天皇、皇后両陛下が54年ぶりにフィリピンを訪問しています。目的は両国の戦没者慰霊です。
今回は、フィリピンの事について書きたいと思います。
フィリピンと聞くと、後進国という印象を持ちますが、戦前のフィリピンのGDPは日本よりも上でした。
マニラは、アジアで最も近代化された都市で、東洋の真珠と呼ばれ、日本人の出稼ぎ者も多く住んでいました。
当時、日本人の評判は大変よく「正直、よく働く、誠実」、現地の人に厚く信用されていました。
しかし、1941年の太平洋戦争勃発で、それまでのアメリカ統治から日本軍統治に変わっていきます。
日本軍の怒濤(どとう)の進撃の前に、米軍とフィリピン軍も降伏。
マッカーサーは、マニラ湾に浮かぶ司令部があった要塞島コレヒドールから命からがらオーストラリアに脱出しました。有名な「I shall return」を残しています。
現在のフィリピンはかなりの親日です。私がいた頃は、教養のある人や都市部では親日でしたが、地方では戦争の記憶が残っていて、日本人は残虐だと言われました。囲まれて「おじいちゃんは日本兵に殺された」、「なんで子供たちも殺したんだ」と言われたこともありました。旧日本軍が作った国道5号線(※今は名称が違っています)は、マニラからルソン東北部のアパリまで通っています。
この道は、1944年、マニラに上陸したアメリカ軍が日本軍を追撃した道でもあります。
至る所に、激戦地の碑や玉砕した慰霊塔があります。
国道に沿って日本軍の残虐な「言い伝え」が多く聞かれました。よく聞いたのは「フィリピン人の赤ん坊を放り投げて、銃剣で刺した、兵隊たちは遊んでいるみたいだった」です。他にもいろいろ聞きましたが、内容があまりにも残酷なので書くことができません。
しかし、それを聞いて疑問に思ったのは、敗残して命からがら逃げる日本兵にそんなことができたのか?なぜ、街道の街々で同じ話が語り継がれているのか?でした。
国道5号をアパリまで到達するとこの先は海です。日本兵はそこに台湾行き船があると信じてマニラから数百㎞の道のりを必死に向かいました。ところが、すでに船はなく、アパリが多くの日本兵の最期の地になってしまいました。海の彼方に日本を思い浮かべながら、どんなにか口惜しかったでしょう!
町外れに小さな教会がありました。中に入ると案内してくれた司祭が「今、君の立っている下には日本兵がたくさん埋まっている」と教えてくれました。こんな教会があちこちにありました。
マニラに戻って、戦争博物館で体験してきたことを調べました。
終戦の1945年ダグラス・マッカーサー司令官が出した命令に「Occupation Program」がありました。簡単に言えば、再占領地に於ける現地人のコントロールです。
アメリカ兵は、戦闘地域で日本兵かフィリピン人か区別が付かなかったそうです。
多くのフィリピン人が、日本兵と間違えられて殺されたそうです。そして、日本兵の悪い噂を誇張して流す事で、日本兵は悪人で、アメリカ兵は善人という構図を作り上げました。実は、戦後の日本でも同じようなプロパガンダが流布していました。
折角、築き上げた日本人とフィリピン人の絆も、無謀な軍部の南下政策によって破壊されました。戦争は二度としてはならないのです。今では、多くのフィリピン人が戦前の過ちを赦してくれています。
ご高齢の天皇、皇后両陛下は、近年、激戦地を御幸(みゆき)なさり、先の大戦で亡くなった多くの方々に深々と頭を下げられています。よき鎮魂となるでしょう。
【説明】
1.2枚の写真は、スペイン人が建てた最古の教会です。ここでも近所の人に取り囲まれて、この教会を壊したのは日本人だ!と責められました。ミサに出席していたたくさんの方が、爆弾でなくなったそうです。すると、奥からお年寄りが出てきて、「いや、教会を爆撃したのはアメリカの飛行機だ」と言ってくれました。
2.戦争当時の事をよく知る二人に聞き取りしました。白シャツの方は、日本軍の通訳をしていたそうです。方や、メガネをかけている方は、反日戦線フクバラハップの司令官です。「ずっと、日本人が憎かったけど、君と会えて長年の重荷がとれたと言って下さいました」
3.2枚の写真は、日本兵の最終の地アパリです。マニラからバスで18時間以上かかります。
4.フィリピン人の抵抗戦線やスパイを監禁した牢獄です。潮が満ちると溺死するように作られています。内部の岩にはたくさんの爪痕がありました。
5.最後の夕日を浴びた教会は、戦後、日本の有志によって建てられた教会だそうです。