自然を求めて近辺ぶらり

四季折々の風景、草花、野鳥などの写真を紹介しています。

江戸から47番目の宿場・中山道 大湫宿 (大久手宿)を訪れました。

2017年09月15日 | 町歩き・ウォーキング・登山
岐阜県瑞浪市の中山道・大湫宿 (大久手宿)を訪ねました。大湫宿は慶長9年(1604年)日吉高原〜十三峠の標高510mの高所に新道として中仙道が整備され、新宿として大湫宿ができ、1861年皇女和宮降嫁に伴い10月28日に宿泊された。この時の御供約5000人、人足等約28000人、馬約800頭だったと伝わります。
【大湫(おおくて)と大久手(おおくて)の使い分け】
  大 湫・・・村としての地名で「大湫宿」
 
 大久手・・・幕府等の文書で「大久手宿」 

本陣跡の小学校校庭 
小学校は新しい校舎に移り、この校舎は秋に解体される予定です。


和宮が泊まった本陣は、現在小学校になっている。それを偲んで2句を刻んだ歌碑が建てられている。
  遠ざかる都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり
  思いきや雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは


本陣跡の説明


和宮陶人形
皇女和宮 (中央) が徳川家茂に嫁いだ時の姿を表したものです。


脇本陣 (19部屋、153畳)
中仙道の整備によって、1604年に大湫宿が正式に開設され、保々氏が本陣・脇本陣・問屋場を任せられる。御公用継立てにより、公卿・幕使・大名などの宿泊所となる。(非公開)


大湫宿丸森 (国登録有形文化財) と大湫宿の町並み
丸森は当時は旅籠と塩の販売業を営んでいました。現在は観光案内所となっており、内部が公開されています。
























大湫宿の街並み




















山車蔵 今年は10月1日にお祭りが開催され、葵の御紋がある山車が引き回されます。


高札場 幕府が法令・心得等威厳を示し掲げた所


神明神社


神明神社の大杉 
樹齢1300年、幹回11m、直径3,2m、樹高60m (現在40m)、3度の落雷などにより、樹勢が弱くなってきたため、保存事業が行われた。








最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中山道・大湫宿 (ヒトリシズカ)
2017-09-15 07:18:20
イケリンさん

江戸時代に中山道の新道が整備され、この大湫宿がつくられたのですか・・当時の面影を残す街並みが保存されている様子がよく分かります。

ここは当時の尾張藩の領地だったのですね。山の中という雰囲気です。

皇女和宮 が徳川家茂に嫁いだ時の姿を表した人形がよく保存されていますね。

最後の巨大なスギの木も、霊が宿っている雰囲気ですね。
返信する
大湫宿 (イケリン)
2017-09-15 08:13:31
ヒトリシズカさん おはようございます。
この宿場から近い馬篭宿や妻籠宿の賑わいように比べると
大湫宿は人影もなく、ひっそりと静まり返っていました。
この街道を和宮の御供約5000人、人足等約28000人、馬約800頭が通った
往時の面影を偲ぶよすがもありせんでした。

返信する
大湫宿 (kagurakko)
2017-09-15 11:00:14
こんにちは、イケリンさん。
中山道、大湫宿は本陣後ですか?
皇女和宮が降嫁の総勢数を思うに想像が付きません。
お供、人足、馬、荷物と???
町並は良く保存されていますね~。
現在も住んでおられるのでしょうが、西国街道の本宿跡等も尋ねますが、何処も保存に町が力を入れているのを感じます。
神明神社の大杉はパワーを感じます!
長生きできますよ!!
返信する
Unknown (マダム・グラハン・洋子)
2017-09-15 13:45:52
いけりん様 こんにちは

オオクテ・ナガクテとも今は「久手」を使いますが以前は「湫」を使っていましたね。

初めてこの地名を目にしたとき、なんて読むんだろうと思い、その後ナガクテを書こうとすれども「鍬」しか連想できませんでした。

和宮の和歌には、歴史に翻弄された女性と、同情することがあります。

昔の14・5歳なんて、ものすごく子供で、遠い江戸での生活に不安が強かったのだろうと思います。

5.6歳で婚約しその後、婚約は破棄され、時代の政策に身をまかすしかなかった和宮。

その流れは緩やかなものではなく、激流でしかなかった。

私は大奥に興味がないので、江戸城での彼女の生活は知りませんが

和歌に書かれている心情は、なぜかよく伝わってきますね。
返信する
大湫宿 (イケリン)
2017-09-15 15:06:24
kagurakkoさん こんにちは。
和宮降嫁の行列はすごいものですね。
この行列が、一体どれくらいの距離続いたのかと思いますね。
こんなたいそうな嫁入り行列は最初で最後のような気がしますね。

神明神社の大杉には圧倒されました。
手で触れてパワーを体内に取り込んで来ました。しばらくは大丈夫です。(笑い)


返信する
和宮 (イケリン)
2017-09-15 15:27:54
洋子さん こんにちは。
湫と久手の説明が、頂いたパンフレットにありました。参考までに記します。
「湫と久手とは、土地が湿地・沼地の意味。中世以降、その土地を水田化してきて、現在の裏田がある。」
  ※近くに大湫湿地というのがあるようです。
文字の意味
大湫(大久手)・・・大きな湿地  長湫(長久手)・・・地形がくねくねして山坂や狭間が多い土地

皇女和宮は、まさしく歴史に翻弄された女性ですね。
本人の意思に関係なく自分の運命が決められる。その心情やいかにと察すると言葉も出ませんね。
救いは、徳川家茂との夫婦仲が非常に良かったということではないのでしょうか。
環境に順応できる女性だったようですね。
返信する
こんばんわ、イケリンさん (たか)
2017-09-15 18:13:03
『馬篭や妻籠の賑わいを他所にひっそりと静まり返る宿場』とイケリンさんの御返事の言葉に有りましたが
むしろ、こうした静けさの中に当時の面影が偲ばれる気がして私にはとても興味深い記事でした。

公武合体の象徴、和宮様につきましては色々な憶測も有りますが
家茂とのロマンスが全てを打ち消してくれた様な気が私には致します。
上州板鼻宿で籠から下り一夜の宿とした本陣で詠んだ和宮様の歌が此処にも残されておりますよ。
・・都出て幾日来にけん東路や
    思えば長き旅の行くすえ・・
返信する
Unknown (イケリン)
2017-09-15 18:58:12
たかさん こんばんは。
観光客でごった返す馬籠や妻籠に比べれば、ここには静かな雰囲気が漂っていました。
見るべきところは少なかったですが、往時の雰囲気だけは感じ取ることができました。
観光案内所の方にも丁寧にご説明いただきましたよ。

上州板鼻宿にも歌が残されているのですね。
今ならわずか数時間で着く道のりを、日数をかけてゆっくりと進む長旅の間に、
これからの生活の不安など、いろんな思いが交錯したことでしょうね。

返信する
大湫宿 (fukurou0731)
2017-09-15 20:21:51
イケリン様
こんばんは。
中山道大湫宿。歩くことが目的でしたので、ゆっくり見学もしていなかったなあとブログを見せてもらって反省しきりです。
こんなに見どころがあったのですね。
皇女和宮様が通られたと言う証が中山道にはとてもたくさん残っていました。この時代の人々にとっては、天地がひっくり返るほどの出来事だったのでしょうね。
返信する
大湫宿 (イケリン)
2017-09-15 20:38:10
fukurou0731さんは
中山道も歩かれたのでしたね。
今は取り残されたようにひっそりとしていますが、当時は賑わったことでしょうね。
皇女和宮降嫁の行列がこの宿も通過したのですものね。
これだけの大行列が通過すれば、土地の人のみならずとも驚きますよねぇ。
長い間語り草になったことであろうと思います。
返信する

コメントを投稿