誰にも正義だと思うものがあると思います。
その人にとって疑いようがなく、これまで疑ってきたことのない正義が、個々人にあると思います。
この場合に私が使っている「正義」には対局にあるものがないイメージで、「主義」と言ってもいいでしょう。
こうした正義、主義が、議論においてお互いを理解するための大きな妨げ、障害になってしまうことが時々あります。
なぜなら、そうしたものは、各人のあらゆる価値判断、行動基準の根底に居座っているものであることが多いためです。
そうした正義、主義の違いのために、相手の言っていること、ロジックが理解できず、議論は感情的になり、議論するもの同士がいがみ合うこともあるでしょう。
実際私もつい最近そういう状況に陥り、感情的になった末、相手と口論になってしまいました。
では、そうした正義・主義が異なる人同士が議論することは意味がない、もしくは議論するべきではないのでしょうか。
私はそうは思いません。
むしろ、そういう人たちでこそ議論をすべきだと思います。
ただし、その際の議論には、以前の記事「議論する前に決めておくべきことの考察」にて挙げた項目のうちの一つ、「議論の目的」について議論するもの同士で共通の認識を持っていることが必要だと思います。
これがあることで、互いに相容れない主義、正義があったとしても、議論の目的達成のためになんとか乗り越えていくことができると考えます。
その人にとって疑いようがなく、これまで疑ってきたことのない正義が、個々人にあると思います。
この場合に私が使っている「正義」には対局にあるものがないイメージで、「主義」と言ってもいいでしょう。
こうした正義、主義が、議論においてお互いを理解するための大きな妨げ、障害になってしまうことが時々あります。
なぜなら、そうしたものは、各人のあらゆる価値判断、行動基準の根底に居座っているものであることが多いためです。
そうした正義、主義の違いのために、相手の言っていること、ロジックが理解できず、議論は感情的になり、議論するもの同士がいがみ合うこともあるでしょう。
実際私もつい最近そういう状況に陥り、感情的になった末、相手と口論になってしまいました。
では、そうした正義・主義が異なる人同士が議論することは意味がない、もしくは議論するべきではないのでしょうか。
私はそうは思いません。
むしろ、そういう人たちでこそ議論をすべきだと思います。
ただし、その際の議論には、以前の記事「議論する前に決めておくべきことの考察」にて挙げた項目のうちの一つ、「議論の目的」について議論するもの同士で共通の認識を持っていることが必要だと思います。
これがあることで、互いに相容れない主義、正義があったとしても、議論の目的達成のためになんとか乗り越えていくことができると考えます。