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俊英かんとく日記

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ジャイアントコーン食べてるなコノヤロー

2010-05-25 23:35:00 | 追悼
「馬場!お前、最近なんか元気だと思ったらコノヤロー。

やっぱりな、お前はジャイアントコーン食べてるなコノヤロー」

子供心にラッシャー木村のマイクパフォーマンスには

笑わせてもらったことを記憶しています。

プロレスラー、元国際プロレスのエース、マイクの鬼、

「ラッシャー木村」さんが今日お亡くなりになりました。

68歳でした。

私の世代(37歳)でのラッシャー木村は全盛期といわれた

国際プロレス時代の活躍はほぼ知らず「国際プロレス」が

消滅しアントニオ猪木の「新日本プロレス」に参戦

したところからの記憶が強いです。

国際プロレスの残党として結成された「国際軍団」の

ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇は猪木の

「3人まとめてやってやる」発言から

猪木VSラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇との

3対1の変則マッチを行う事となりました。

当時はヒールだった「国際軍団」は当時猪木好きだった

私にとって嫌いな存在でした。

特にちょろちょろしていた(様に見えた)寺西勇は

「チョロQ寺西」と呼んでいたほどでした・・・。

猪木は寺西勇を確か腕十字でギブアップで勝ち

アニマル浜口を延髄斬りで勝ったあと、疲れが見えた

猪木がロープに足が絡みリングアウト負けという

決着、子供心に何が起ったのかわかりませんでしたが

猪木が負けて悲しかったことを思い出します。

これで脚光を浴びるのかと思ったら、その後はだんだん

影が薄くなり、浜口と寺西が長州力率いる

維新軍団に加わり、孤立したラッシャー木村は

ジャイアント馬場の率いる「全日本プロレス」に入団する。

そこからは「全日」と対抗する形で剛竜馬とともに

活躍するも体の衰えとともに、得意のマイクパフォーマンス

で第一線から退き、コミックプロレスの道へ・・・。

ジャイアント馬場や渕正信とか永源遥などへの

マイクパフォーマンスで会場を沸かせていった

冒頭のジャイアント馬場に言ったセリフも真面目に

言うから面白かったんだよな・・・。

ここでこのマイクパフォーマンスの素晴らしさを

説明することは出来ないのが残念です・・・。

それと、「いかついところ」がなんとなく私の親父に

似てるんだよな・・


天国で馬場アニキと名勝負を繰り広げてください。

合掌





「ノア」の箱舟の行方・・・

2009-06-18 00:37:00 | 追悼
6月13日レスラーの「三沢光晴」さんが

頸髄(けいずい)損傷でお亡くなりになりました。

46歳でした。

テレビなどの報道でご存知かと思いますが、亡くなった

経緯をご説明いたします。

6月13日広島県立総合体育館でメーンイベントの

60分1本勝負のGHCタッグ選手権試合が行なわれました。

若手の「潮崎豪」とタッグを組んだ「三沢光晴」は王者

「斎藤彰俊」「バイソンスミス」組と戦いました。

開始から25分後、斎藤から高角度のバックドロップを

受けた際に受け身の体勢が十分取れずに、体を「く」の字に

折る不自然な形で落下、頭部と首を強打しました。

三沢さんはそのまま動かなくなり、レフェリーが異変に

気付き試合を止めた。すでに呼吸をしておらず、心肺停止の

まま広島市内の病院に搬送されました。

懸命な処置が施されたが、午後10時10分、帰らぬ人と

なりました。

プロレス界・ファンの間では知らない人はいない、この

「三沢光晴」ですが、知らない方のためにどんなレスラー

であったか紹介します。

高校3年生のときにレスリングで国体で優勝をし、

世界ジュニア選手権に出場し81年に「全日本プロレス」

に入団しました。

84年メキシコへプロレス修行に行き、極秘に帰国し

2代目「タイガーマスク」としてデビューし初戦を勝利で飾る。

その後ジャイアント馬場とタッグを組んでの「世界最強

タッグリーグ」出場、ジャンボ鶴田とタッグを組んでの

3代目の「PWF世界タッグ王座」に輝くなどの活躍と、

「猛虎7番勝負」でビックネームとの戦い、実力、知名度を

あげていくことになります。

88年5月にリング上で突然に自ら「マスク」を脱ぎだし

素顔をになり「三沢光晴」として新たなレスラー人生を

歩むことになる。

私も当時テレビを観ていて試合の途中でいきなりタッグ

パートナーの「川田利明」がタイガーのマスクの紐を

ほどいた時にはびっくりしました、解説の「ザ・グレート

カブキ」(多分)が「何してるんだ」的なコメントをして

いたのを覚えてます。

ただ、タイガー=三沢は公表はしてましたけど・・・。

その後「ジャンボ鶴田」「スタン・ハンセン」「川田利明」

「テリーゴディー」「小橋健太」「田上明」「スティーブ

ウィリアムス」「ジョニーエース」らと幾度もなく名勝負

を繰り広げ、三冠ヘビー級王座に5回、世界タッグ王座に6回

などの輝かしい王座に輝いています。

しかし99年1月に御大「ジャイアント馬場」が亡くなり

2月に「ジャンボ鶴田」引退を発表すると、全日本プロレスが

混迷し始める。全日本プロレスの社長に就任するものの、

馬場元子夫人との確執が表面化し、2000年の5月

「ジャンボ鶴田」が 肝臓移植での手術中の出血多量により

逝去すると同時に全日本の社長を辞任しました。

2000年7月にプロレス新団体「プロレスリング・ノア」

を旗揚げすることになりました。

「秋山準」「小橋健太」「田上明」「丸藤正道」「KENTA」

「力皇猛」などの主力選手と共に「ノア」を成長させ、

他団体の「新日本プロレス」「ZERO1」「ドラゴンゲート」

その他の団体やけんか別れをした「全日本プロレス」とも

交流・参加・共同開催等をしてこんにちまできました。

ただ、ここ最近のことではないのですが「プロレス」の人気が

下降線をたどっていることもあり「ノア」はプロレス団体では

大手の団体ですが、経営は大変だったと思います。

K-1のようなキックボクシングやPRIDE(今はありませんが)

総合格闘技などの人気もプロレス離れを増加させたと

思います。

「ノア」は地上派(日本テレビ系)の放送契約も今年3月に

打ち切られてしまったこともあり社長として「三沢光晴」は

苦労していたと思います。

「年内で引退を考えていた」という報道もあったようで

もし本当だったら、時期が違っていたら、こんな結末は

なかったかもしれません。

と書いている、私自身も最近はプロレスを見ることは

少なくなっていました。

プロレスを語るのもおこがましいですが、「三沢光晴」の

意志を少しでも引き継ぎたい気持ちはありますので、

以前の名勝負を見返すことも大事だと思いますが、

今まで以上に「プロレス」「ノア」に注目をしていかないと

いけないと思います。

私の父親もプロレスが大好きですが「その中でも、

「三沢光晴」が「ジャンボ鶴田」を倒すところがとても好き

だったことを思い出しました。

三沢のエルボー強烈だったな~、

もう見れないと思うと・・・。

ご冥福をお祈りいたします。




ロックの神様・・・散る

2009-05-03 13:32:00 | 追悼
5月2日、忌野清志郎さんが「がん性リンパ菅症」のために

お亡くなりになりました。58歳でした。

日本のロックシーンでは絶対避けて通れない存在であり

69年に結成した「RCサクセション」時代には

数多くの名曲を残しました。

89年にゲリラ的に結成した「タイマーズ」に

なってからは「社会に対する不満・政府、政治に対する不満」

や、「反戦・反原発」などの曲を発表していましたが

歌詞の過激さゆえラジオ等で流すことができなかったり

「レコ倫」を通過できずインディーズで発売したりと

言論の自由を抑圧された、本当のロッカーでした。

私は高校3年生の時に文化祭で「RCサクセション}の

コピーバンドをするということで真剣に聞くことに

なりました。

それまでは存在、曲はもちろん知っていましたが

大好きだという感覚はありませんでしたが

「トランジスタラジオ」「雨上がりの夜空に」

が披露する曲でしたが何十回、何百回と聞きました。

ベースを担当する事になったのですが、正直ベースを

したことが無かったので、基本からやる暇もなく

独学でしたし、曲を聴いて、譜面をみて覚えるしかなく

毎日毎日3ヶ月くらい練習しました。

その時にRCの魅力に取り付かれて、今までの曲も

聞くようになりました。

「スローバラード」「きもちE」「ステップ!」

この3曲を含めて5曲はRCの代表作とも言え

76年~80年のRCの絶頂期の作品です。

私が観客の前で演奏を披露した最初で最後の曲が

RCの曲でした。

今でも昨日のように思い出だされます。


忌野清志郎は音楽活動をしていた41年間

走り続けたと思います。反骨精神を持ちながら。

後継者はいるのでしょうか?超える人間は?

いないでしょうな・・・・。2度と出ないと思います。


GWで実家に帰りますが「ベース」は物置に

残ってないかな?

18年前ですが・・・まだ弾けるかもしれません


安らかにお眠り下さい 合掌




最後の別れ

2008-11-22 18:30:04 | 追悼
前回の続きです。

今回が最後なのでお付き合い下さい。

11月21日に休みを取って「告別式」に行ってきました。

前日の通夜には間に合わなかったのですが

どうしても顔を見たかったので、親族の方に無理を言って

告別式前の火葬の前に顔を見せてもらいました。

本当に眠っているようでした。

安らかでした。

でもその寸前まで苦しんでいたと思うと・・・


最後の別れになったわけですが

踏ん切りがついたというか

納得したというか

現実に戻ったというか

心の中の思い出が詰まった物の1部が

取り除かれた感じです。

これからの何か楽しい出来事で埋めていきたいと

思います。



葬儀は滞りなく行なわれ終了しました。

葬儀に参列した同級生たちもこんな形で再会するとは

夢にも思わないので、驚きと悲しみに満ちていました。

私自身も、こんなに人は泣けるのかなと、

思うぐらい泣きました。

これを最後にしようと思っていたのもあって・・・。

だめですね涙腺が弱くて。

最後に「本当にあなたに出会えてよかったです」




次回からは通常のブログになりますので

お楽しみにしてください。







追悼

2008-11-18 18:43:37 | 追悼
今日の朝7:44

母親から携帯に電話がありました



「みゆきちゃんが亡くなったって」

・・・・・・・・・・・・

「みゆきちゃんって?」

聞き返すわたしに

「みゆきちゃんだよ、みゆき」

わたしは「みゆき」が誰のことかは分かっていました。

ただ、信じられなかっただけで

違うと言ってくれることを願って

そして聞き返しました

「みゆきってあの・・・」

わたしの言葉をさえぎり

母は現実を話しました

「昨日、亡くなったって」



全く何が起こっているのかわかりませんでした。



「みゆき」は私の中学時代の同級生です。

私と同じ36歳です。

若いです。

人生これからです。

まだまだ幸せになれる権利あります。

なぜ権利を奪われないといけないのでしょうか?



昨年の秋にガンが発病したようです、

今年の初めに手術を受けました。

一時はよくなったみたいですが

9月頃に再手術をして回復を待ったようですが

11月急に容態が悪くなり

11月17日午後3時に亡くなりました。


生きていれば、「死」に面することは

もちろんあります。

わたしもそれはありました

でも、でもです

辛いです、悲しいです

納得できないです。



母親同士が仲がよかったので

会ってなくてもいろいろと情報は入ってきました

「みゆき」は最近どうだったとか

いま実家に帰ってきているらしいとか


その母親でも今回のことは聞かされていませんでした

病気の事を知っていたのは、親戚のごくわずかな人のみで

「みゆき」の友人、職場の人、近所の人を含め

誰にも伝えていなかったようです。

もちろんわたしの母親にも・・・

わたしの母親に話せば、絶対にわたしの耳に入るから

と言う理由で口止めされていました。


わたしが仕事で苦しいとか言っている時でも

もっと苦しんでいたことを考えると

胸が痛くなります。

力になれなかったかもしれない

頼りにならなかったかもしれない

でも何か少しでも役に立つことが出来たならば

と思うと、後悔が残ります。


定期的に中学の友人たちと「飲み会」を開いていますが

今年も年末に開催するので友人の幹事の奴が

1週間前に「みゆき」に電話したそうです

「年末の休みが分からないから、行けないかもしれない」

と言ったそうです

その時、いまどこにいるの?という問いには

「アパートにいる」と答えたそうです

本当は病室にいたのに・・・

そいつが、その話をわたしにした後に

「最後に嘘つかれちゃった」

って涙声で言ってたのを聞いて

わたしも涙を抑えることが出来ませんでした。



何度か連絡をとるチャンスがあったのに

なぜしなかったのか

自分で自分に腹が立ちます


もう1度会いたかった

もう1度声が聞きたかった

もう1度話をしたかった

もう1度笑顔が見たかった

そしてその苦しみを分けて欲しかった

愚痴があれば聞いてあげたかった

相談事があれば解決できないかもしれないけど

乗ってあげたかった。

そしてわたしも最後に嘘をつかれてみたかった


それも今は叶わぬものとなってしまいました。


最後に哀悼の意をささげます。

わたしはあなたを忘れないように

あえてブログに書かせていただきました。

許可はもう取れないけど 許してください

書いていて、涙が止まりません

「なに泣いてるのよ」って言わないでください

そして、安らかに眠ってください。