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主婦の書斎から<izzuco dialogue>

2005年6月にはじめたブログです。その間エキサイトブログ(ブックマークに記載)に居を移していた期間が2年ほどあります。

「節電家事」

2011-06-26 | さくさくコラム

先週の木、金は一気に気温が上昇して去年の猛暑を思い出した。今年は暑さに加えて電力不足という暗雲がたれこめている。テレビ各局は節電対策の周知に力を入れているが「テレビを消してください」とは言わない。昨今は消費電力においてテレビもエアコンも大差ない。エアコンばかりが矢面に立たされているのはちょっと解せない。


わが家では3月以降毎月の電気の使用量があきらかに減った。不要な照明を消したり、テレビやパソコン、トイレを省エネ設定に変えたりとまあ地道な努力を重ねたからと思いたいのだが、一番有効だったのは漫然とテレビをつけっぱなしにするのをやめたことかもしれない。さらには寝室に置いてあったポータブルテレビをリビングに持ち込んで一人二人でみるときはこちらですませているのもきいている気がする。これに慣れてしまうとどうしても大画面でみたいという番組はそんなにはないということがわかった。


生活コラムニストのももせいづみさんが自身のブログ「武蔵野茶房」で連載していた節電家事シリーズが「節電家事」という名のブログとして独立したのでまとめて読めるようになった。このシリーズにはずいぶん啓発されるところが多い。なにより読み物として抜群に面白い。ちまたにあふれる節電情報と一線を画するのは様々なノウハウのなかにジャーナリストとしての目配りがきちんとあること。節電という切り口からいまの社会が見えてくるユニークなコラムだ。


 

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ごはんを炊く

2010-12-26 | さくさくコラム

今朝の日経文化欄に載っていた歌人の永田和宏さんの「後の日々」という文章にはいろいろ考えさせられた。そこに綴られている亡き妻河野裕子さんへ哀悼の言葉は夫婦の理想の境地をまざまざと感じさせてくれる純粋な愛にあふれていてうらやましいくらいだ。


「ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい」(河野裕子)


「ごはんを炊く」という日常茶飯事が白鳥の歌になりうることにまず驚かされた。誰かのためにごはんを炊くということを人生最後の日まで続けたいという気持ちに共感する女性は多いのではなかろうか。現実に多くの女性が担っているごはんを炊くという行為が家族への無償の贈り物だということにいまさらながら気付かされる。無償であるからこそ贈れるものがあるというのはやはり忘れたくないことだ。


河野さんが亡くなって以来一度も外食をしていないと言うとみなに驚かれると語る永田氏。最後まで夫のごはんのことを案じ続けた妻の気持ちに応えるため自分の食事は自分でまかない「しっかり食べて自分を養うこと」が自らの努めであるとの思いからだという。うーむ、誰かに聞かせたいこのセリフ。


自分自身のためにでもいい。誰かのためにごはんを炊くというのは命を養う究極の贈り物なのだと得心がいった。

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「生物多様性」って?

2010-12-18 | さくさくコラム

今年は「日経ビジネスオンライン」のお世話になることが多かった。会員登録は必要だが無料で購読できる記事はさまざまな切り口で今の時代を見せてくれる。とくに楽しみにしているのは<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>だが、このところ<社会を映し出すコトバたち>にも注目している。現時点での最新記事は「2010年の新語十選」だ。


今年の新語のベストテン入りしているなかでわたしが気になるのは「生物多様性」。これに関しては同じ「日経ビジネスオンライン」の「ニュースを斬る」(10月25日)の<今さら聞けない「生物多様性」保全ホントの話>には驚かされた。生物多様性と聞いてわたしの思い浮かべるキーワードは絶滅危惧種とか里山だった。生物多様性=バイオダイバーシティは「生態系」「(生物の)種」「遺伝子」という3つの多様性を全部守ってはじめて保全したといえる、という岸由二氏の解説は実にすっきりわかりやすい。


つい最近話題になったクニマスもそうだが絶滅種の物語は人をひきつけるものがあるし、里山には郷愁をおぼえる。けれども問題の本質はそういう多分に情緒的な言説では見失われる。「流域」という水循環の基本単位で温暖化対策と生物多様性保全をすすめよという岸教授の言葉は目からウロコというか、今年読んだあらゆる記事の中でいちばんインパクトがあった。


 



 

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ガールズトーク

2010-12-10 | さくさくコラム

作家の川上弘美さんがあるところでガールズトークとは女同士の毛づくろい的儀式と語っていた。なるほど、グルーミングですか。幾つになってもガールはガール。女が三、四人集まればガールズトークのハナが咲く。川上さんによればそこには「お互いをなんともうまく肯定しあうための複雑な構造」があり、それは「女の文化」だそうだ。なるほど。


勝手なことを言い合っているようでいて互いに空気を読みあって会話の流れをコントロールしている。それぞれの本音は会話の流れの中で浮き沈みしながら流れ下っていく。何を話したのかほとんど記憶になく、たくさん話をしたという満足感だけが残ったとすればそれはグルーミングがうまくいったということだろう。


最近よく聞く女子会という言葉。これもガールズトークを求めての集いなのだろうが、グルーミングがうまくいくかどうかはメンバー次第。女子の本音というのはミもフタもないことが多い。男子には聞かせられない女子の本音はほんとのところ聞くのがちょっと怖い。だからこそ耳をそばだてたくもあるのだけれど。

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段落とパラグラフ

2010-11-14 | さくさくコラム

今朝の日経新聞文化欄のコラム「日本語の散歩道」で外山滋比古さんが「パラグラフと段落」を話題にされていた。日本文の段落をトウフに、欧米文のパラグラフをレンガに例えられているのが面白かったのだが、段落とパラグラフ、わたしにはどちらもよくわかっていないことだけはわかった。たとえばこのブログのように身辺雑記を書き連ねているだけの文章に段落が必要であるとすればそれは読みやすさを考えるからだ。点や丸の打ち方と同様、改行にはけっこう気を使うのだが、これといったポリシーがないのでいつも迷う。


一般にブログ文というのは段落意識が希薄なところがその特徴ではなかろうか?原稿用紙のような桝目も枠もないので段落や文字数を意識する必要がない。そうしたしばりのゆるさがブログを書きやすくしているのは事実で同じ文章を原稿用紙に書けるかどうか私自身こころもとない。パソコンなら文章の順序を入れ替えたり切り貼りしたりするのも自由自在だから文章を書くハードルが大幅に下がったのは間違いない。


楽に文章が書けるツールを得たことで文章を書くことへの緊張感が薄れた感は否めない。「三匹のこぶた」の例にならって言えば、文をただ並べただけでは「わらの家」なのかもしれない。

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