カイロからマドリードまで夢がゆく

エジプトで働きつつスペインのMBAで学び
卒業後は日本で働いています

個々人にある正義、主義

2019年01月22日 | 議論する力
誰にも正義だと思うものがあると思います。
その人にとって疑いようがなく、これまで疑ってきたことのない正義が、個々人にあると思います。
この場合に私が使っている「正義」には対局にあるものがないイメージで、「主義」と言ってもいいでしょう。

こうした正義、主義が、議論においてお互いを理解するための大きな妨げ、障害になってしまうことが時々あります。
なぜなら、そうしたものは、各人のあらゆる価値判断、行動基準の根底に居座っているものであることが多いためです。
そうした正義、主義の違いのために、相手の言っていること、ロジックが理解できず、議論は感情的になり、議論するもの同士がいがみ合うこともあるでしょう。
実際私もつい最近そういう状況に陥り、感情的になった末、相手と口論になってしまいました。

では、そうした正義・主義が異なる人同士が議論することは意味がない、もしくは議論するべきではないのでしょうか。

私はそうは思いません。

むしろ、そういう人たちでこそ議論をすべきだと思います。
ただし、その際の議論には、以前の記事「議論する前に決めておくべきことの考察」にて挙げた項目のうちの一つ、「議論の目的」について議論するもの同士で共通の認識を持っていることが必要だと思います。

これがあることで、互いに相容れない主義、正義があったとしても、議論の目的達成のためになんとか乗り越えていくことができると考えます。

議論は誰のものか

2018年11月24日 | 議論する力
私が議論をファシリテートする際にいつも気を配ることの一つに、「自分が持っていきたい方向を出しすぎない」ということがある。

先日の記事に「議論する前に決めておくべきこと」について述べたが、こうした事前準備を入念に行い、また議論当日に自分がファシリテーター的存在になると、自分の想定したとおりに議論を進めてしまおうとしてしまうことが、私にはよくある。

もちろん、それでは議論の価値が損なわれるとわかっている。
そのため、なるべく誘導しないように意識してファシリテーションをするが、議論が終わった時、「なんだかあまり盛り上がらなかったな」と感じる結果になることがよくあるのだ。

おそらくこれは、議論の事前準備をするほどに、まるで自分がその議論のオーナーであるかのように錯覚してしまうために起こってしまうのだと思う。
また、先日の記事に記載した、「(1)議論で達成したいこと」が具体的であればあるほど、それを達成しなければという責任感が、議論を自分の思いどおりに進めようとしてしまうのだとおもう。

こうしたことを防ぐためには、まずは議論がどっちに向かって進んでいっても受け入れる心を持つことだと、今は感じている。

具体的には、「(1)議論で達成したいこと」を工夫して、議論がどういう結果になっても「達成」に到達可能なように設定することが必要だと思う。
一回の議論での達成ではなく、何回かに分けて議論してもいいかもしれない。

「(2)誰と誰が議論するのか」については、議論に参加してもらう人から、どんな意見がでたとしてもその全てを尊重したい人、尊重できる人を招くべきではないか。

「(3)どのように議論するのか」のうち、特に会議で何かを決定しようとするときは、どんな決定が下されようとも自分の利害とは関係のない状態・環境にしておく方がいいだろう。


議論する前に決めておくべきことの考察

2018年11月19日 | 議論する力
昨日の記事で、議論する前に決めておくべき事項を以下のとおり列挙した。

・議論の目的
・議論の位置付け(今回何を決定/共有するのか、議論後誰が何をするのか)
・適切なメンバー選定(必要な前提情報を持っている人)
・事前に共有すべき情報
・議論の時間
・何か決定する場合にはその決定方法

今日も、来月実施する議論の場において、どのようなセッティングをするか、話し合う場があった。
上記のポイントを事前に決めるべきではないか、と私から議論の運営メンバーに提案させてもらったが、自分で述べながら、上記事項がうまく整理しきれていない気がしたので、改めて整理したい。

えいやっと、決めるべきポイントを3つに整理するどうなるだろう。

(1)議論で達成したいこと(why)
 → 中長期的に達成したいことからのブレイクダウン
 → 議論の後に、何があるのか
 → 何を議論するのか。「問い」(what)
 → 何かを決定するのか、何か(情熱等も含む)を共有したいのか

(2)誰と誰が議論するのか(who)
 → 議論に必要な知見・知識を持っている人
 → 事前に議論するメンバーで共有しておくべき情報
 → 議論の後のアクション等に関わってほしい人

(3)どのように議論するのか
 → いつ(when, how long)
 → どこで(where)
 → 会議の形式、流れ。何かを決定するなら、どのように決定するのか(how)

こんな感じに整理できるだろうか。
継続して考えていきたい。

議論しよう、というとき

2018年11月18日 | 議論する力
以前いた職場のうちの一つで「議論しよう」という言葉が頻繁に飛び交うところがあった。
その職場に来たごく初期は、立場が上の人から「議論しよう」と言われ、何かとてもオープンな職場のような気がした。
しかし、徐々に「議論しよう」と言われることに少し「重さ」を感じるようになった。

それは、議論しても、自分にも、議論の相手にも費やした時間ほどのメリットがないように感じるようになったからだと思う。
当時の「議論しよう」は「ブレストしよう」とあまり変わらないニュアンスであることが多かった。
ブレストが悪いわけでは無いが、目的のないブレスト、次のステップが定まっていないブレストは効果が薄いと思う。

そもそも議論するメンバーが事前情報を用意していないなかで議論を開始することが多く、印象論を脱しない議論も多くあった。
また、その議論の記録も取らないし、次に議論メンバーが何をするのかの宿題もなく、何度議論しても同じところをぐるぐる回ってしまう。

議論する際には、少なくとも以下を定めてから議論に望むべきだ。
・議論の目的
・議論の位置付け(今回何を決定/共有するのか、議論後誰が何をするのか)
・適切なメンバー選定(必要な前提情報を持っている人)
・事前に共有すべき情報
・議論の時間
・何か決定する場合にはその決定方法

そして、必ず議論の議事録を取るべきだ。
そうしないと、議論したメンバー以外に議論した事実が伝わらないし、議論したメンバーも議論した事実を間違えて記憶してしまったり、意見を翻したりしてしまう。

リーダーシップについてのあれこれ

2018年11月15日 | 議論する力
昨日の記事で、リーダーシップやアントレプレナーシップといった「概念」を何かしらの能力・スキルのように養成できるのかについて少し述べました。

リーダーシップやアントレプレナーシップについて論じるとき、それらは目指すべき絶対善であるかのようなイメージが共有されます。
しかしその点について少し疑問を持ってもいいのではないかと思います。

今日、大変ありがたいご縁で、人生の達人のような方とじっくりお話しをさせていただく機会に恵まれました。
その方は、たくさんの人々を率いていく立場を数多くご経験されてきた方でした。
人を率いてきた、という点のみにおいては、まさにリーダーシップという言葉に当てはまるご経験をされてきた方といえるでしょう。

しかし、もはや達人とお呼びしたいその方の発するオーラは、リーダーシップといったぺらっとした言葉では表せないと感じました。
議論される対象となるリーダーシップの指すものとはもはや次元の異なる領域にいらっしゃる。

議論をする際に、その命題、問いの立て方が重要だとはよく言われますが、その方のような達人の域に達するには、リーダーシップとは何かについて論じているだけでは足りないと感じます。

リーダーシップが悪いことだとか、そういうことではないのですが、自分がどうありたいかがまず重要なのであって、与えられた概念ワードを善としてそれを深掘りすることにばかり意識を奪われてはいけないな、と自戒しています。