英語で表現するのは実に難しい。『信頼』という意味に近いのだろうか。」と言うあたり、彼女の日本語力もたいしたものだと思う。サマンサ・ジャミソンさん、どうかお手やわらかに。

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