わたくしのブログで扱うべきテーマかどうか、迷っていましたが、
わたくしの関心・興味を抑えることができず、まとめて掲載しました。ご容赦を。
この男は、ソ連の元KGB将校アレクサンドル・ワシリエフという。
戦後も長く、最高機密文書にアクセスできたアレクサンドル・ワシリエフは、機密文書を
手書きで写し取り、ソ連崩壊後に国外に持ちだした。
「イノーマス」(巨大の意味)と呼ばれたソ連のスパイ作戦の詳細がそこには記されていた。
1944年に4人の原爆スパイを獲得し、その中にセオドア・ホールがいたとある。
また、西側では、1948年から1951年にわたるVENONAの調査で戦中のスパイ活動の全貌が
解読されている。
ベノナないしベノナ計画(Venona project)は、1943年から1980年までの長期にわたって、アメリカ合衆国とイギリスの
情報機関が協力して極秘裏に行ったプロジェクト。主要任務は当時のソ連が第二次世界大戦後半に発信した暗号文を
解読することであった。
ロスアラモス国立研究所でのIDバッジの写真。
スパイ活動はこうした実証がなければ公表されることはありません。
アレクサンドルのいう「4人の原爆スパイ」とは、
第4のスパイ、セオドア・ホール。19歳という若さであった。
クラウス・フックス、彼もロスアラモス国立研究所にいた。
逮捕されたローゼンバーグ夫妻(ジュリアス・ローゼンバーグ、エセル・グリーングラス・ローゼンバーグ)
ローゼンバーグ事件として知られる。
本件は、「セオドア・ホール」を追います。
彼は死の直前に、テープでの回答だが、スパイ行為の告白を行い、スパイ活動をすることは自分一人で
決めたと語ったそうである。
彼は1999年11月1日まで存命している。
セオドア・アルヴィン・ホール(1925 - 1999)は飛び級でハーバード大学へ進学し、18歳で大学を卒業すると、
1944年には19歳でマンハッタン計画に抜擢された。研究の拠点であったロスアラモス国立研究所では最年少の物理学者
であったという。
しかし1944年秋に休暇で故郷に戻った際、ホールはニューヨークのソ連総領事館に行き、
ソ連政府に原爆に関する情報を渡すことを申し出ている。
この超天才は、19歳ほどでこの実行を果たしている。時代などを想像しても驚きである。
ホールは妻のジョーンにだけスパイになった理由を明かしていた。
ホールはロスアラモスで働き始めた最初の時期に、核兵器を独占する軍国化したアメリカ合衆国が台頭する可能性に
対して強い反感を持つようになったと語っています。
『ロスアラモスで、原爆の破壊力を知って自問した。アメリカが原爆を独占したら一体どうなるのか。
私には信念があった。核戦争の恐怖を各国の指導者が共有すれば、彼らは正気を保ち、平和が訪れると思ったのだ』。
「恐怖の均衡」によって世界の安定が保たれると考えたのである。
しかし、彼らには原爆の使用は知らされてはいなかった。1945年、広島・長崎である。
長年、ロスアラモスでの原爆開発計画に関する情報のほとんどがクラウス・フックスやローゼンバーグ夫妻によって
流出したと考えられてきた。ソ連によるスパイ行為がベノナ計画(暗号解読計画)により発覚した後、
1951年にホールはFBIによる尋問を受けているが、告発されることはなく、ホールに対する嫌疑も公表されることはなかった。
ホールは、戦後ロスアラモスを離れてシカゴ大学に行き、生物学の研究に転向した。ここで彼はX線による微量分析の
重要な技術の先駆者となった。1962年にはケンブリッジ大学で働くために渡英した。彼はストックホルム平和誓約運動
(Stockholm Peace Pledge)の署名集めの活動も行っている。
1999年11月1日、ホールはイギリスのケンブリッジで死去した。
ホールの写真は19歳のものしかないのだろうか。スパイという選択をした覚悟のせい
だろうか。
この経緯に驚かされる。感動。感動すら覚えました。