NewNHK

嘘ばかりのマスコミは信用ならない!
このブログでは日本国民が知るべき本当の真実を書いていく

オデッサ・ファイル

2020-03-04 09:31:22 | 政治問題

ローマ教皇ピウス12世(1939~58年在位)は第2次大戦中、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)を黙認していた――長年そうした批判にさらされ、「ヒトラーの教皇」とまで呼ばれた宗教指導者について真実の一端が明らかになるかもしれない。 
当時の公文書はこれまで非公開で保管されてきたが、ローマ教皇庁は「教会は歴史を恐れていない」として、それらの文書を3月2日に公開することに。当時の教皇の言動やカトリック教会の内幕を検証できれば、近現代史研究に大きく資すると期待される。 
一部の研究者は以前から、ユダヤ人をかくまっていた修道院に個人的に資金援助を行うなど、ピウス12世には「親ナチス」でない側面があったと指摘してきた。また教皇就任の1年前に、ナチスを糾弾する秘密文書を米当局に送っていたともいわれる。アウシュビッツ強制収容所の解放から今年1月で75周年。保管文書の公開は歴史の一部を書き換えるかもしれない。 

 

 


明治とは

2020-03-04 06:42:41 | 政治問題

イギリス東インド会社を中心とする外国勢力がインドと中国を征服・蹂躙後、引き続き日本を侵略の標的としたのは自然なことです。
 明治維新とは英領日本の完成でもありました。こう見ると日本は受け身で外国勢力からの侵略を受けた側に見えます。無論その側面も強くはあります。
 しかし一方的に日本全体が侵略されたわけではありません。日本の中に積極的に外国勢力を引き入れて日本支配に導きながら、自分たちの支配力・権力・権勢を高めるのに務めてきた人物群があります。

 

「2020年元旦をもってオランダは正式な国名ではなくなる。ネザーランドが正式国名となる」。このニュースが今年の1月に飛び交いました。2019年12月29日のYahoo!ニュースでは以下の解説がありました。

「オランダには、ネザーランド(Netherlands)とホーランド(Holland)という二つの呼び名がある。しかしホーランドは、ネザーランドとは異なり、それはまるでスペインを“マドリード”と呼ぶようなものであり、首都アムステルダムを含むある一定の地域しか含まないことになる。ネザーランド(Netherlands)は、オランダ12州の総称であるのに対して、ホーランド(Holland)は、アムステルダムを含む2州の地域の呼び名でしかない。」

ホーランド、つまり日本語表記ではオランダとは、アムステルダムあたりの地域名でしかないということです。

日本では、鎖国した江戸時代を含めてずっとオランダという国と貿易を今日まで続けてきたことになっています。しかし実際は、日本の貿易相手はオランダという国家ではなくオランダ東インド会社だったのです。

事実として江戸時代のある時期には、ナポレオンに征服されてオランダと呼ばれていた国家はなくなっていました。日本はオランダ人と貿易をしていたわけではないのです。元々がオランダ東インド会社は世界初の株式会社であり、多国籍企業です。オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムでありここが本社、日本のオランダ商館とはオランダ東インド会社の日本支社という関係になります。

アムステルダムとは、フェニキアを本拠としていたカナン族の黒い貴族たちが地中海から世界支配を目論み、本拠を移してきた地です。彼らはアムステルダムから更にイギリス乗っ取りの攻勢をかけた歴史があります。

オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムにあることを考慮すれば、オランダ東インド会社とはカナン族、つまりブラック・ロッジがその主体となった組織であったと見るのが自然でしょう。

江戸時代以前の日本侵略の外国勢力の主力はイエズス会でした。その侵略は密かにかなりやばい段階まで進んでいました。それに豊臣秀吉に続き、徳川家康も強い危機感のもとイエズス会を日本から放逐し、”鎖国”と称される体制を築きました。

イエズス会はブラック・ロッジに属していました。ところが、日本はブラック・ロッジからの縁を切ったように見えてそうでは無かったのです。江戸時代も貿易を続けてきたオランダ東インド会社は、ブラック・ロッジが主力となる株式会社の多国籍企業だったはずなのです。

明治維新にホワイト・ロッジ及びホワイト・ロッジ闇組織の関与があったのは既に見てきました。しかし基本的な路線としては、外国勢力にとっての日本とはブラック・ロッジの“シマ”だったと見るのが自然でしょう。それで維新後の日本をデザインしたのがイエズス会の別働隊のカルヴァン派のグイド・フルベッキということになるのでしょう。

欧米列強の意向や動きは、オランダ東インド会社を通じて日本は得ることになっていました。従って江戸の後期、とりわけ幕末で列強諸国と条約を結ぶなどの作業もあり、非常に重要な役割を担ったのが蘭学者など、オランダ東インド会社と深く通じていた人物群です。

「蘭癖」という言葉がありました。簡単には「オランダかぶれ」の意味ですがウィキペディアの同記事では次のようにあります。

「蘭癖の学者や武士は結託し、オランダ商館側とともに”自主的独立国家としてのオランダ”が存在しない事を日本国内で隠し続けた。滅亡していたはずのオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるなど、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの、オランダ国が存在しない20年ほどの期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した。(中略)...政治面でもたとえばオランダ商館長と最も密接な関係にあった薩摩藩主島津重豪の政治的画策を助けた。オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍徳川家斉の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものであったとされる。」

蘭癖の学者や武士は結託し、日本人を欺き外国勢力を日本に招き入れていた、とこの記事では指摘しているのです。

その蘭癖の代表が将軍徳川家斉の正室に娘を嫁がせた薩摩藩主島津重豪であり、彼が「オランダ商館長と最も密接な関係にあった」としているのです。記事は更に次のように続けています。

「蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多い。(中略)...このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な人物として、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清や薩摩藩主・島津重豪が挙げられる。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどであった。」

島津氏を始め、蘭癖の九州の外様大名たちが明治維新の主力であったことはよく知られている事実です。バテレン大名の藩の多くが結局は蘭癖大名になっているのです。イエズス会が最初に上陸したのが薩摩であり、イエズス会の日本最初の拠点は大内氏によって長州にたてられています。

鬼塚英昭氏は「日本の真相」ビデオメッセージで「田布施は大内氏の残党の村」との内容を語っていました。これが事実ならば田布施一味も外国勢力と密かに継続して繋がっていたような気もします。

更に注目すべきは堀田正睦も蘭癖だったと記事にあることです。堀田正睦は1858年の日米、日英条約などの安政五カ国条約を調印した江戸幕府の老中首座でした。彼も外国勢力を積極的に招き入れた一人でしょう。

安政五カ国条約の実行スケジュールを決定させた文久遣欧使節、そのメンバーであった福沢諭吉もどうやら蘭癖の一人だったようです。福沢諭吉の主君は蘭癖島津重豪の孫の中津藩主・奥平昌猷であり、諭吉が学びその人生を決定づけたのが蘭学だったのです。

諭吉についてですが、平等主義者とのイメージが私達には植え付けられていますが、この頃は全くの異論で、正反対の差別主義者で帝国主義者であったとの論説が出てきています。

IWJのインタビューに出られていた杉田聡氏、その著書『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』ではその紹介で内容を「脈々と現代に受け継がれる福沢諭吉の思想。その本質は、アジア侵略・人種差別・軍備増強からなる『体系的帝国主義イデオロギー』だった。“近代日本の祖”の虚像を暴く! 」とあります。

確かに諭吉は少し彼の著書や言動を調べれば差別主義帝国主義者だったのが分かります。特に中国や朝鮮を蔑視し、逆に西洋に崇拝的だったのが見えます。この諭吉の仲間であり「同士同感、互いに目的を共にする」としたのが箕作秋坪と松本弘安(寺島宗則)とのことです。

『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』では213頁に、福沢諭吉と箕作秋坪が「外国奉行所の御書翰掛(ごしょかんがかり)という大変特殊な部署」に属していたと明かし、214頁で「御書翰掛」とは〈往復の書翰(書簡)や談判書類はすべてこの掛で取り調べるので、外国奉行所中の外交部である。(中略)...応接の趣意書も書翰も作成して差し出すのだから、外交の基軸は実際にこの 御書翰掛にあり、一人の老中だけでなく奉行もその掛(かかり)の意見どおりになった〉と明かし、「箕作秋坪と福沢諭吉は、老中や奉行に彼らの意見通りに外交させることができる立場にいた」と記しています。

また前回、1858年の「日英修好通商条約」とは実は「日英修好通商講和条約」であったことに触れました。翻訳者は敢えて「英領日本」となることを隠した翻訳をしたのですが、それが誰か? これを同書の246頁に次のように明かしています。

「戦争もしていないのに大英帝国からいきなり講和条約を突きつけられてしまった日本。このことを知っていた人物の中には、この翻訳の指揮を執った箕作阮甫がいました。」

箕作阮甫は箕作秋坪の義父で、蘭学者であり医学者、鉱物学者でもありました。要は日本人に事の真相を隠し欺きながら「英領日本」を導いたのが彼らであった、ということでしょう。

なお勝海舟と福沢諭吉は生涯不仲であったようです。勝海舟は福沢諭吉の正体を見抜いていたのでしょう。差別意識のもと、外国勢力を導き入れて日本支配をさせて、その中自分を特権階級に置く、この福沢諭吉の心情を。

 

 


長春

2020-03-04 06:39:17 | 政治問題

長春は、1931年9月の満州事変の後、翌年、天津に蟄居していたラストエンペラー溥儀を担いで、日本の軍部が満州国を建国したが、その首都「新京」の所だった。以後、「満蒙は日本の生命線」「王道楽土」を列島民に触れ回り、それを信じた信州や東北の人間を満州に入植させながらも、関東軍はソ連が来ることを知りながらも彼らを捨て南方に逃げた。この間、岸信介は満州国国務院高官としてあらゆる「政治的実験」をして、帰国後、東條内閣では商工大臣になった。関東軍がいなくなった満州国に残された日本人にはとんでもない運命が襲った。兵士、民間人など総勢20万人以上が惨たらしく殺され、その御霊が日本国に対し、強い恨みの想いを持っていたが、そうした霊たちが、今回、私たちの帰国フライトに合わせて、一斉に日本列島に向かってきた。私にはそう感じられた。これは、三次元のリアリティー世界にあっては、浮かばれぬままだった霊たちのことです。もちろん、大陸の人間や半島の人間の過酷で悲痛な想いもそこにはあった。
 今回の白頭山ツアーのメンバーには、東アジアに真の平和もたらしたい、と、天空の意志を受ける聖地で、鎮魂の祈りをしたいと決意してきた人が多かった。その中には、明治政府によって弾圧された山岳信仰や伯家神道の関係者もいました。
 明治になって、神仏分離令と廃仏毀釈。そして、それまでの太陰暦(農暦)から太陽暦に切り替わった。このことが、私たちの日常での規範意識から天地自然のリズムを守る意識が薄れさせ、列島の人間社会が、一部の人間が勝っ手に線引きして作り出した国家大義を最優先するという、大間違いの始まりだった。
 政治的観念で、神話世界の皇祖神アマテラスが実体として存在し、その顕現=アラヒトカミが明治天皇で、それが統治する国、「神国日本」。これを創り出すために強引に国家改変(廃藩置県、中央集権、地租改正、神仏分離令、神聖不可侵の天皇=アラヒトカミ、富国強兵)し、その支配地域を物理的にも拡大することを、絶対善とする考えがすべての列島民に埋め込まれた。異議異存は許されなかった。
 明治期は、自由・平等・民主などの思想やキリスト教の慈愛の精神や讃美歌も列島民の心に入りましたが、皇室と一体になった門閥による財界がエリート官僚ともに、日本国による経済支配地域を広げようとした。それを裏から加速させていたのがイギリスです。特にイングランド銀行でした。
 日清戦争での賠償金として、当時の清国の国家予算の三年分にあたる2億テールの金額を、金(ゴールド)で支払うことを求め、それができた時に日本銀行が発足します。実際に日本に持ち込まれた金塊は一部で、多くはイングランド銀行に保管してあった清国名義の金を日本国政府の所有に振り分けたものでした。
 その金(ゴールド)は、そもそも18世紀後半に日本列島とそれ以外の金銀為替の差を利用して、列島から流出したものを、客家による共和政体の組織、蘭芳公司によってボルネオ島(現在のブルネイ)に一旦、集められ、「四海同胞」の理想の下、ヨーロッパにもたらされたものでした。その金(ゴールド)が西欧世界に大変革を引き起こした。その結果が、アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生。
 この頃、日本列島は幕末です。徳川将軍家を中心に、諸侯連合の国家だった日本を、中央集権の国家に作り直す、という大計画は、ウィーン会議後の「金融ワンワールド」の秘密計画でもあったのです。ここには、列島からの出身者ももちろんいました。
 しかも、満州族の清に国家簒奪された明の末裔たちも、このときの日本の変革を支持し、清国打倒に動きました。この中で始まったのがアヘン戦争でした。アヘンの販売で財を成したのが、サッスーンのみならず、アメリカのスカル&ボーンズであり、彼らの上りで建てられたのが、アメリカの名門大学IBリーグです。
 明治の日本は近代化の中で、列島民から大切なものを失わせました。それまで在った、四季の巡りと伴に、多くのイノチと一緒に呼吸する如く、個々の地域を美的に、主体的に創り出すという、体制を捨ててしまった。「お上」だけを見つめる、豚や猿の感性・知性に成り下がってしまった。それが大東亜共栄圏での失敗の後も、経済だけは成長し続けることを絶対善とする体制になってつづいていた。このときは、戦後の基軸通貨になった米ドルを、日銀は、日本国民の汗とその成果を供出する体制をもって裏から支え続けたのです。
今、MMTが話題ですが、多くは、一般会計での財政均衡論を否定する道具として話されているようです。しかし、実際問題、日本の戦後は、国家予算を組む特別会計と一般会計、さらに、金融緩和による民間への融資以外に、巨大企業の経営者個人に巨大な信用枠をつけるという形で特殊資金が多く使われました。これは国民(国会)の知らないところで、日本円での多くのマネーが流され、それは、対外的には、円からドルに変換され、じゃかじゃかとドル経済のために使われてきたのです。日本円の通貨としての流通は少なかったが、基軸通貨米ドルの過剰なまでの流通分(信用創造)を、実質的に、列島民の汗と無知が、支え続けていたのです。

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アジア初の共和国と言われる蘭芳共和国(蘭芳公司)があった場所は、地図の赤色のところ。現在はインドネシア領です。
 新井信介氏の記事によると、金銀為替の差を利用して日本から流出した金(ゴールド)が、“蘭芳公司によってボルネオ島(現在のブルネイ)に一旦、集められ、「四海同胞」の理想の下、ヨーロッパにもたらされた”とあります。
 記事の内容が事実だとすると、日本から流出した金(ゴールド)が、フランス革命を始めとする西欧世界の大変革を引き起こしたことになります。そして、その影響は日本にも及ぶわけです。
 記事では、金銀為替の差を利用して、金(ゴールド)を日本から流出させたのは、サンカ(山家)だと書かれています。張勝植氏の著書「朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇」のp25を見ると、“張家の初代は、2代目とともに長い間、雌伏していた「山家」を出て、オランダの東インド会社の船でヨーロッパに航海し、最初は、イタリアに上陸しました。目的は、教旨によるヨーロッパでの歴史的転換の支援をすることです”と書かれています。
 内容的に一致することから、張家はこの金銀為替を利用した金(ゴールド)の流出にも関わっていたと考えざるを得ません。昨日見たように、明治天皇にすり替わった大室寅之祐(張基元)は、BIS、FRBに70万トンもの日本で産出された金(ゴールド)を預けたということです。
 明治政府は、アテにしていた「徳川埋蔵金」がなかったためにお金に困り、“売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作る”という悪魔の所業を行いました。しかし、これほど莫大な金(ゴールド)があるのなら、このような行為も、またロスチャイルド家からお金を借りる必要もなかったわけです。日本は、借金の返済のために大陸に出て行かざるを得なかったのです。
 先の引用では、“教旨による”と書かれていました。要するに、これはハイアラーキーの計画だということです。これらの陰謀に関わった者たちは、記事にあるように、“国家や民族、血統など関係のない「一視同仁」の世界をつくるため”という理想(大計画)に基づいて動いたわけですが、実際に行ったことは、まさに悪魔の所業なのです。彼らは、自分たちが神に仕えていると信じ切っていたのですが、彼らが仕えていたのは、神ではなく、「魔」の軍団(ハイアラーキー)だったわけです。