NewNHK

嘘ばかりのマスコミは信用ならない!
このブログでは日本国民が知るべき本当の真実を書いていく

アベノミクスと財政再建

2020-03-11 21:52:33 | 政治問題

●信用創造

いま、安倍政権の「アベノミクス」のもとで、異次元の金融緩和と言って、日本経済で流通するお金の量を増やそうとする政策が続けられている。ここで多くの人々が誤解しているのは、市中のお金を増やしているのは中央銀行である日銀である、という認識だ。日銀がお札(一万円札などの日本銀行券)を大量に刷りまくっている、などとも言われる。
実は、これは正しくない。
日本で私たちが使う法定通貨(日本円)は、現金(お札や硬貨)と銀行預金である。世の中でキャッシュレスが進んで電子マネーを使う人が増えても、それは、これら法定通貨と結びついていて、最終的には、銀行預金(場合によっては現金)で決済される。
ちなみに、仮想通貨は「円」とは異なる独自の単位で取引されていて、「通貨」には分類されていないし、法律で通用力が与えられているものではない。
日本経済全体で、市中で流通している「市中マネー」の量は、マネーストック(あるいはマネーサプライ)と呼ばれている。このマネーストックのほとんどが銀行預金である。銀行預金にも、普通預金、当座預金、定期預金など、いろいろな種類があり、そのうち、どこまでがマネーストックに入るのかは、定義にもよるが、定期預金と違って、現金と同じように、いつでも支払いや送金に使えるのが普通預金や当座預金。これらをあわせて「要求払預金」が「お金」としてマネーストックに入ると考えると、わかりやすいだろう。
現金+要求払預金を「M1」と称するが、ざっくり言って、現金が100兆円あまり、要求払預金が700兆円程度、あわせて日本経済のお金の総量は800兆円程度である。つまり、お金のほとんどは銀行預金である。
では、この銀行預金を供給しているのは誰なのか?人々がお札を銀行に預金すれば、預金が生まれるが、そのお札も、もともとは、誰かが生産活動をして生み出したお金であり、たいていの場合、それは銀行に預金されていたもの。預金から引き出した現金がまた、預金されていくわけである。
では、そもそも生産活動をするためにはお金が必要だが、そのお金は、どうやって生み出されているのか?少なくとも日銀ではない。
それは、銀行が、生産活動をする企業や人にお金を貸すことによって生まれている。銀行がお金を貸すことを「信用創造」と言う。マネーストックは、日銀ではなく、銀行による「信用創造」によって生まれ、信用創造によって増えていくものなのである。
銀行からお金を借りた方ならどなたでもご存知だと思うが、銀行がお金を貸すとき、預金通帳を作ってください、と言われる。その預金通帳に銀行が貸し付けるお金の額の数字が打ち込まれる。人々が使えるお金が、これで誕生する。
金本位制の時代には、お金を銀行に持って行って金(きん)と交換してもらえたので、金の裏付けのないお金を好きなだけ生み出すことはできなかった。いまは金などの裏付けがなくても、電子的に通帳に記帳すればお金は生まれるが、一応、預金の引き出しにそなえる準備のため、銀行は「準備預金」を日本銀行に積んでいる。
この準備預金は、銀行が日本銀行にもっている「日銀当座預金」に積んでいるお金だが、銀行預金のうち一定比率は、準備預金としてこの口座に積まなければならない。銀行の窓口で預金をおろせなくなると、信用問題になるからである。
準備預金の銀行預金に対する比率は「法定準備率」と呼ばれているが、現状では極めて低い水準で、現実には、銀行が信用創造をする制約になるようなレベルではない。

●資本主義の信用創造

ならば、銀行はいくらでも好きなだけ、お金を貸すことでマネーストックを増やすことができるのか?といえば、そうではない。銀行は債務として、預金を預かり、預金者に金利を支払っている。この金利は銀行にとってコストだ。銀行も商売なのだから、コストを上回る収入がなければ、銀行業はできない。
そこで、銀行は、貸したお金に金利をつけて返してくれると判断できる先にしか、お金を貸せないことになる。金利収入が得られなければ、銀行は商売にならないからだ。お金を借りた企業や個人は、借入期間の間に、元本だけでなく金利をつけて銀行にお金を返すために、お金儲けをしなければならない。
つまり、「儲け無きところにおカネ無し」、カネ儲けができるところにお金が生まれる…。まさに、いまのお金は資本主義のお金なのである。資本主義社会では、人々は金利を返すために、金利に追われて一生を過ごす、などとも言われる。経済活動に欠かせないお金は、債務が発生することで生まれる。いまのお金は「金利付き債務貨幣」とも言われている。
筆者が提唱する「みらいのお金」は、いずれ機会を改めて解説するが、これとはまったく異なる仕組みで生まれるものなのである。

●日銀の発券

このように、お金を増やしているのが日銀ではなく、市中の銀行だとすれば、アベノミクスの異次元の金融緩和で黒田日銀総裁は、どうやってお金を増やそうとしてきたのか。少し難しい言葉だが、そのメカニズムは「ポートフォリオ・リバランス」と言われる。
日銀がいまの金融緩和でお金を増やすために何をしているかと言うと、それは主として、日銀が金融市場で金融機関から国債を買うという手段で行われている。
日銀にも資産と負債を計上するバランスシートがある。資産と負債とのつじつまが合っていなければならない。日銀が国債を買うと、それは日銀の資産を増やす。
他方で、日銀は国債の購入代金を、さきほど触れた日銀当座預金に振り込むことになる。これは日銀の負債になる。日銀は国債を市場から買うことで、その金額だけ、資産と負債を両建てで増やしていることになる。


日銀当座預金は、銀行が日銀に預けているお金なので、銀行からみれば資産になる。ところが、その資産は基本的に金利を生まない。日銀当座預金の金利は、準備預金に相当する部分はゼロ、それ以外は、0.1%という、大変低い金利である。数年前から「マイナス金利」といって、一部はマイナス0.1%という金利になっている。
お金を貸すなど、資産の運用で金利収入を得ることが商売の銀行にとっては、これは金利を生まない「ノン・パフォーミング・ローン」、つまり、不良債権のようなものだ。これがあまりに増えるようだと、銀行の収益率が下がり、商売にならなくなる。
そこで、銀行は金利収入を得るために、企業や個人に対する貸し付けを増やすことを迫られることになる。銀行は自らのポートフォリオ、つまり運用資産の構成を、より高い金利がついている資産の比率を高めることで、日銀当座預金が増えることでいったん崩れたバランスを取り戻す「リバランス」をするだろう。その結果としてお金が増える。


つまり、お金の量を増やすための金融政策といっても、日銀が直接、お金を増やすのではなく、お金を生み出す主体である銀行が、お金を増やすような環境をつくるという、間接的な方法でお金を増やそうとしてきたわけである。
少なくとも、日銀が「量的緩和」の金融政策でお札を刷りまくっているというのがウソであることが、おわかりであろう。現に、異次元の金融緩和が開始された直前の2013年3月末から、昨年2019年の3月末までの数字をみると、お札(一万円札などの「日本銀行券」)の量は約83兆円から約108兆円へと25兆円しか増えていまない。
「しか」と言うのは、お札と同じく日銀の負債である日銀当座預金のほうは、約58兆円から約394兆円へと336兆円も増えているからである。こちらは6年間で7倍近くになっている。
ちなみに、日銀の資産のほうは、この6年間で、国債が約125兆円から約470兆円へと345兆円も増えている。日銀当座預金は国債購入代金で増えてきたので、両者はほぼ同額の増え方となることになる。

●日銀当座預金とは

では、400兆円近くまで増えた日銀当座預金とは何なのか?日銀はこちらの方のお金はこんなに増やしているではないか?という疑問がわくだろう。
日銀は「銀行の銀行」であり、「政府の銀行」である。人々が直接、口座を作って取り引きできる銀行ではない。従って、日銀当座預金は、企業や個人がお金として使えるお金ではない。これを増やしても、それで人々のお金が増えるのではなく、あくまで日銀の帳簿上のお金である。
具体的には、日銀に口座を持っている銀行と銀行との間、あるいは、政府と銀行との間でのお金のやり取りを決済している口座が日銀当座預金だ。
Aさんがa銀行に持っている口座から、Bさんがb銀行に持っている口座に100万円を振り込めば、a銀行の日銀当座預金からb銀行の日銀当座預金に100万円、移る。これは日銀当座預金のなかでのお金のやり取りなので、これによって日銀当座預金の全体の額は増減しない。
Cさんが政府に100万円の税金をc銀行の口座から納めれば、c銀行の日銀当座預金から日銀の政府口座に100万円、移る。政府が財政支出をするときには、どこかの銀行の預金口座にお金が振り込まれるので、日銀の政府口座から、その銀行の日銀当座預金にお金が振り込まれ、それと同時に、同額分、銀行の預金口座にお金が振り込まれる。
納税であれ、国債の発行であれ、民間から入ったお金は、何らかの形で財政支出に回されるので、結果として、日銀の政府口座と日銀当座預金との間の資金のやり取りはチャラになることになる。結果として、日銀当座預金は全体として増減しない。
もちろん、預金者が銀行から預金を引き出すとき、銀行に手持ちの現金が不足するしている場合は、この当座預金(のうち準備預金)を銀行が取り崩すことで、日銀は銀行にお札を渡すことになる。このとき、日銀の負債は、日銀当座預金が減り、その分、これも日銀の負債であるお札の供給が増えることになり、日銀の負債の構成が日銀当座預金から日本銀行券へと変わるが、日銀の負債の金額は全体して変わらない。
預金の取り付け騒ぎでも起こらない限り、現金を銀行に預け入れる額と銀行から現金を引き出す額は、そう大きく違わないだろうから、日銀当座預金全体が大きく増減することはあまりないだろう。
以上のような性格の日銀当座預金は、銀行が、これを取り崩して信用創造などの運用に回すというものではない。よく「ブタ積み」という言葉が聞かれる。これは、日銀当座預金が積み上がっているのに、銀行がそのお金を信用創造に回さない、銀行は十分な貸付努力をしていない、ということを言い表すときに使われる言葉だが、これも誤解である。
日銀はインフレ目標2%を達成するためにお金を一生懸命増やそうとしているが、物価が上昇するためには、先にみたマネーストック、つまり、経済に回っているお金が増えなければならない。ところが、異次元緩和が始まってから7年近く経ったいまも、2%目標達成の目途は、いまだに立っていない。
なぜなら、日銀が増やしたのは経済に回らない日銀当座預金であって、銀行しか増やすことができないマネーストックではないからである。銀行としては、金利を付けて返済してくれる先にしか信用創造ができないため、もっと経済全体の需要が増えて採算が成り立つ事業が生まれてこないと、お金を貸して増やすということができないことになる。
日銀が直接、その量を動かせるお金をマネタリーベース(あるいはベースマネー)と言う。これは、お札(日本銀行券)の発行残高と日銀当座預金を合計したものだ。つまり、日銀の負債の規模のことである。お札の量は市中からの需要によって決まるので、日銀は国債などを売ったり買ったりして、日銀当座預金を増やしたり減らしたりすることで、マネタリーベースの規模をコントロールしている。
結局、日銀当座預金が全体として増えたり減ったりするのは、①日銀が国債などの資産を民間との間で売買したとき、②日銀の政府口座と銀行との間でお金のやり取りがあったとき、③預金者が銀行から預金を引き出して現金に換えた、あるいは現金を銀行に預金したとき(日銀の負債の中で日銀当座預金⇔銀行券という振替が起こる)という3つの場合に限られる。
このなかで、先にみたように、②と③では実際に日銀当座預金の全体の額が大きく増減しないので、日銀当座預金が増減するのは①の場合だけと考えてよいだろう。
 
●日銀が保有する国債は返済不要な債務へと姿を変えている
よく考えてみると、この日銀当座預金とは、銀行に対する日銀の債務ではあっても、日銀の帳簿上の負債に過ぎず、返済義務のない負債だということになる。この負債がなぜ、2019年末時点で400兆円近くまで増えたかというと、日銀が国債を大量に買ったからだ。
「統合政府」という考え方がある。これは、政府と日銀のバランスシートを連結して、一つの会社のバランスシートとしてみる見方である。統合政府でみれば、政府の負債である普通国債の発行残高は2020年度末で約900兆円だが、そのうち半分以上の470兆円は日銀が持っているので、それについては、政府の日銀に対する債務とは、日銀の政府に対する債権でもあり、一つの会社のなかで相殺されてチャラになる。
では、国債は日銀が持つことで、何に姿を変えているか、といえば、それは統合政府の負債である日銀当座預金に姿を変えていることになる。この日銀当座預金は返済不要な負債だ。これは、政府が将来、民間に対して税金で返済しなければならない普通国債のうち半分以上が、返済不要の帳簿上の債務に転換していることを意味する。


言い換えれば、アベノミクスの成果のおかげで、国債の半分以上が事実上、消滅していることになる。これ以上の財政再建はないであろう。

 


明治とは

2020-03-11 08:04:23 | 政治問題

里の民とは江戸時代でいうならば士農工商制度のうちにある民です。「里」の外は「異界」になりますが、その結界というか境界があります。川がその境界になる場合も多くあり、その場合は、川の内側は里で川向うは異界となっていたでしょう。
 そしてその境界に生活する人々もいました。「」などと呼ばれていました。河原は昔は多くは葬送の場所で、遺体を棄てる場所でもあったのです。
 河原の住人は里から必然的に出てくる「汚れ」を処理する役割を担ったりしていました。死牛馬の処理や屠畜などのはその代表的なものです。それで「」という蔑称がでてきたようです。また「」には旅芸人なども含まれ、「河原乞食」と呼ばれていました。
 一方、里の民に対して異界の民がいました。その最たる存在が異国人です。謎の山窩(サンカ)もそうでしょう。境界の住人が異界の民と繋がった窓口的な役割を果たした様子でもあります。

 

外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた人物群の一角に「蘭癖」と称された人々がいたことを前回見ました。蘭学者や九州の外様大名などで、外国勢力と彼らは繋がっていました。その「蘭癖」の代表が「薩摩の島津重豪。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬」とのことでした。

島津重豪とその 曾孫の島津斉彬は共にその娘を将軍家に嫁がせて権勢を振るったのですが、天忠党図には「諸国同士」の同盟者として島津斉彬の名が上がっています。

天忠党は八咫烏の倒幕と親政を目的に結成された政治組織であり、天忠党こそが明治維新の中核組織であったことは既に度々見てきました。外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた「蘭癖」の一群と、天忠党は協働していたということでしょう。

天忠党図の下部には天忠党の仲間、もしくは下部組織として薩摩以外にも筑後久留米藩、肥後藩、筑前黒田藩、豊後岡藩、以上の九州の藩名が上がっています。この中、特に注目すべきは筑前黒田藩でしょう。

筑前黒田藩(福岡藩)はバテレン大名の黒田孝高(官兵衛・如水)の息子で同じくバテレン大名の黒田長政から始まっています。ウィキペディアの「福岡藩」には次のようにあります。

「10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。」

「11代・長溥は、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。」

蘭癖島津重豪の子である黒田長溥とは、筑前黒田藩(福岡藩)の11代藩主であったわけです。バテレン大名から始まり、蘭癖大名が治めていたのが筑前黒田藩で、長い期間にかけて外国勢力と繋がっていたと見るのは自然でしょう。

また 筑前黒田藩の7代と9代は「御三卿・一橋徳川家からの婿養子」ともあります。 筑前黒田藩が注目なのはバテレン大名、蘭癖、島津氏と繋がっていたこともありますが、後の玄洋社に繋がっていくからでもあります。

秘密結社八咫烏の政治組織天忠党と蘭癖がどうやら深く関わっていた様子なのですが、一方この蘭癖に関して前回に挿入されていた「本物黒酒」さんのツイートには次のようにありました。

「蘭学者はもともと、出島に四足を供給するで、その解体と肉加工に従事する間に蘭語や徳語や英語を覚え、通訳・翻訳家・蘭医になった人々。特に鉱脈に詳しい山窩が英米に喜ばれ、外患誘致した」

この内容によると、蘭癖の中でも蘭学者は被差別民のから元々は出来上がり、その中でも鉱脈に詳しい山窩が重要な役どころになっていたとの見解です。

山窩といえば前回記事で昨年12月26日の竹下さんの記事から「日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが『アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生』に繋がった」とあるよう、サンカが外国勢力と深く繋がり、協働する勢力であったことを見ました。

果たして秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別民、サンカがどのような関係にあったのか?が気になります。

秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別民、サンカ、これらの関係や立ち位置、これは難しいです。正直私自身、その正体らしきものをちらちらと垣間見られることはあっても、きちんとした整理や理解もできていないです。何しろ謎が多いのです。

最も資料が多い被差別民をとっても、それがどのように発生したのか? その実態はどうだったのか? これらについても諸説があり明瞭ではないのです。ましてや秘密結社八咫烏など、竹下さんが取り上げていただいたのでおぼろげにはその姿が浮かび上がりましたが、それまでは存在自体が幻の謎の組織だったのです。サンカも同様です。謎だらけなのです。

ただしハッキリしているところもあります。江戸時代で言うと日本の通常の社会は士農工商制度で成立していました。士農工商の民はいわば身分は異なれども「里の民」です。それに対して「外れた」存在がありました。「山の民」「海の民」などがそうなのですが、八咫烏、サンカはその外れた側にあるのです。普通の「里の民」から見れば「異界」の住人でしょう。

「里の民」とそこを外れた民は生活形態、食文化を含めた生活文化を異にしています。

一例を挙げます。明治維新「英領日本」のタイムスケジュールを決定させたのは文久遣欧使節でした。この使節団メンバーが苦しんだのが食事の問題だったのです。使節団を乗せた舟はフランス船で、そこで出される料理はフランス料理でした。しかしこれを当時の「里の民」の普通の日本人が食すのは至難の業だったのです。

日本ではもともと天武天皇の時代からその後平安時代を通して獣肉食は「穢れ」として忌避されていました。そして江戸時代では獣肉食は禁じられていたのです。その普通の日本人にとってフランス料理の獣肉料理はもちろん、牛乳でも「獣臭く」パンでも「気味悪く」喉を通せなかったのです。それで使節団長の池田長発を始めメンバーの多くがひょろひょろのヘレヘレの幽鬼のような状態になったとの報告もあります。

ところがこのような日本人メンバーと全く異なった使節団メンバーがいました。福沢諭吉です。この御仁は洋食、とりわけ牛肉食が大の好物だったようで、明治で獣肉食が解禁されると、盛んに牛肉食を世間に薦めています。ウィキペディアの「日本の獣肉食の歴史」に以下のようにあります。

「福翁自伝によれば、福澤諭吉が適塾で学んだ江戸末期の1857年(安政4年)、大阪に2軒しかない牛鍋屋は、定客がゴロツキと適塾の書生ばかりの『最下等の店』だったという。」

諭吉が学んだ適塾とは蘭学塾です。その近くにあった牛鍋屋で諭吉と蘭学塾の仲間は既に牛肉食をとっていたのです。江戸時代獣肉食は禁じられていたのですが、蘭癖大名や蘭学者は様相が異なっており、彼らは明らかに獣肉食をとっていたのが分かります。里の民と蘭癖となった人々とはその文化を異にしており、蘭癖も里の民と一線を画していたのが見えます。

文久遣欧使節のメンバーで、諭吉をして「同士同感、互いに目的を共にする」とした箕作秋坪と松本弘安(寺島宗則)も獣肉食は平気だったのでは?という気がします。

「本物黒酒」さんは先のツイートにあるようの中に山窩が含まれていると見ているように思えます。その上で『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』で「御書翰掛(ごしょかんがかり)」の要職にあった福沢諭吉と箕作秋坪がであったと推察されているようです。

①に山窩が含まれる。②福沢諭吉と箕作秋坪がであった。この2つの見解ですが、私自身は調査が不足していることもありますがかなり懐疑的ではあります。ただし、と称されていたような被差別民が、イエズス会や外国商人などに接触して最初の蘭学者になっていったとの見解は「そうなんだろうな」と思えます。

やと称された彼らは士農工商の枠から外れた存在で、死牛馬の処理を行い皮革製品を取り扱ったりしました。死牛馬を解体する彼らはその肉を食してもいたでしょうし、欧州異国人に牛肉などを提供したのは紛れもなく彼らでしょう。その異国人との接触の中で蘭学を身に着けていったのも自然に思えます。

一方、と山窩の関係ですが、山窩がの中に含まれてしまうのか?については疑問です。しかしと山窩は親和性が強いのも事実でしょう。山窩は一般的には定住せず、山を川を移住する漂泊の民とされます。一方の中には「河原乞食」とも称された漂泊の旅芸人もいたからでもあります。

また、山窩は里人とは異なった独特の生活スタイルが知られています。「山窩(サンカ)とは何か」という記事には「山窩料理」として「川魚料理をだす。米を食わないサンカらしく、米飯がなく、よもぎソバがメインの料理」とあります。米麦等の穀物が主食の里の民とはかなり食文化が違います。

更にと山窩の関係ですが、この記事では「サンカは明治初期から次第に被差別や都市部のスラム街に溶け込んでいったという。」とあります。と山窩は同一ではないにしても、山窩が被差別村に入ったり、逆にそこの住民が山窩として被差別村を出ていったりする交流はあったように思えます。

そして「本物黒酒」さんは前回の挿入ツイートの中で「山窩は弥生時代以来大陸や半島からの渡来人に蹂躙されてきた先住民の子孫で、固有の言語を守り、結束」との見解を出されていました。この「山窩(サンカ)とは何か」の記事でも山窩の起源について幾つかの見解の中「大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である」との見解を重視しているのが分かります。ただしこの見解と全く異なる見解もあります。

 

 

 


「京都賞」制定の契機は「伴記念賞」?

2020-03-06 23:06:24 | 政治問題

伴五紀  発明王

大正5年3月10日生 
昭和10年 東京高等師範学校入学 
昭和16年 東京文理科大学物理学科卒業(現筑波大学) 
昭和17年 陸軍予科士官学校教官(物理学担当) 
昭和18年 東京物理学校講師 
昭和20年 東京理科大学助教授 
昭和31年 東芝写真用品株式会社取締役兼務(技術、企画担当) 
昭和37年 同社辞任、顧問就任 
昭和39年 株式会社セコー技研設立 
同社代表取締役就任 
昭和51年 東京理科大学教授辞任(4月1日) 
同日付で嘱託教授就任 
昭和55年 伴記念賞制定 
昭和56年 日本能率協会主催小型モーターシンポジュウムにおいて、半導体モーターセッションコーディネイター(座長)となる。 
昭和57年 日本能率協会主催小型モーターシンポジュウムにおいて、小型モーター応用技術関係セッションコーディネーター(座長)となる。米国サンフランシスコで開催された小型モーター技術コンファレンス(シンポジュウム)の日本参加者団長として渡米し、同コンファレンスにおいて『小型モーターの将来』という題目で講演。 
昭和58年 日本能率協会のセンサー技術シンポジュウムにおいてFAを支えるセンサーとアクチュエーターセッシヨンのスピーカーとなる。同協会主催の小型モーター技術シンポジュウムにおいてOA機器への応用セッシヨンのコーディネイターとなる。 
昭和59年 発明記念日に日本発明協会で記念講演をおこなう。現代まで、発明協会東京支部、大阪支部、地方公共団体および会社において数多くの講演をおこなう。 

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「京都賞」は2014年で創設30年です。きっかけは何だったのですか。
稲盛:1981年のある日、東京理科大学の教授だった伴五紀(ばん・いつき)先生から連絡をいただきました。「昨年(80年)、『伴記念賞』というものを作りまして、今年はぜひ稲盛さんにその賞を差し上げたいのです」と。私が50歳くらいの頃です。喜んで東京理科大に出かけました。ところが、先生の教室で景品のカットグラスの花瓶を手に持った瞬間に、「恥ずかしい」という感情がふわっとこみ上げてきたんです。
 
京都賞は稲盛氏の「恥ずかしい」という思いから始まった
なぜ、恥ずかしかったのでしょうか。
稲盛:伴先生は大学でいろいろな技術開発をされ、特許もいっぱい取った方です。その特許を民間企業に使ってもらい、そこから得られるロイヤルティー収入などを元手に伴記念賞を作られた。自分と同じように技術開発、研究開発をする人を顕彰するためです。失礼ながら、薄給の大学教授がわずかな収入をもって、こういう賞を創設された。花瓶も大きなものでしたから、何万円もしたのだろうと思うのですよ。本当に素晴らしいと思うと同時に、本当に申し訳ないと思った。「京セラも立派な会社になって、資産もある。自分こそが、賞をあげる側に立たなければいけない」と恥ずかしくなったのです。
人知れず苦労している学者に光を当てたい
 ちょうどその81年に京都大学教授の故福井謙一先生がノーベル賞を取られました。私は福井先生とも親しかったものですから、京大の人たちに「こんな賞を新しく作りたいのです」という話をしました。伊藤忠商事で(会長を務めた)瀬島龍三さんたちと一緒にノーベル財団を訪問したこともありまして、できればノーベル賞に次ぐ国際的に立派な賞にしていきたいと思って調査研究を始めました。世の中には何万という研究者が辛酸をなめながら日夜研究に励んでいます。人知れず苦労して研究をしていらっしゃる世界的な学者の方々に光を当てたいという思いで、京都賞を始めたんです。
京都賞では、技術部門(先端技術部門、基礎科学部門)に加え、思想・芸術部門も設けているのが特徴ですね。
稲盛:私は心の問題を研究することも非常に大事だと思い、ノーベル賞にはありませんが、京都賞では思想・芸術部門を作りました。芸術といっても、芸術的、技術的に優れているというより、人間の感性に安らぎと喜びを与えるような芸術を顕彰したいと思っています。審査員をしてもらっている学者の先生方は、どうしても芸術性が高いものを選ばれる傾向がありますので、私から注文を付けることもあります。
 
2013年の京都賞受賞者。左から、電子工学者のロバート・ヒース・デナード氏、進化生物学者の根井正利氏、ジャズ・ミュージシャンのセシル・テイラー氏 
京都賞のウェブサイトで、稲盛さんは「人類の未来は、科学の発展と人類の精神的深化のバランスが取れて、初めて安定したものになる」と強調しています。
稲盛:科学技術の発展をリードしてきたのは、人類が持つ好奇心と探求心です。しかし原子爆弾の開発が象徴するように、その進歩が人類にとって善であるのか、悪であるのかという点が常に問われます。好奇心と探求心のベースには、善なる心がなければならないのです。科学技術の一方的な発展は、場合によっては人類の滅亡につながっていく。ですから、精神的な深化を表彰する部門を京都賞で設けたのです。
現代の文明社会は人類の思いの集積
稲盛さんは経営でもそうですが、精神的なものにとても重きを置いていますね。
稲盛:科学技術の進歩は、研究者がこういうものをやりたいと、まず思うことから始まります。どんなに偉大な発明、発見も、どんなに偉大な企業経営も、全てはそれを担当した人の思いが結実したものです。現代の文明社会は、人類の思いの集積だといえます。ある哲学者の方が、「現在あなたの周囲に起こっている現象や環境は、過去から今日まであなたが思い続けてきた思いの結果だ」というようなことを言っています。思いは事ほどさように重要なのに、多くの人がそのことを認識していない。
 そして、思いには気高さが要るんですね。思想家の中村天風さんは「新しい計画の成就はただ不屈不撓の一心にあり。 さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に」と言っています。邪心にまみれた思いではなく、純粋に自分を奮い立たせていく思い。それを持っていれば、個々人の人生も、会社経営も、社会も全ては変わっていく。しかし、そういう思いの気高さについては、誰も言わないですね。だからこそ私は、それが非常に大事なことなのだと重ねて言わなければならんのです。
よこしまな欲得では、信念にまで高まらない
稲盛さんは50代のときに京セラを経営しながら、京都賞と、盛和塾(1983年発足)、第二電電(84年設立)を始めました。それもまた、思いですか。
稲盛:世のため人のため、という大義がありました。よこしまな自分の欲得だけで始めたのなら、逡巡するといいますか、信念にまで高まっていかない。確かに自分の欲望をエンジンにしても、ある程度の強い願望はもたらしますが、大義は全然違う。世のため人のためという大義があれば、自らの命を落としてでも構わんというぐらいの信念になっていきます.

 

 

 


オデッサ・ファイル

2020-03-04 09:31:22 | 政治問題

ローマ教皇ピウス12世(1939~58年在位)は第2次大戦中、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)を黙認していた――長年そうした批判にさらされ、「ヒトラーの教皇」とまで呼ばれた宗教指導者について真実の一端が明らかになるかもしれない。 
当時の公文書はこれまで非公開で保管されてきたが、ローマ教皇庁は「教会は歴史を恐れていない」として、それらの文書を3月2日に公開することに。当時の教皇の言動やカトリック教会の内幕を検証できれば、近現代史研究に大きく資すると期待される。 
一部の研究者は以前から、ユダヤ人をかくまっていた修道院に個人的に資金援助を行うなど、ピウス12世には「親ナチス」でない側面があったと指摘してきた。また教皇就任の1年前に、ナチスを糾弾する秘密文書を米当局に送っていたともいわれる。アウシュビッツ強制収容所の解放から今年1月で75周年。保管文書の公開は歴史の一部を書き換えるかもしれない。 

 

 


明治とは

2020-03-04 06:42:41 | 政治問題

イギリス東インド会社を中心とする外国勢力がインドと中国を征服・蹂躙後、引き続き日本を侵略の標的としたのは自然なことです。
 明治維新とは英領日本の完成でもありました。こう見ると日本は受け身で外国勢力からの侵略を受けた側に見えます。無論その側面も強くはあります。
 しかし一方的に日本全体が侵略されたわけではありません。日本の中に積極的に外国勢力を引き入れて日本支配に導きながら、自分たちの支配力・権力・権勢を高めるのに務めてきた人物群があります。

 

「2020年元旦をもってオランダは正式な国名ではなくなる。ネザーランドが正式国名となる」。このニュースが今年の1月に飛び交いました。2019年12月29日のYahoo!ニュースでは以下の解説がありました。

「オランダには、ネザーランド(Netherlands)とホーランド(Holland)という二つの呼び名がある。しかしホーランドは、ネザーランドとは異なり、それはまるでスペインを“マドリード”と呼ぶようなものであり、首都アムステルダムを含むある一定の地域しか含まないことになる。ネザーランド(Netherlands)は、オランダ12州の総称であるのに対して、ホーランド(Holland)は、アムステルダムを含む2州の地域の呼び名でしかない。」

ホーランド、つまり日本語表記ではオランダとは、アムステルダムあたりの地域名でしかないということです。

日本では、鎖国した江戸時代を含めてずっとオランダという国と貿易を今日まで続けてきたことになっています。しかし実際は、日本の貿易相手はオランダという国家ではなくオランダ東インド会社だったのです。

事実として江戸時代のある時期には、ナポレオンに征服されてオランダと呼ばれていた国家はなくなっていました。日本はオランダ人と貿易をしていたわけではないのです。元々がオランダ東インド会社は世界初の株式会社であり、多国籍企業です。オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムでありここが本社、日本のオランダ商館とはオランダ東インド会社の日本支社という関係になります。

アムステルダムとは、フェニキアを本拠としていたカナン族の黒い貴族たちが地中海から世界支配を目論み、本拠を移してきた地です。彼らはアムステルダムから更にイギリス乗っ取りの攻勢をかけた歴史があります。

オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムにあることを考慮すれば、オランダ東インド会社とはカナン族、つまりブラック・ロッジがその主体となった組織であったと見るのが自然でしょう。

江戸時代以前の日本侵略の外国勢力の主力はイエズス会でした。その侵略は密かにかなりやばい段階まで進んでいました。それに豊臣秀吉に続き、徳川家康も強い危機感のもとイエズス会を日本から放逐し、”鎖国”と称される体制を築きました。

イエズス会はブラック・ロッジに属していました。ところが、日本はブラック・ロッジからの縁を切ったように見えてそうでは無かったのです。江戸時代も貿易を続けてきたオランダ東インド会社は、ブラック・ロッジが主力となる株式会社の多国籍企業だったはずなのです。

明治維新にホワイト・ロッジ及びホワイト・ロッジ闇組織の関与があったのは既に見てきました。しかし基本的な路線としては、外国勢力にとっての日本とはブラック・ロッジの“シマ”だったと見るのが自然でしょう。それで維新後の日本をデザインしたのがイエズス会の別働隊のカルヴァン派のグイド・フルベッキということになるのでしょう。

欧米列強の意向や動きは、オランダ東インド会社を通じて日本は得ることになっていました。従って江戸の後期、とりわけ幕末で列強諸国と条約を結ぶなどの作業もあり、非常に重要な役割を担ったのが蘭学者など、オランダ東インド会社と深く通じていた人物群です。

「蘭癖」という言葉がありました。簡単には「オランダかぶれ」の意味ですがウィキペディアの同記事では次のようにあります。

「蘭癖の学者や武士は結託し、オランダ商館側とともに”自主的独立国家としてのオランダ”が存在しない事を日本国内で隠し続けた。滅亡していたはずのオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるなど、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの、オランダ国が存在しない20年ほどの期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した。(中略)...政治面でもたとえばオランダ商館長と最も密接な関係にあった薩摩藩主島津重豪の政治的画策を助けた。オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍徳川家斉の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものであったとされる。」

蘭癖の学者や武士は結託し、日本人を欺き外国勢力を日本に招き入れていた、とこの記事では指摘しているのです。

その蘭癖の代表が将軍徳川家斉の正室に娘を嫁がせた薩摩藩主島津重豪であり、彼が「オランダ商館長と最も密接な関係にあった」としているのです。記事は更に次のように続けています。

「蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多い。(中略)...このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な人物として、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清や薩摩藩主・島津重豪が挙げられる。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどであった。」

島津氏を始め、蘭癖の九州の外様大名たちが明治維新の主力であったことはよく知られている事実です。バテレン大名の藩の多くが結局は蘭癖大名になっているのです。イエズス会が最初に上陸したのが薩摩であり、イエズス会の日本最初の拠点は大内氏によって長州にたてられています。

鬼塚英昭氏は「日本の真相」ビデオメッセージで「田布施は大内氏の残党の村」との内容を語っていました。これが事実ならば田布施一味も外国勢力と密かに継続して繋がっていたような気もします。

更に注目すべきは堀田正睦も蘭癖だったと記事にあることです。堀田正睦は1858年の日米、日英条約などの安政五カ国条約を調印した江戸幕府の老中首座でした。彼も外国勢力を積極的に招き入れた一人でしょう。

安政五カ国条約の実行スケジュールを決定させた文久遣欧使節、そのメンバーであった福沢諭吉もどうやら蘭癖の一人だったようです。福沢諭吉の主君は蘭癖島津重豪の孫の中津藩主・奥平昌猷であり、諭吉が学びその人生を決定づけたのが蘭学だったのです。

諭吉についてですが、平等主義者とのイメージが私達には植え付けられていますが、この頃は全くの異論で、正反対の差別主義者で帝国主義者であったとの論説が出てきています。

IWJのインタビューに出られていた杉田聡氏、その著書『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』ではその紹介で内容を「脈々と現代に受け継がれる福沢諭吉の思想。その本質は、アジア侵略・人種差別・軍備増強からなる『体系的帝国主義イデオロギー』だった。“近代日本の祖”の虚像を暴く! 」とあります。

確かに諭吉は少し彼の著書や言動を調べれば差別主義帝国主義者だったのが分かります。特に中国や朝鮮を蔑視し、逆に西洋に崇拝的だったのが見えます。この諭吉の仲間であり「同士同感、互いに目的を共にする」としたのが箕作秋坪と松本弘安(寺島宗則)とのことです。

『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』では213頁に、福沢諭吉と箕作秋坪が「外国奉行所の御書翰掛(ごしょかんがかり)という大変特殊な部署」に属していたと明かし、214頁で「御書翰掛」とは〈往復の書翰(書簡)や談判書類はすべてこの掛で取り調べるので、外国奉行所中の外交部である。(中略)...応接の趣意書も書翰も作成して差し出すのだから、外交の基軸は実際にこの 御書翰掛にあり、一人の老中だけでなく奉行もその掛(かかり)の意見どおりになった〉と明かし、「箕作秋坪と福沢諭吉は、老中や奉行に彼らの意見通りに外交させることができる立場にいた」と記しています。

また前回、1858年の「日英修好通商条約」とは実は「日英修好通商講和条約」であったことに触れました。翻訳者は敢えて「英領日本」となることを隠した翻訳をしたのですが、それが誰か? これを同書の246頁に次のように明かしています。

「戦争もしていないのに大英帝国からいきなり講和条約を突きつけられてしまった日本。このことを知っていた人物の中には、この翻訳の指揮を執った箕作阮甫がいました。」

箕作阮甫は箕作秋坪の義父で、蘭学者であり医学者、鉱物学者でもありました。要は日本人に事の真相を隠し欺きながら「英領日本」を導いたのが彼らであった、ということでしょう。

なお勝海舟と福沢諭吉は生涯不仲であったようです。勝海舟は福沢諭吉の正体を見抜いていたのでしょう。差別意識のもと、外国勢力を導き入れて日本支配をさせて、その中自分を特権階級に置く、この福沢諭吉の心情を。