泉高校一期生有志のブログです。

昭和48年(1973年)男女共学の新設校として開校しました。
本年(2023年)創立50周年を迎えました。

記憶の倉庫から2 岩崎君との味の記憶

2010年07月31日 | Weblog
時々練習を休むことのあったNo3の岩崎君。そして矢鱈めったら私にあだ名をつけ、練習に出て来いというと「ガッツヤ」と誤魔化していた彼は、私の「遊びの先生」でもあった。彼に連れられて、私の知らない世界を経験していた。ビリヤードをやるようになっのも、彼に教えられたからであった。

その岩崎君に連れられていったのか、皆で何か映画を見に行った時だったのか、とにかく安く胃袋を満たすためによく行ったのが、
めしの「半田屋」
残念ながら、記憶の店の写真は見つけられませんでした。

一番町通りから一本入った所(だったと思う 国分町?)にあった店に何度か行ったことがある。多分岩崎君と遊びに行ったときが多かったような気がする。

入り口には大きな白い暖簾がかかっていて、昭和なガラスの木製の引き戸だった。中はこれまた昭和を感じさせるテーブルと椅子だった。棚から好きなおかずを取り、味噌汁と好みの量の丼飯を受け取とりテーブルに座ると、白い割烹着をきたオバちゃんがすかさず寄ってきて、あっという間に代金を計算して伝票を置いていった。安くてお腹一杯食べられた。

おかずの置いてあった棚は木製で、床はコンクリートの打ちっぱなし。ガタガタするビニール製の座面のパイプ椅子。その色が緑色だった事を思い出した。どんなおかずを取っていたのがまでは思い出せないけれど、もしかしたら、天井から茶色の筒状の蝿取り紙がぶら下がっていたような・・・

全体的に木造の建物で、店内も薄暗い感じだった。半田屋のホームページを見ると、かつての店の面影は一つもない。写真で見るご飯の量も、あの頃に比べたら少なくなったような気がする。「めし」といつた風情はカケラも残っていないのが、残念でならない。などと書くのは、池波先生の影響かな。

トン汁を食べいてたような感じがするのだけれど、すべからくあの時はもっとワイルドたった。ホームページの写真のような機械で切ったような野菜は、美味しそうではない。もっと「家庭の匂い」がするような料理が並んでいたような印象がある。衛生的なことが、かえって「素朴さ」とか「庶民生活」から遠ざかったような気がする。

まぁ平成の世に、「庶民」は不在か。ガソリンスダンで車が燃料補給するように、自分が何を食べているか味と匂いの分らない若者達には、それでイイのかもしれないが。今の半田屋に、私は魅力を感じない。工場のラインの端で、流れてくる「製品」を口を開けて待っているようなファミレスを嫌うように。私は、まともな『食事』をしたいだけである。

 もう一つ、岩崎君関連の味の思い出がある。どんな遊びをしたのか忘れたけれど、お腹がすいたので駅前のビルで彼に蕎麦をおごった事があった。もり蕎麦の大盛を頼んだ。食べ終わると、蕎麦湯が出た。当時の二人は、それが何なのか分らなかった。私が「そういえば・・・」と、「これは蕎麦湯ではないか」、「汁に混ぜて飲むはずだ」と気がついた。それほど、当時は純情だった。

また彼とビリヤードをやった後、何処かの飲み屋でチョット一杯引っ掛けて、ほろ酔い加減で中央道りを歩いていたのが懐かしく思い出されています。



確か高校二年のときにヒットしていたはずである。ラジオで初めて聞いたときには、一体「アィンジィ~」とは何なのか分らなかった。それ以上に、これがローリング・ストーンズの曲だとは思えなかった。

ではまた来週土曜日にお会いしましょう。
BY No8中嶋

投稿について(伊藤)

2010年07月27日 | Weblog
このぶろぐも賑わっているようです。うれしいことです。

しかし問題もあるような気がしました。せめて不愉快なぶろぐにはしたくないものです。

そこで、今回匿名の投稿とコメントを削除しました。
今後もそのようにします。

ぶろぐ自体のあり方も考えたいと思います

ちょっとこのままでは?という感じもします。

節度ある投稿とコメントをお願いします。

みんなのぶろぐということです。その辺のところよろしくお願いします。

たまに覗いたら誰かがコメントしていた。で、いいと思っています。

伊藤

記憶の倉庫から2 仙台駅前 ラーメン 回転寿司 牛タン

2010年07月24日 | Weblog

追記 7/15)
先週は急逝された佐藤明秀君の喪に服してお休みにしました。
愛読者の皆さん(もしいらっしゃればだけとれども)、ご容赦願います。

追記 7/20)
生徒君からのコメントに、
やりました!! (♪)
  結果はゴールド金の
  審査員特別賞です!!
  良い報告できてなによりです。
とありました。
入院中に終えた放射線治療は、「増大していない」くらいの効果はあったようです。20日の嬉しい二つのニュースでした。
今しばらく経過観察しながら、次の一手(化学療法)を相談する事になりました。出来れば、今のうちに続きを書き溜めておきたいものだけれど・・・


今回は、仙台駅前の味の記憶です。

 仙台のラーメンの思い出といえば、中央通り(今もこの名前でいいのかな?)の仙台駅近くにあったラーメン屋さんの印象が強いです。ただし店名は出てこない。少量のひき肉とモヤシを中華鍋で炒めたのが大盛になってのっていて、ニンニクがシッカリ利いていた。店の外まで、プンプンとニンニクの匂いがしていたのが懐かしいです。醤油ではなく、味噌ラーメンだったような記憶である。母もこの店は覚えていて、一度はいったけれど一口も食べれなかったと言っている。当時としては、珍しいラーメン専門店ではなかったかと思うのだけれど。

 もう一つ仙台駅前でボンヤリ憶えているのが、当時始ったばかりの回転寿司である。店が何処にあったかまでは、記憶が再生しません。母の買い物の荷物持ちについていくと、たまに物珍しかった回転寿司を食べに連れて行ってくれました。あの頃も、一皿100円だったような気がする。当時としては、ソコソコの値段だったのかな。遠い記憶では、「立ち食い、一皿○△◇円」などという寿司屋の看板はあったような気がする。いかにせん、まだ寿司屋に出入りするような歳ではなかったので、判然としない。

この辺の事をご記憶の方が大勢いらっしゃると思うので、コメント頂けれるなら幸いです。
 m(。。)m


ウィキペディアによれば、『西日本で店舗展開していた元禄寿司に対して、宮城県の企業(現在のジー・テイスト「平禄寿司」)が東日本での元禄寿司の営業権契約を獲得し、一号店の誕生から10年後の1968年、仙台市に元禄寿司のフランチャイズ店が開店した。元禄産業によると、これが「東日本で初めての回転寿司店」だという。 』

 また駅前のスーパー「エンドー」の横に朝市が立っていた。そこで籠一杯の海老を買い、山盛りのエビフライを母が作ってくれた。母と弟と私の三人にとって、懐かしい仙台の思い出での味の一つである。

 仙台名物牛タンは、大学生になりまだ仙台に家があった頃、No3岩崎君やNo6孝雄君に連れられて、飲み歩いた時に食べたのが初めてだった。大きな炭火焼の金網で、煙が立ち昇る中で店主が牛タンを次々と焼いている姿を覚えている。

働くようになって、終電で帰る毎日だったので、駅前で食事できるような所は、駅前の一杯飲み屋さんの定食か、焼肉屋しかなかった。コンビニですら、東京の一部の店で24時間営業するようになったぐらいの時代だったから。

その少し日本語の怪しい焼肉屋さんに行くと、まず注文していたのが牛タンとキムチとホッピーorチュウハイであった。その後でホルモンやカルビと烏賊などを頼むのが、いつものパターンだった。どうかすると、オモニが「これも食べて」と、韓国家庭料理(だと思う?)の一品をサービスしてくれる事もあった。

 その後チュウハイは広く飲まれるようになったけれど、当時は労働者に愛飲されていた。ホッピーとチュウハイは、ともにビールより安かったから。ホッピーは、現在娘さんが後を継がれて少し盛り返したが、今だ日陰の飲み物である。

スーパーの焼酎売り場に、その瓶を見かけると懐かしさがこみ上げてくる。未だにガラス瓶しか売られていないので、持ち帰るのにためらってしまうけれど、時折買い求めては当時を懐かしんでいる。あのビールのジョッキーに氷を入れて、上からカップで計量して焼酎を注いだあとに、チュウハイなりホッピーの瓶をドボドボと注ぎ、サッとひとまぜして、「ハイョ」と出してくれたオバちゃんの姿が懐かしいです。

Jefferson airplaneから、あまりサイケでない、おとなしいSomebody to loveを選んでみました。



ではまた来週土曜日に会いましょう。
BY No8中嶋

お知らせ

2010年07月22日 | Weblog
大学時代の友人が審査委員をやっているイベントが、
メディアテーク仙台で開催されるので、
興味と時間のある人はのぞいてあげてください。

第26回公募2010日本ジュエリーアート展
併催 第1回日本ジュエリーデザインコンペティション/東の風展

5f ギャラリーa
7/23(金)~7/28(水)10:00-18:00(最終日は16:00まで)
<入場>無料
<問>(社)日本ジュウリーデザイナー協会 03-3523-7344

http://www.jjda.or.jp/compe/2010/index_a.html

ジュエリーと言っても通産省の後援なので怪しい押し売りとかではありません。

SUGAWARA

訃報

2010年07月11日 | Weblog
先ほど連絡がありましたので、取り急ぎ報告致します。

3年7組 佐藤明秀君が急逝されました。

教師をしていました。吹奏楽部で活躍していましたね。

金曜日学校行事に参加中くも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となったそうです。

通夜は 、明日7月12日 7時 泉中央清月記
告別式  7月13日(火曜日)13時 泉中央清月記

七北田中学校卒ですので、そのつながりもある人は連絡してあげてください。

残念です。
まずは取り急ぎ。

桂島君が詳しいかもしれません。

ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

伊藤俊明



記憶の倉庫から2 グランド

2010年07月10日 | Weblog
 シーズン2を始めるにあったって一言(補:これを投稿したのは5/28)。予想したように母の肝硬変は肝臓ガンに進行していました。また私が服用していた抗がん剤のTS-1の副作用がなくなったのと、痛みが強くなるのがシンクロしていたので、「もしかしたら」という杞憂が現実となりました。

あとどれくらいこうしてPCに向かって思い出話しを続けられるか分りませんか、まぁ生きて座れるうちは、何とか続けたいと思っています。ただしネタ切れにならない限りは。


追記 7/4)6月2日、名大病院を放射線治療で訪れた時、マロリー・ワイス症候群にて、大量の吐血をしました。運良く病院内での出来事だったので、助かりました。これから次第に体が弱っていくだろうから、突如投稿が出来なくなるかもしれません。今はチャンと最終回を書きたいと思っていますが、途中でお別れとなったときには、彼女の好物だったマグロの刺身をツマミに生ビールをグヒット飲んで私を偲んでいただけるなら、皆様の下に化けて出てお別れに参上しますヨ。


またここで繋がったラグビー部のメンバー、No4公毅君、No6孝雄君、No13芳明君達への手紙に書いたことだけれど、肝心要のラクビー部のことになると、記憶がグチャグチャになっていて、何が何やらよく分からないでいます。ことに出場した数少ない公式戦のことになると、濃霧の彼方の幻影状態です。

ご記憶の方は、メールなり、コメントなりで教えていただけたなら嬉しいです。

それから当時の記憶が想起されるように、YouTubeから適当にあの頃のヒット曲を選んで貼り付けることにしました。

それでは、シーズン2の始まりは、あの何もなく、広かったグランドの思い出話しを少々。

 今はサッカー部が独占しているのだろうけれど、我々の時代は南側を野球部、四百メートルトラックはラクビー部が独占して毎日夕暮れまで練習していた。サッカー部は、四月にそこそこ人数がいて練習していても、今頃(この記事を書いている五月中旬)になるころには誰もグランドに現われなくなっていた。またテニスコートが出来たのは、ずっと後だった。

当時はグランドに照明設備などなかったので、冬になって日が短くなってくると、コーチの大内さんが、車のライトで照らしくれるくらいだった。その冬になり、昼間の太陽で融けた氷でグチャグチャのグランドが、時間とともに凍ったりしていた。

スクラムのスパイクの跡が、そのまま凍っていた。また練習の仕上げのランパスの頃には、段々凍り始めたグランドに、次第にスパイクのポイントがはじかれて、「カッカツ」と音がするようなっていた。

当時の仙台がそのくらいの寒さだったので、明治大学から森さんと松尾さんを向かえ黄金期だった岩手県の釜石製鉄の冬場の練習がいかに大変だったかと思われる。

 一回生なら誰でも経験があるように、あの広かったグランドの整地作業を体育授業のときさせられた事があったはすである。土木科だったラグビー部は、もう少し本格的(?)な整地作業をしていた。

グランドに頭を出している石や木材を掘り起こす作業をしていた。当然ケンチャンから、スコップやツルハシを借りてきての掘り起こし作業であった。

初めは小さく頭を出している石やコンクリート片が、いざ掘り出すととんでもなく大きかったことがある。そんな場合は、とても掘り起こせないので、そのまま埋め戻した。

グランド全体が使えるようになったのは、南側のゴールの裏に排水パイプが埋められ、グランド全体に新しい土が盛られてからだった。テニスコートが出来たのは、整地作業が済んでからではなかったでしょうか。

はてさて、それが何時の事だったか・・・・

 練習試合の時など、白線引きの数が少なかったから、手に石灰を取って線を引いたりしていた。その時運悪く傷があると、石灰火傷をおこしてとんでもなく痛い思いをした。

その練習試合の相手の一つが、東北高校だった。我々が勝ってしまった(?)ので、暫く「怖いお兄さん方」が、学校の周りをウロウロしていた。

 それとこれは何度も話すことだけれど、あのグランドへのコンクリート製の階段の基礎工事の一端を、土木科の我々ラクビー部が行っていた。狭い板を渡して、一輪車一杯の砂利などを運んで敷き詰めていた。

徹監督は体育の教師だったせいか、ラクビー部の予算はゼロだったみたいで、この工事の後でやっとボールを買ってもらえた。

今回の一曲は、あの「卒業」に使われていたS&Gの名曲。
ラストシーンのバスの中、逃げ出してきた二人の不安げな表情が、若者の一時的で衝動的な振る舞いの失敗を暗示していた。



ではまた来週土曜日に会いましょう。
BY No8中嶋

記憶の倉庫から バス

2010年07月03日 | Weblog




仙台に在住されている方々には、見慣れたバスなのかもしれませんが、泉高校関連の情報を検索している時に、久しぶり見た仙台の市営バスと宮城交通のバスの写真に、「おぉ~そうだった」と懐かしさがこみ上げてきました。入学した頃は、まだ女性の車掌さんがいた。

検索中に見かけた地図によれば、グランド南のバス停の地名は「菅間前」らしい。当時「北根」から「菅間前」まで、市営バスで通っていた。記憶では、朝7時30分ぐらいだったような気がする。教室には、八時過ぎくらいに到着していたような気がする。

また定期券は、ここのバス停のスタンプがなくて将監団地になっていた。それほど辺ぴ(?)だった。

メンバーは時々変わっていたような気がするけれど、大体いつも同じメンバーだったような・・・
それが誰だったかは、まったく思い出せない。

三年の時には、同じクラスの菅井君がいたはずである。毎朝バス停から教室までトボトボ歩く間に、イロイロな事を話していた。かろうじて思い出したのが、「ビートルズの曲に、○△☐という歌詞があるだけれと、どんな意味だろう」と尋ねられたのを思い出したくらいである。

それから一年の時の冬に、大雪が降ったことがあった。三年二組の山田君もいたと思うけれど、皆で手を繋いで倒れこんで、まっさらなグランドの雪に人形を作ったのが懐かしいです。もちろんあの名画のワンシーンの再現である。

いつもオシャレに髪を決めて、ズボンにアイロンが当ててあってシワひとつなかった山田君であるが、一年の時だったか二年のときの夏休みに、バイクに乗ってヒョッコリと我が家に来たことがあった。「おぉい、宿題やったか」「やり終わったならノートを貸してくれ」とのことだった。「まだ全部終わっていない」という私に、「中嶋だったらチャンと宿題をやっていると思ったんだけれど・・・」。そんな情景が思い出された。

追記)
朝の通学のバスの中で、よくやっていた練習を二つ。

一つは、つま先立って、なおかつ出来るだけ吊革につかまらずにいること。バランスの練習である。

もう一つが、その日のテーマカラーを決めて、降車ボタンをみながら、視界の端からその色の物体が現われて消え去るまで、降車ボタンから目ン玉を動かさずに認識する練習をしていた。当然視界の端にあるときには、ボンヤリしてそれが何か分らないのだけれど、視界を広げる目的でそんな事をしていた。

と、シーズン・ワンの終了です。
続編をお楽しみに・・・



RUN D.M.C のこの一曲で、ロックはラップ化してしまい、美しさを失い、我々の時代は終わりを告げた。

だけと、スティーブンは今でもシャウトし続けている。

BY No8中嶋