沖田をクリアしました。
「新選組」の沖田ほど、妄想をかきたてられる史実の人物はいない、と誰か小説家の方がおっしゃってましたが
沖田は池田屋で吐血、んでもってクールに粛正、みたいな「優しい面」と「血」がつきまとうので、素材的にエロティックなのです。
ええっ?新選組だよ、ストイックでしょと思う人もいるかもしれませんが
むしろ島原行きまくりの方がストイックに感じてしまう。出すもん出してるからでしょうかね? あ、下品。
史実の資料も少ないわけですが。
近年になって、医者で新選組のファンの人が沖田の結核について調べて、
池田屋の時点では吐血しているわけがない、とか言い出し
じゃあその史実に忠実に忠実にしようと作り手がそうすると、
今度はすでに作られた沖田伝説があって。受け手の固定概念によって「え~そんなの沖田らしくない」などと言われ出す始末
…というのがありまして。
史実というのは現実。だから、伝説や妄想のように美しいものでもカッコいいものでもない。
けれど、娯楽として求める側は、カッコよくない現実的なものはむしろいらないと言う。
そこらへんが、史実とのつきあい方の難しいところです。
私も沖田に関する小説や資料をたくさん持っている方ですが
小説やコミックについていえば10人いれば10人の沖田がいる。
ある意味、沖田は創作の上では、創作者自体を斬ります。
エンタの上での沖田、「沖田総司」という器の中に入るのは創作者の意志という事ではないかと思う事がしばしばあるのです。
だからこそ怖い。
「死」を美学的に肯定して、狂気めいた沖田にするのか
命令に従っただけの好青年にするのか、
それとも天然系にするのか。路線すなわちその作品。
多く語られ、多く作られ、しかしどこか「らしさ」が固定概念として存在し、ひとり歩きしているという感じすらある沖田さんです。
人の噂やイメージがつくり上げる「人」ってのもある。
子供と遊んだりする一面を持つ天才剣士、瞬速の三段突き、池田屋事件や吐血や晩年の黒猫の話なんかはアトリビュートになり
そうやって多くの場合は、その人に対して本当は誤解していても、「それが沖田」としてしまうのでしょうか。
イメージの連鎖の延長上にある、固定観念の中の沖田を望むならば、「遙か5」での沖田像は甚だしく間違っている、という事になります。
前の「遙か5」で、私は史実の沖田ではないとか、ほど遠いとか、もったいないとか言ったかもしれません。
ちょっと修正させて下さい。すみません。
私が言ったのは、そうです「既成概念で作り上げられた、少女向けの沖田総司伝説」とは遠いというものかもしれません。
しかし、そこから一度出なくては、己の誠を通せない。それが「遙か5」の太刀筋でもあるんでは。
私は、この作品はまるで
沖田の墓前に供えられた、誰が置いていったかもわからない小さな花のようだな
と、そう思ってしまいました。
墓前で手を合わせる時に、「あなたはこんな人でなくてはダメ」「こんな人だったはず」と言いますか?
(…まあ、確かに新選組ミーハーの中には墓参りのマナーも知らずにキャーキャー騒いで写真を撮りまくった女子がいたという話もあるんですが)
ちょっとどうしても語る上でネタバレになってしまいますが
リンドウさんのくれたアイテム、あのアイデアはこのルートを語る上で欠かせないと思いました。
つまり、あのアイテムを使ってやっている事こそが
私たちが史実を通じて得ている事なのかもしれません。
さて、本当はここで書いておくべきかな、という「感情」について
ちょっと意図的に外してみようと思ったので、触れてません。
なぜってね…。感情を押しつけてくる神子がウザい、と感じる人が多くなりすぎてた場合は
もはや「遙か」は語れないだろうな…と思ってるからです。
泰明泰継以降、いやアンジェのエルンストやネオアンのジェットも含めて
ロマンスの勝利こそがネオロマンスだから。
都や瞬ががっちり守っている神子
でもねぇー沖田も近藤さんや土方さんに、やたら守られてるんだけどねぇ~
と、ニヤニヤしながら。
遙からしい美しい沖田、これはこれでマイ伝説です。
次はいよいよ、気になっていたチナミくん。
「新選組」の沖田ほど、妄想をかきたてられる史実の人物はいない、と誰か小説家の方がおっしゃってましたが
沖田は池田屋で吐血、んでもってクールに粛正、みたいな「優しい面」と「血」がつきまとうので、素材的にエロティックなのです。
ええっ?新選組だよ、ストイックでしょと思う人もいるかもしれませんが
むしろ島原行きまくりの方がストイックに感じてしまう。出すもん出してるからでしょうかね? あ、下品。
史実の資料も少ないわけですが。
近年になって、医者で新選組のファンの人が沖田の結核について調べて、
池田屋の時点では吐血しているわけがない、とか言い出し
じゃあその史実に忠実に忠実にしようと作り手がそうすると、
今度はすでに作られた沖田伝説があって。受け手の固定概念によって「え~そんなの沖田らしくない」などと言われ出す始末
…というのがありまして。
史実というのは現実。だから、伝説や妄想のように美しいものでもカッコいいものでもない。
けれど、娯楽として求める側は、カッコよくない現実的なものはむしろいらないと言う。
そこらへんが、史実とのつきあい方の難しいところです。
私も沖田に関する小説や資料をたくさん持っている方ですが
小説やコミックについていえば10人いれば10人の沖田がいる。
ある意味、沖田は創作の上では、創作者自体を斬ります。
エンタの上での沖田、「沖田総司」という器の中に入るのは創作者の意志という事ではないかと思う事がしばしばあるのです。
だからこそ怖い。
「死」を美学的に肯定して、狂気めいた沖田にするのか
命令に従っただけの好青年にするのか、
それとも天然系にするのか。路線すなわちその作品。
多く語られ、多く作られ、しかしどこか「らしさ」が固定概念として存在し、ひとり歩きしているという感じすらある沖田さんです。
人の噂やイメージがつくり上げる「人」ってのもある。
子供と遊んだりする一面を持つ天才剣士、瞬速の三段突き、池田屋事件や吐血や晩年の黒猫の話なんかはアトリビュートになり
そうやって多くの場合は、その人に対して本当は誤解していても、「それが沖田」としてしまうのでしょうか。
イメージの連鎖の延長上にある、固定観念の中の沖田を望むならば、「遙か5」での沖田像は甚だしく間違っている、という事になります。
前の「遙か5」で、私は史実の沖田ではないとか、ほど遠いとか、もったいないとか言ったかもしれません。
ちょっと修正させて下さい。すみません。
私が言ったのは、そうです「既成概念で作り上げられた、少女向けの沖田総司伝説」とは遠いというものかもしれません。
しかし、そこから一度出なくては、己の誠を通せない。それが「遙か5」の太刀筋でもあるんでは。
私は、この作品はまるで
沖田の墓前に供えられた、誰が置いていったかもわからない小さな花のようだな
と、そう思ってしまいました。
墓前で手を合わせる時に、「あなたはこんな人でなくてはダメ」「こんな人だったはず」と言いますか?
(…まあ、確かに新選組ミーハーの中には墓参りのマナーも知らずにキャーキャー騒いで写真を撮りまくった女子がいたという話もあるんですが)
ちょっとどうしても語る上でネタバレになってしまいますが
リンドウさんのくれたアイテム、あのアイデアはこのルートを語る上で欠かせないと思いました。
つまり、あのアイテムを使ってやっている事こそが
私たちが史実を通じて得ている事なのかもしれません。
さて、本当はここで書いておくべきかな、という「感情」について
ちょっと意図的に外してみようと思ったので、触れてません。
なぜってね…。感情を押しつけてくる神子がウザい、と感じる人が多くなりすぎてた場合は
もはや「遙か」は語れないだろうな…と思ってるからです。
泰明泰継以降、いやアンジェのエルンストやネオアンのジェットも含めて
ロマンスの勝利こそがネオロマンスだから。
都や瞬ががっちり守っている神子
でもねぇー沖田も近藤さんや土方さんに、やたら守られてるんだけどねぇ~
と、ニヤニヤしながら。
遙からしい美しい沖田、これはこれでマイ伝説です。
次はいよいよ、気になっていたチナミくん。