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【将棋】山田定跡をひたすら称賛するブログ

居飛車急戦党の将棋史研究。
古の棋書から、将棋の思想・捉え方の変遷を追います。
対局は道場がメイン。

ブログお引越しのお知らせ(gooブログ⇒はてなブログ)

2025-08-14 10:43:21 | 将棋

以前まで当サービス(gooブログ)で将棋に関する個人的な思いをつらつら書いていたのですが、NTTドコモが今年11月にそのサービスを停止するということで、下記リンクのはてなブログへ引っ越しました。今後ともよろしくお願い致します。

https://isseitmr.hatenablog.com/entry/2025/08/13/101210

 

ちなみに、将棋道場に伺う度に先生に二枚落ちで指していますが、初めて勝った後に5回ぐらい負けているので、そろそろ勝ちたい所です。下図のような初手△2二銀に対して(定跡は△6二銀)、下手はどの筋の歩を突くべきかが課題の一つです。▲7六歩は当然として、その後。


【将棋】【個人研究】四枚落ちで上手が攻め合いを志向する指方

2025-08-10 22:11:09 | 将棋

将棋道場では、学校が夏休みであるためか、新規のお子さんが何人か来るようになり、平日でもよく見かけます。喜ばしい事です。

他方で、将棋は始めてから1勝するまでが遠い(私自身も悩みました)。新規の子供同士であれば勝ったり負けたりでしょうが、元々将棋道場に通っている子供たち(2級~五段)を相手にする場合では、級段位差相応の駒落ちの手合いでも勝つのは難しいと思われます。

私も四枚落ちで上手を持たせて頂いたのですが、部分図で以下のような局面となりました。最近通いだしたといっても以前から親と指していたためか、2筋は突破できないことは分かっているのでしょう。結局、1五の銀が立ち往生したまま終局を迎えてしまいました。そこで、感想戦では例の▲2三銀成の攻め筋を教えました。興味無さそうでしたが、小学校低学年なので仕方無し。

それでは、次回の四枚落ちの対局で、もし彼(彼女)が例の▲2三銀成の筋を見せてきたなら、私は先生から教えて頂いた沢山の紛れ筋を駆使して、全力で勝ちに行くべきでしょうか。否。目先の将棋に勝つよりも、将来強くなった彼(彼女)に勝つ方が充実感が大きい。私は「将棋は定跡どおりに指すもの」と考える理由の一つは、アーリーサクセス(Early Success)[1]の積み重ねが物事の上達において重要であるためです。ゆえに、手筋の▲2三銀成は初めて勝って貰うまでは通すべきです。四枚落ちの棒銀戦法に懐疑的な先崎先生ですら、「▲2三銀成は名手であり、この棒銀戦法の骨子である」[2]と認めているくらいですし。

そこで、今回は四枚落ちで▲2三銀成された後から上手がカウンターアタックする指し方を検討します。▲2三銀成の後に上手の受け辛い将棋となるのは歩切れだからです。対策として一歩を入手するために、下図のような陣立はいかがでしょうか。上手玉を一段上げて、最速で△7五歩と突っかけると、▲1一歩成の後のタイミングになります。

これに対して、下手は実戦心理としては▲同歩と取るでしょう。△同金、▲2一と、△3四銀とした時に、下手の飛車が素通しでありながら成り場所が無いのがポイント。

素朴に▲1三香成なら一旦△7三桂と力を溜めて、次に下手に緩手が生じれば、上手は飛車を苛めに行くか5筋に殺到するかを選びます。

もし、下手が▲2二と、△4二金、▲3二と、△同金、▲2一飛成と指してくる強者なら(下図)、上手は中段玉で粘っても99%負けるでしょうから、次の対局で▲2三銀成を防ぐように指せばよい。

 

【参考文献など】

[1] 三枝匡、「経営パワーの危機」、日経ビジネス人文庫、p. 244、2003年

[2] 先崎学、「駒落ちのはなし」(電子書籍版)、日本将棋連盟、p. 73、2012年


将棋道場で指導対局も再開しました(元の鞘に収まる)

2025-08-03 18:02:51 | 将棋

プライベートのブログなので仕事のことはあまり書けないのですが、私は大手メーカーで製品開発(製品化よりも基礎技術寄り)を担当しています。基礎技術寄りとっても、製品に必要な技術なら専門分野を問わず何でもやります。尤もこれは産業界に限ったことでなく、学術界でも一流の大学は何でもやっています。例えば、CNRS(フランス)のS. Candel先生の功績を紹介するレビュー論文[1]が発表されたので、興味があればご参照下さい(もちろん、自分はCandel先生の1/10にも至っていません)。

メーカーでは、従来の開発スキームでは限界が見えてきたとき(もしくは将来的に限界が来そうなとき)、開発が行き詰まる前に新しい開発スキームを構築する必要があって、それに先立って必要な基礎研究をします。基礎研究といってもマスコミ報道で印象付けられるようなスマートなものでは無く、実際にはかなり泥臭い活動です。

メーカーが行う研究の重要な点は、既にある学術界の知見(理論や経験的事実)をいかに応用するかにあります。現場を知らない科学哲学者はこのことを簡単に考えますが、実際には頭を色々捻らしたり、試行錯誤したりと大変なものです。そのやり方は人によって異なりますが、私は将棋の勉強とあまり変わらないと思っています。具体的には、①研究対象の「急所」について学術界の先行研究(論文)を読んで知見を得る。②実験装置を作って(可能であれば製品に近い形で)、得られたデータを自分の「読み」と比較する。③「読み」が合わなかった点を整理して、論文を読み直して原因仮説を設定する…の繰り返しです。

山田先生の文章には、「このように、自分で発表した研究とそっくり同じ手順で勝った例は珍しいことであり、私にも始めての経験であった」[2]とあるように、1回目の実験で予想通りに行くことは滅多にありません。100点満点中、30点取れれは良い方です。ところが、それが最近では60~70点取れるようになってきており、逆説的にもそれで悩んでおります。

研究職に従事するうちに先行研究の論文の読解力が上がった、自分で図面作成するようにした(昨年、技能検定2級の資格を取りました(第24-2-052-28-0052号))、日本の古文を読んでその感覚を報告書作成に取り入れるようにした…等の肯定的な要因もあるでしょう(最後の点には説明が必要でしょうが、割愛します)。しかし他方で、選んだ研究テーマが自分には未経験と思い込んでいただけで、実際には既に経験していたことを多少ずらしただけという可能性も捨てきれません。そこで、自戒のために「研究通りにいかない」将棋の四枚落ちを、将棋道場の先生にお願いすることにしました。

 

将棋道場に伺って指導対局で四枚落ちをお願いしたところ、先生は「田村さんは四枚落ちは卒業ですから、これからは二枚落ちにしましょう」と仰られました。お話を伺うと、約半年前のゲスト棋士の指導対局イベント(2025/1/12ブログ参照)の後に、ゲストから「田村さんの四枚落ちには全然勝てない。どうやって勝つんですか?」というコメントがあったらしい。憶測ではありますが、多分、「指導対局にしては度を越えている」と窘められたのでしょう。

それはさておき、二枚落ちで二歩突っ切りを4回指して、良いところ無く負けました。敢えて少し愚形にして、定跡通りの攻めが出来ないようにするのがいやらしい。そして、5回目の最序盤はこんな感じになりました。

下手が定跡だと言って▲4六歩~▲4五歩と伸ばすと、△6三銀~△5四銀から4五の歩取りを見せ、下手の飛車を4筋に縛って紛れ形にする意図でしょう。しかし、△5四歩を突いていないから、下手は4筋の位を急ぐ必要は無い。そこで私は上図で▲3六歩と指して、以下、3筋で飛車先を切った後に4筋の位を取り、それを▲3七桂で支えることで定跡通りの駒組みが出来上がりました。こんな風にあからさまな局面を演出することで、下手に考えさせる意図なのでしょう。ちなみに本局で初めて二枚落ちで勝ちました。

こんな感じで将棋道場では指導対局もボチボチ指そうと思います。ただし、前にも指摘したように、通常の意味での「指導対局」ではありませんが。

 

【参考文献】

[1] Christophe Bailly et al., "A dedicated paper for Pr Sébastien Candel EM2C laboratory, CentraleSupélec", Combustion and Flame, Vol. 279, 114301, (2025)

[2] 山田道美将棋著作集、第一巻、大修館書店、pp. 224、1980年


家の戸口に怪しいボランティア団体がやってきた(伝統宗教への風評被害を心配する)

2025-07-27 12:36:49 | 雑記

今朝、家のパソコンで図面作成の練習をしていたところ、ボランティア団体に所属している方から訪問を受けました。

インターホン越しの第一声で、先方は所属と氏名を名乗らずに、「ボランティア活動を紹介したいから、扉を開けてくれないか」と仰られたので、ああ、これはダメなヤツだなと思いました。

話を聞いていると聖書の勉強会をしているらしく、どうも「40年間研究してきて分かったこと」があるらしい。しかし、キリスト教には約二千年の歴史があって、聖書解釈についての様々な論争は今でも現代語訳で入手できます(自分はヒルティ幸福論[1]-[3]がお気に入りです)。

私は「あなた方はカトリックか?プロテスタントか?」と尋ねたのですが、先方はそういう類のものでは無いと仰られました。だからもう、「伝統宗教には興味があるが、あなた方には興味が無い」と言い終わる前に、先方は一方的にまくし立てるように話し出しました。

議論にならないので、「お引き取り下さい」と言わざるを得ませんでした。一回ではきかなかったので二回目を言うと、先方は不満そうな顔して戸口の前で棒立ちされました。帰ってくれないので私はインターホンを切りました(10分後にインターホンを点けると、もう居ませんでした)。

 

聖書解釈を他人に押し付けるなんて腹立たしい。理想論で恐縮ですが、信仰とは自分の意志で選ぶものであって、親が元々信じていたとか、ある種の党派性によるプレッシャーとかで、半強制的に所属されられるものでは無い。自分で聖書(私は[4]を持っています)を読んで自分なりに「こういう意味だろうか」と考えて、教会での他人と議論して自分なりに良いと思ったものは受け入れ、自身の解釈を実生活で試みて失敗・成功して…という風に、自分なりに解釈を洗練させていくプロセスが大事です。

勇気には2種類あって、スポーツで求められるような肉体的な勇気だけでなく、実生活では心の勇気が重要です。心の勇気を手に入れるのは自分の行動次第ではありますが、宗教はその神秘性をもって個人の行動を後押ししてくれると、ヒルティ幸福論を読んで学びました。

宗教を信じないことも選択肢の一つですが、宗教について無関心であることと混同してはいけません。今度の機会に伝統的なキリスト教会を尋ねてみて、昔から社会問題となっている(ごく一部の)新宗教のために、伝統宗教が風評被害を受けていないか状況を伺いたい次第です。

 

【参考文献など】

[1] ヒルティ著、草間平作訳、「幸福論(第一部)」、岩波文庫、1961年

[2] ヒルティ著、草間平作・大和邦太郎訳、「幸福論(第二部)」、岩波文庫、1962年

[3] 同(第三部)、1965年

[4] 聖書協会共同訳、「聖書」、日本聖書協会、2018年


将棋の定跡が満たすべき要件について(その2)

2025-07-22 14:00:51 | 将棋

タイトルから逸れるようで恐縮ですが、先月、娘の参観日に小学校の国語の授業を拝見しました。情報の授受がテーマでして、具体的には、①遊園地に沢山の人々が居る絵があって、8班に分かれた生徒たちがその絵の中から一人を選び、各班でその人の特徴を文章にする。②出来た文章を他の班に向かって声で伝え、他の班はその「大事な部分」をメモして班内で共有した上で、遊園地の絵の中の誰を指しているかを当てるというものでした。

保護者へのデモンストレーションの意図のためか、参観日では②を見せて頂いたのですが、より重要なのはその前の①のように感じました。全ての班の文章構成が同じだったことから察するに、ひな型を用いた文章作りの課題を前の授業で行ったのでしょう。「その人はどこにいますか?」「どんな服を着ていますか?」「帽子や眼鏡を身に付けていますか?」とか。

ただ、それだけだと課題が機械的になってしまうので、各班が選んだ人に自由に名前を付けることになっています。そういう風にして親近感を持たせることで、「その人を他の班に見つけてもらうにはどうすれば良いか?」という気持ちになるきっかけが与えられます。

 

参観日で上記を拝見して、「私が小学生だった30年前から、小学校の文章教育は確実に進歩している」と思いました。私の時は、学校の文章教育は自然主義の呪縛から抜け出せていないように思われました。いきなり原稿用紙を渡されて、「見た通り、思った通りに、自由に書いて下さい」と先生が仰ったのを、今はそう解釈しています。当時、この自由作文が苦痛でしかなかった。原稿用紙に1文字も書けませんでした。先生には怒られましたが、大人になって仕事に役立たなかったので、今となっては大した事ではない。この自然主義について、佐藤健二(2014=2024)[1]によれば、

学校での作文の歴史は、型にはまり過ぎた明治の美文教育への批判から、「あるがまま」「思った通り」の自然主義へと移行したことを、進歩として評価するだろう。「あるがままに書く」が、対象に対する自然主義だとすれば、「話すように書け」は、方法における自然主義であった。しかし「学校」という場の閉じられた空間性が、そこに理想とは異なる矮小化された現実を生み出した。評価者の代表である教師の価値観や評価に合わせて、感じた振り、思ったふり、考えたふりの学校作文の技巧に秀でた優等生を生み出してしまったからである。

生徒自身なりに考えて文章を構築する意図であった自然主義が、結果的ではありますが、教師個人の価値観の押しつけになっていたという見解です。念のために言うと、これは教師が日本の社会規範を教えることとは、全く別問題です。

かといって、明治の美文教育に戻るべきとも思いませんが、私としては、少なくとも文章のひな型は教えるべきだと思います。ひな型であれば、先生・生徒・第三者の全員にとって目に見える形になり、様々な人が見解を述べたり検証したりするでしょうし、学校で実践して成功したこと/失敗したことも整理し易くなり、作文の教え方を考え直す材料となるでしょう。

しかしながら、どの国にも封建的な価値観があって、そのために予定調和を求める国民の一部(保守・リベラルに依らない)から、上記は大きな政治的反発を食らうでしょう。そのような困難さの中でも、小学校の作文教育が自然主義から脱却できたのは、霞が関の官僚たち・現場の先生たちの努力の賜物だと推察します。

 

【参考文献など】

[1] 佐藤健二、「論文の書き方」、ちくま学芸文庫、pp. 282、2024年