哲学は英語でフィロソフィーといい、原語の意味は知を愛するという事で
難しい事ではない。難しくしているのは翻訳だと思う。英語ならまだしも、ドイツ語フランス語では理解できる日本語に移し変えられてないような気がする。
翻訳者の力量が問われるのだが、日常的日本語に翻訳できているのか問われる。当然、明確性、無謬性、一義性が要求される。
さて本題のヘーゲルだが筆者はテキストとして有斐閣新書の「論理学入門」を推奨したい。これは形式論理学ではなく弁証法的論理が説かれている。弁証法とは正と反の対立矛盾の統一である。それを合といい、止揚されてより高い段階の進歩発展につながる。その運動が永遠に続く。
運動は絶対で静止は相対である。人類が生息している地球は自転公転しているし、太陽系は銀河系の渦の端で回転しているし、銀河系宇宙は大宇宙の膨張に連れて動いている。
人間の観念も自動展開(運動)する。筆者はヘーゲルの「精神現象学」を長谷川宏翻訳本で二三十年も前、通読したがまあまあの印象しかない。あのぶ厚い大部の本はアマゾンマーケットプレイスで十何年も前に売りとばしてしまった。
現在、講談社選書の同氏による「入門」を通読中だ。同氏はヘーゲル翻訳で一線を画した人だが自分はまだ不満足だ。事と物の判別ができていない。こととものをひらがなで逃げている。ヘーゲル叙述の意識の展開(もしくは運動)を旅と表現している。意識自体は旅しない。宿泊や旅館で食事しない。旅するのは人間である。
なかなかヘーゲル哲学の核心に接近できない。実は筆者はマルクス主義からヘーゲルにたち戻っている。マルクスはヘーゲル左派とされている。マルクスはヘーゲルの観念論を経済学によって唯物論にした。だから元々ヘーゲル主義なのだ。
マルクス主義はさておいて、ヘーゲルなのだが合理主義哲学の祖とされている。
「理性とは物の世界のすべてにゆきわたっているという意識の確信である」だから存在するすべては合理的である。
合理的だから存在している。非合理に成ると存在しなくなる。これも弁証法で人や物や事(制度やシステム)にあてはまる。
まだまだ書ききれていない。弁証法の統一発展について。小論理学では無から有に発展してゆき、本質、概念と発展し絶対理念で終わる。この観念イデアが自己運動=発展してゆく経過が記述される。