精神世界の旅

精神世界のいくつかの領域を探求します。

覚醒・至高体験:島田明徳04

2007年06月09日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き気功家・島田明徳氏の事例である。

その他の事例は臨死体験・気功・瞑想の「覚醒・至高体験事例集」をご参照いただきたい。

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さて、島田氏の「尾てい骨から強烈な熱気が昇ってくる」という体験は、ヨーガの世界で知られるクンダリニーの覚醒体験と酷似している。いや、クンダリニーの覚醒そのものと言ってよいだろう。

では、クンダリニーとは何か。 ヨーガの教説によると、クンダリニーとは、人体の生殖器より少しさがった尾てい骨のあたり(ムラダーラチャクラ=気功の陽関という経穴に対応)に蛇のようにとぐろを巻いている休眠状態の宇宙生命エネルギーである。クンダリニーは、人間の先天的な原気であり、それは宇宙に遍満するエネルギー(プラーナないしシャクティー)と元来同じものだが、ほとんどの人間においては、尾てい骨のあたりに内在したまま、半ば眠っている。そのクンダリニーは、個人が行をすることによって活性化される。

クンダリニーが目覚めると、その強力なエネルギーがスシュムナ管にそって上昇していく。スシュムナ管は、脊椎の中心を通るエネルギー回路で、気功でいう督脈にほぼ対応すると見てよい。ヨーガでは、このスシュムナ管にそって、脊柱基底部から頭頂にかけて、チャクラと呼ばれる七つのエネルギーセンターがあるとされる。チャクラは、クンダリニーの上昇にしたがって順次開かれていき、その潜在していた力を発揮する。クンダリニーが、最終点で頭頂のサハスララチャクラ(気功でいう百会)と呼ばれるエネルギーセンターと出あうと、このチャクラが開かれ、解脱に至るという。

クライム精神世界書店

2007年05月28日 | 本の紹介
クライム店長の精神世界書店は、
私が読んだ精神世界系の本の中から、とくにおすすめしたいものをえりすぐった、模擬書店です。

それぞれに短いコメントをつけています。ぜひご覧ください。

覚醒・至高体験:島田明徳03

2007年05月26日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き気功家・島田明徳氏の事例である。

その他の事例は臨死体験・気功・瞑想の「覚醒・至高体験事例集」をご参照いただきたい。

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この体験を境にして島田氏の気感は、それまでとは大きく変化したという。人や樹木や大地からの「気」が、以前よりはるかに強く感じられ、樹木などからの気の摂取もこれまでと比らべられぬほどうまくいくようになった。  

やがて気感も落ち着き、一時の異常な強烈さは薄まった。そして修行は、さらに高い段階に進む。「気」を自分とは別個のエネルギーとして感じている段階から、「気」と自分の意識が一体化してしまう段階へ進むのである。そのための修練が精宮瞑想であるという。小周天で練った「気」を身体の各部にあるエネルギーセンターに集める修練である。このセンターは、ヨーガではチャクラとよばれるが、仙道では精宮という。この部分に「気」が集まると内的な変化が生じやすくなる。自分の意識が精宮の中に入り込み、自分が「気」そのものになってしまうという。  

そして、精宮に「気」を集める瞑想を始めてから数カ月たったある日、立禅による気功の修練中に、島田氏は自分の意識が飛躍的に拡大する体験をする。

「この時の私は、自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々がみんな自分になってしまいました。単なるイメージではなく、自我意識が残っている状態ですから、自分を意識できる状況下において、その自分が、山であり、川であり、空であるといった状態をはっきりと認識できるのです。

山の緑が自分、空の青さも自分、川の冷たさも自分、すべてを自分の意識として実感できるのです。自分の意識が、自分の肉体から離れて外の世界へ拡がって、まるで 自分自身が宇宙そのものになったようでした。   

その時に私は、私が個としての人間(意識が肉体の中に閉じ込めれられた状態)としてだけ、この世界に存在しているのではなく、私という人間が、すべてのものとつながって互いに影響しあいながら、この世界に存在しているのだということを悟りました。私たちが、自分とは別なものとして考えていたものが、実は、自分と同じもの であるということ、すべての存在は、個々の存在を超えた大いなる意識(宇宙意識)にその源を発し、その意志を反映いるにすぎないということに気づいたのです。」

心に響く言葉:演じる必要がない

2007年05月20日 | 心に響く癒しの言葉
オリン

守るべきものが何もないと、
人生は楽になります。
なぜなら、自分以外のものを
演じる必要がないからです。

(サネヤ・ロウマン『パーソナル・パワー』)7

覚醒・至高体験:島田明徳02

2007年05月20日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き気功家・島田明徳氏の事例である。

その他の事例は臨死体験・気功・瞑想の「覚醒・至高体験事例集」をご参照いただきたい。

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 「‥‥夜、床につくと、何も意識しないのに尾てい骨から強烈な熱気が昇ってきました。この『気』が背骨を上昇するたびに上半がそり返り、頭項から身体の前面に抜ける時に、上半身が床から50センチくらい持ちがって、バタンと床に落ちるのです。自分ではまったく意識していないのに、熱気の動きに合わせて身体が勝手に動くのです。 
 
 これでは、とても眠ってなどいられません。しっかり目を覚ましていれば動かないのでが、少しでもウトウトすると、またしても『気』が勝手に動き出して、さっきまでの動きが始まります。この日はとうとう一睡もできませんでした。   
  そして翌日になると、尾てい骨から背中にかけて、今までに感じたことのない強い気感が広がっていました。 それは、まさしくエクスタシー感(強烈な快感)というもので、目はうつろ、思考する気にもなれないほどでした。目を開けているのに、意識がほとんど身体の内部に向いていて、とてつもなく気持ちがいいのです。これが本当の恍惚感かと思いました。何をやっても身体中が快感です。疲れないし、感情が波立つこともない。」  

覚醒・至高体験:島田明徳01

2007年05月13日 | 覚醒・至高体験の事例
今回からは、再びサイト、臨死体験・気功・瞑想の「覚醒・至高体験事例集」の中ですでに取り上げた事例に戻る。今日から何回かは、気功家・島田明徳氏の事例である。といっても、そのまま掲載するのでなく、必要に応じて解説部分を改訂しながらの連載である。

気功と覚醒との関連は、このサイトの重要なテーマのひとつである。以前に取り上げた「掲示板」での対話にも関係する。

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サイト「臨死体験・気功・瞑想」のテーマのひとつは、気功と瞑想、気功と覚醒の関連を問うことである。ここでは「気」の修練が「悟りへの道」と深く結びついていると思われるひとつの体験例を見てみよう。 

「『対極の理』実践会」を主催する気功家・島田明徳氏の体験である。彼は、修行のために富士周辺に「山ごもり」したときに、仙道の師に出会って弟子となった。師は、中国で仙道を修行したが、文化大革命で母国を追われ、日本に住みついた陳驢春(ちんろしゅん)老師であった。

島田氏は、本格的な「気」の修練を、仙道の練丹行からはじめている。練丹というのは、下腹部(下丹田)に全身の「気」を集めて「丹」(「気」の固まり)をつくるという仙道の修練法である。彼は、陳驢春老師のもとでこの行を続け、素晴らしい進歩をとげたという。下丹田の熱気が強まり、「何やら液体状に感じはじめ、続いて粘土を腹の中でこねているような感じになり、さらに続けているうちに、その粘土状の物が腹部で振動してきた」というのだ。さらに、「気」の固まりが上下左右に動き出すように感じられてきた。

次の修練段階は、練丹でつくった「気」を意識の力で体内に巡らす小周天である。「気」を下丹田から会陰(肛門の1センチ前あたり)を通して尾てい骨へ、そこから背骨を通して頭頂(百会)まで上げ、さらに顔の前面から身体の前面を通して下丹田まで下ろしていくのである。そのとき、熱気をもった液体状のものが虫が這いずるような感じで移動するという。とくに気が会陰から尾てい骨に移動するときには、まるで焼き火鉢を当てられたような熱さだったという。  

島田氏の場合、練丹を開始して六年目に「丹」ができ、その後まもなく小周天ができるようになった。そして、小周天ができるようなって数日たったある日、島田氏はつぎのような強烈な体験をした。

覚醒・至高体験:ガンガジ11

2007年05月12日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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その瞬間私が気づいたことのシンプルさは信じがたいものでした。そんなにシンプルなことであるはずがない、と思っていたのです。私はずっと、罪、欲望、好戦性、憎しみ、そしてカルマがなくならない限り、この平安には到達できないと教えられてきましたし、教えられたことを信じてきました。やっと私は、私が何を考えたにしろ、それはいつでも思考にすぎず、条件付けの影響を受けたり消えてなくなる可能性があったりする以上、信頼のおけないものである、ということに気づいたのです。真実を発見したとき、もはや思考を信頼することはできませんでした。思考は私の主人ではなくなったのです。知らない、ということに対して抱いてた恐れは、知らないということの喜びに姿を変えました。知らない、ということが、思考では認知できないものに私の心を開いてくれたのです。何という安堵感、何という素晴らしい解放感だったでしょう!

覚醒・至高体験:ガンガジ10

2007年05月08日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。

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私にはガンガジのいう「物語」という言葉が胸に響く。結局、私が思考によって織り成す一切は、「物語」にすぎない。自分が自分の都合にあわせて作り上げた「物語」。でありながらその「物語」こそこの世でいちばん大切なものと思い込んで、それに執着し、苦しみを生み出している。しかし、所詮それは「物語」に過ぎないのだ。

覚醒・至高体験:ガンガジ09

2007年05月07日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から、ガンガジがパパジの元で覚醒する経緯を紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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その瞬間私は、これまで私が欲しがってきたもののすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く純粋な存在の中で起こっていたことでした! そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかたったのです。そしてこの存在は、あらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです。

覚醒・至高体験:ガンガジ08

2007年05月06日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から、ガンガジがパパジの元で覚醒する経緯を紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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けれどもパパジの存在感は偉大で、その、彼の目を見つめた瞬間、私はそこに、力、明晰さ、そして広大さを認め、それが私の足を止めたのです。師が与えられることを求めたのは私でした。そしてその瞬間、幸運にも私には、自分が求めた師の言うことに注意を払うだけの分別があったのです。その瞬間私は、何ごともいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしようもない絶望の深淵のように思われたところに落ちていきました。すると、私が追い求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そしてそれがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに私は気づいたのです!

覚醒・至高体験:ガンガジ07

2007年05月05日 | 覚醒・至高体験の事例
パパジは、すべての精神的行為を止めるように指示した。ガンガジはその言葉で、恐怖におそわれた。引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から、ガンガジがパパジの元で覚醒する経緯を紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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私はそのときじっと座っていたので、いったいパパジが何を行っているのかわかりませんでした。それから、彼は肉体的行為のことを言っているのではない、ということに気づきました。そうではなくて、パパジは私に、すべての精神的な行為を止めるように指示していたのです。

頭の中で疑問や恐れが聞こえました。もし考えるのを止めたら、肉体を気遣うこともなく、朝ベッドから起きることも、車を運転することも、仕事に行くこともできない――私は恐怖でいっぱいになりました。探し求めるのを止めたら、ここまでの探求の中で手に入れたと思っていた地盤を失ってしまうような気がしました。自分が手にいれたように感じていたものの一部をなくしてしまうかもしれない、と。

覚醒・至高体験:ガンガジ06

2007年05月04日 | 覚醒・至高体験の事例
パパジは、興奮するガンガジに何を言ったのか。引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』から、ガンガジがパパジの元で覚醒する経緯を紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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パパジは私を普通以上の歓迎のしかたで迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものは何であれ持っていきなさい、と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目に見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」

私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」

パパジはまず「正しい場所に来たね」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。

覚醒・至高体験:ガンガジ05

2007年05月03日 | 覚醒・至高体験の事例
ガンガジは、ついに降参し、真実の師を求めて祈る。引き続き『ポケットの中のダイヤモンド』からガンガジが覚醒する経緯を紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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とうとう私は、助けが必要であることを認めました。私は師を必要としていたのです。真実の師、本物の、決定的な師が現れるように祈りました。本物の師、本物の教えとはどういうものか、その結果がどういうものになるのか、私にはまったくわかりませんでした。ただ、もがき苦しむことから解放されたい、ということだけはわかっていました。私は私の真実の存在を実感したかったけれど、どうしたらそれができるのかわかりませんでした。私は、自分の知る限りの手を尽くしたことを認め、そしてついに降参したのです。

真実の師が見つかることを祈ってからわずか六ヶ月のうちに、奇跡的な状況が重なり、私はインドでH・W・プーンジャ(パパジ)と向かい合っていました。

覚醒・至高体験:ガンガジ04

2007年04月29日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き、ガンガジが覚醒に至るまでの経過を『ポケットの中のダイヤモンド』から紹介する。

なお、そのほかの「覚醒・至高体験事例集」は、臨死体験・気功・瞑想を参照のこと。

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私の「物語」はある人の物語とは違うけれどある人の物語とは似ている、ということには気づいていたものの、私はまだ物語を信じており、私の苦しみは続いていました。私の心の中と外面の生活の出来事のほとんどを、悲しいほどにロマンチックな物語が覆っていることに私は気づいていましたが、この物語が現実でないなどとは夢にも思わなかったのです。

どうしたらいいのかわかりませんでした。比較的幸せで、ときには深い充実感さえ感じながら、名づけることのできない何かを強く切望するなということがあり得るのでしょうか? この、心理的な苦悩のもつれを解きほぐすために、私は知っている限りの手を尽くしていました。

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『ポケットの中のダイヤモンド』において「物語」という言葉が印象的に繰り返し語られる。自分とは、こういう人間で、こういう人生を送ってきた、これからこういう生き方をしたい等々。自分が重ねてきた経験の自分なりの解釈、これからの人生への希望。それがどのようなものであろうと、それは「物語」に過ぎないとガンガジはいう。

「物語、つまりある経験から蒸留されたものとして、それは相対的な真実かもしれませんが、最終的な真実ではありません」とガンガジはいう。P86 そして、たった今、自分の物語を語るのを止めよ、という。今、物語を語るのを止めるということはすなわち、どんな物語も超越して存在する真実に気づくのを先送りにするのうぃを止めるということだという。

ガンガジ自身は、どのようにして彼女の「物語」から解放されていったのか。

覚醒・至高体験:ガンガジ03

2007年04月25日 | 覚醒・至高体験の事例
引き続き、ガンガジの覚醒体験。『ポケットの中のダイヤモンド』より

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私はクタクタでした! 私は、自分自身にも、日々自分を改善する努力に充てる、絶え間ない注意にも、すっかり幻滅していたのです。私は、自分がある周期にのっとって自分との関係を持っていることに気づいていました。その周期の一端には、自分に満足し、人生はうまくいっている、という感覚があり、反対の端には、迫り来る破局、人生の底に流れる惨めな経験、そして、宇宙全体の状況は絶望的である、という確信がありました。

その周期を何百回と繰り返すと、すっかりそれに慣れてきます。浮かんでくる思考も、イメージも、感情も、結論も、すべては以前にもあったものです。嫉妬、羨望、初めは感覚的、知的満足を、やがては精神的な満足を与えてくれる経験の探求――それらはみな私を、私にとっての不満足状態に連れ戻すのです。

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ガンガジのいう「周期」は、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。それほど振幅が大きくはないかも知れない。また、それほどはっきしりとした形はとらないかも知れない。順調でそれなり満足し、さらに充実させたいと邁進する自分。しかし、一方には、そういう幸せが崩れるのではないかという不安と恐れ。

この不安と恐れは、人間が生きるということの根底に横たわる条件に根ざすようだ。いのちと一体化した「自我」の幸せと安定、金や名誉による「自我」の満足と拡大。それは永続するものではなく、いつかは崩れ去る以上、「自我」は根底に不安と恐れを抱え込んでいる。そして、「自我」自身は、その恐れの根を断つことができない。