続きでございます。
人と付き合うってのは簡単なようで難しいのか、深いようで意外と浅いのか。
考え方ひとつと言われればそれまでなんですが、僕の言いたいように言わせてもらえれば「ケースバイケース」です。
昔こんなことがありました。
小学校の時。 国語の授業でよくある、「この時の○○の気持ちを答えなさい」という問題。
クラスメイトA君は「××△△なので、きっと悲しい気持ちだと思います」 と答えました。
一方クラスメイトB君は「××△△なので、きっと怒ってると思います」 と答えました。
先生は両者の意見を聞いて、結果的に出した結論はどちらも正解でした。
言い方は悪いですが、人の気持ちなんてそんなもの。 人の数だけ感じ方があって、それに正解不正解もなく。
それがその場であるとすれば、国語という学問にしている以上、テストで正解不正解を判別して点数を出さなければならないので、便宜上決めておく、というだけのものです。
僕は国語のこういう所が気に入りました。 逆に答えが決まってて1mmでもズレたら100mmズレた人と同じく「不正解」と言われる数学が死ぬほど嫌いでした。笑
しかし高校になると少し違ってきて、小学校の頃の例の問題のような場面でも、先生はハッキリと正解不正解を区別し始めました。
これが、システム上、教科書がそのようなシナリオになっているからなのか、単に中学と高校の教育方針の違いなのか。
それは分かりませんが、これにはどうも納得がいかなくて、今から考えると非常に申し訳ない限りなのですが、その時間が終わるまで一人でずっと「VS先生」状態で討論してました。笑
しかし考え方によっては高校の時のやり方は正解なのかもしれません。
それは、その後社会に出た時に思いました。
本質的に正解か不正解かはそれほど重要ではなく、大多数の流れに乗る事こそが重要であって、もっと言えばその大多数の流れってのも誰かが都合で作り出した人為的な流れの可能性もあって。
でもそんな細かい事は気にせずに、右と言われたら右が正解、左と言われたら左に歩く事が求められる社会ってのが、いまだに、どこにでも、当たり前のようにあります。
でもそれすらも悪いとはあまり思ってなくて、結果的にそうでないと世の中が回らないのかもしれませんよね。
歯車に例えると、指示通りに動いてくれないとその小さな歯車一つのせいで全てがうまくいかない、って事もあると思います。
なので、よく言う「リーダーを育てる!」みたいな教育方針を打ち出してる学校。 これが良いとか悪いとかじゃなく。
それがあるなら、そのリーダーを支える参謀を育てる学校や、もっと有り体に言えば、「良質な歯車を作り出す」ってのも、絶対的に必要なわけで。
よく、「俺なんて会社の歯車の一部にすぎない・・・」 とかって卑屈な言葉を聞きますけど、いやいや、それは大変誇らしい事で大変重要な事ではないのかと、僕はそう思います。
・・・いかんな、話がどうも脱線する。 話が前後して申し訳ないです。。。
結局、正解不正解なんてその場の都合でいくらでも改変可能な識別記号みたいなもので。
小学校のように、どちらも正解という柔軟なルールもよし。 高校のように、正解は決まってるのでそれに合わせなさいという、やや強引なルールもよし。
人付き合いでも、深い仲になるのが正解なのか、ある程度のラインで線引きするのが正解なのか。
それはその人と自分も含めて、一番うまくいくであろう(うまく回っていく)お互いの関係を、探し、決め、築くことこそ妙であって、必ずしもこうならなければ・・・ というようなルールは一元化されていないと僕は考えています。
もの凄く極端な話をすると、恋人関係の男女が、もしもお互いにそれでいいなら浮気をし合っていてもいいと思うんですよ。
まぁそんな事は滅多に無いのでしょうが(笑)、お互いのルールとしてそれがOKなラインなら。
勿論この場合、浮気をした先の第三者がそんなつもりのない事態に巻き込まれてしまって迷惑をするようならアウトですが。笑 それも含めて滅多にない例かな、変な例ですいません(^^;)
じゃ遠距離恋愛。 べつに遠距離だからって愛が薄いとか、薄っぺらな感情だとか、そうじゃないと思うんですよね。
その条件の元でお互いに結んだ結果であって、物理的な距離と内容や気持ちの濃い薄いは必ずしも比例しないと思います。
どうやって人と付き合うのかは人それぞれで、正解不正解もなく、その関係を築く上で最適な物を選べばいいと思います。
会いたいなら会えばいいし、ネットで繋がりたいならネットで繋がればいい。 どちらも立派なコミュニケーションです。
わっしょい(ノ゜ο゜)ノ
人と付き合うってのは簡単なようで難しいのか、深いようで意外と浅いのか。
考え方ひとつと言われればそれまでなんですが、僕の言いたいように言わせてもらえれば「ケースバイケース」です。
昔こんなことがありました。
小学校の時。 国語の授業でよくある、「この時の○○の気持ちを答えなさい」という問題。
クラスメイトA君は「××△△なので、きっと悲しい気持ちだと思います」 と答えました。
一方クラスメイトB君は「××△△なので、きっと怒ってると思います」 と答えました。
先生は両者の意見を聞いて、結果的に出した結論はどちらも正解でした。
言い方は悪いですが、人の気持ちなんてそんなもの。 人の数だけ感じ方があって、それに正解不正解もなく。
それがその場であるとすれば、国語という学問にしている以上、テストで正解不正解を判別して点数を出さなければならないので、便宜上決めておく、というだけのものです。
僕は国語のこういう所が気に入りました。 逆に答えが決まってて1mmでもズレたら100mmズレた人と同じく「不正解」と言われる数学が死ぬほど嫌いでした。笑
しかし高校になると少し違ってきて、小学校の頃の例の問題のような場面でも、先生はハッキリと正解不正解を区別し始めました。
これが、システム上、教科書がそのようなシナリオになっているからなのか、単に中学と高校の教育方針の違いなのか。
それは分かりませんが、これにはどうも納得がいかなくて、今から考えると非常に申し訳ない限りなのですが、その時間が終わるまで一人でずっと「VS先生」状態で討論してました。笑
しかし考え方によっては高校の時のやり方は正解なのかもしれません。
それは、その後社会に出た時に思いました。
本質的に正解か不正解かはそれほど重要ではなく、大多数の流れに乗る事こそが重要であって、もっと言えばその大多数の流れってのも誰かが都合で作り出した人為的な流れの可能性もあって。
でもそんな細かい事は気にせずに、右と言われたら右が正解、左と言われたら左に歩く事が求められる社会ってのが、いまだに、どこにでも、当たり前のようにあります。
でもそれすらも悪いとはあまり思ってなくて、結果的にそうでないと世の中が回らないのかもしれませんよね。
歯車に例えると、指示通りに動いてくれないとその小さな歯車一つのせいで全てがうまくいかない、って事もあると思います。
なので、よく言う「リーダーを育てる!」みたいな教育方針を打ち出してる学校。 これが良いとか悪いとかじゃなく。
それがあるなら、そのリーダーを支える参謀を育てる学校や、もっと有り体に言えば、「良質な歯車を作り出す」ってのも、絶対的に必要なわけで。
よく、「俺なんて会社の歯車の一部にすぎない・・・」 とかって卑屈な言葉を聞きますけど、いやいや、それは大変誇らしい事で大変重要な事ではないのかと、僕はそう思います。
・・・いかんな、話がどうも脱線する。 話が前後して申し訳ないです。。。
結局、正解不正解なんてその場の都合でいくらでも改変可能な識別記号みたいなもので。
小学校のように、どちらも正解という柔軟なルールもよし。 高校のように、正解は決まってるのでそれに合わせなさいという、やや強引なルールもよし。
人付き合いでも、深い仲になるのが正解なのか、ある程度のラインで線引きするのが正解なのか。
それはその人と自分も含めて、一番うまくいくであろう(うまく回っていく)お互いの関係を、探し、決め、築くことこそ妙であって、必ずしもこうならなければ・・・ というようなルールは一元化されていないと僕は考えています。
もの凄く極端な話をすると、恋人関係の男女が、もしもお互いにそれでいいなら浮気をし合っていてもいいと思うんですよ。
まぁそんな事は滅多に無いのでしょうが(笑)、お互いのルールとしてそれがOKなラインなら。
勿論この場合、浮気をした先の第三者がそんなつもりのない事態に巻き込まれてしまって迷惑をするようならアウトですが。笑 それも含めて滅多にない例かな、変な例ですいません(^^;)
じゃ遠距離恋愛。 べつに遠距離だからって愛が薄いとか、薄っぺらな感情だとか、そうじゃないと思うんですよね。
その条件の元でお互いに結んだ結果であって、物理的な距離と内容や気持ちの濃い薄いは必ずしも比例しないと思います。
どうやって人と付き合うのかは人それぞれで、正解不正解もなく、その関係を築く上で最適な物を選べばいいと思います。
会いたいなら会えばいいし、ネットで繋がりたいならネットで繋がればいい。 どちらも立派なコミュニケーションです。
わっしょい(ノ゜ο゜)ノ