ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

今、時間の過ぎるのが早い理由(わけ)

2009年12月23日 12時04分16秒 | 日記
最近某誌に、次のような文章を寄せた。

【さて、今年も残るところごく僅か、といった時期に差しかかった。“それにしても時間が経つのが早い”というぼやきというか、ため息混じりの呟きがあちこちから聞こえてきそうではある。こんな時、多くの人が抱く疑問、“年を取ると特にそう感じるのは何故?”の解明に大いに参考となる本があったことを思い出す。題して『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)がそれ。生物科学者の本川達雄さんという方の著作で、平成5年度の講談社出版文化賞科学出版賞を受賞した出版物だ。その骨子は以下のようなものだった。〈哺乳類においては“時間は体重の1/4乗(体長の3/4乗)に比例する”という法則があり、それでいてどの動物も、一生の心臓の拍動は約20億回、呼吸は約5億回と変わらない。寿命百年のゾウも数年しか生きないネズミもほぼ同じ回数である。故に一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか〉。つまり年当たりに換算すれば、数年で死んでしまうネズミは1年を象の何十倍?かの密度で過ごすことになり、そして、ここからが仮説である。これを人間に当てはめるなら、大人と子供では体重も身長も異なる分、同じ1日・24時間でも、子供の時の方が濃密度で長く、大人になってからの方が緩やかで短いということにはならないか。加齢に連れ、時間の過ぎるのが早く感じられるのはそのせいなのではなかろうか、と。】

ところが、これを読んだ人から、この論調が分かり難いという指摘を受けた。私の中ではそれなりに納得できたように思えたのだが、厳密にそれを説明するように要求されると、確かに、そもそもが他人の論証をベースにした推測だけに、苦しかったのは事実。それでもその指摘には、何とか、自分勝手な解釈で、あることないこと言って凌いだのだったが、我ながらなお、そこに釈然としないところもあったのは事実であり、そこでこの際、さらにネットを遊泳して、その真相を探ってみることにした次第。(以下、ご意見をピックアップさせて頂いた発言者の方々には、私的ブログ故、断りを入れないまま引用させて頂く失礼をお許し願うことにする)。

Aさんの見解:子供の時は、時間はゆっくりと流れる。小学生の頃、放課後から夕方薄暗くなるまでの時間は物凄く長かった。ところが今は一年なんてあっという間だ。これは誰もが感じる事らしい。五歳の子供にとって、一年というのは全人生の20%を占める長い時間だが、一方、五十歳の人間にしてみれば一年など2%を占める時間にしか過ぎない。だから、子供にとって一年というのは長い長い時間だが、大人には一年なんてあっという間なのである。そして、それは年を取れば取るほど実感としてわかる、という訳だ。これは言い換えれば時間感覚が年齢に反比例するという事だろうか。

Bさんの見解:近頃はとみに時の流れが加速されているという感じがする。それは自分がもう若くはないという証なのだろう。老けたなどとはまったく意識してはいないというのに、人間というやつは、人生の残り時間が確実に減っているということをこうした感覚によって自覚させられるものらしい。この感覚の正体は、たとえてみればこうだ。人生というものは、時間の経過とともに自動的に短くなっていく「寿命」という名の糸に吊るされた振り子の動きのようなものなのだ、と。すると当然、年を取るにつれて振り子の周期は短くなるわけだ、振り子の糸が短くなるのだから、たとえ客観的な時の流れ方は不変だとしても、われわれが主観的に感じる時間というのはこの人生の振り子の周期なのだ。年を取るとともに寿命の糸が短くなり振り子が速く振れるようになるゆえ、あたかも時の流れが速くなるかのように感じる、というわけだ。

Cさんの見解:人間の時間感覚は年齢に反比例して鋭くなるという説がある。四十歳にとっての一時間は、十歳の子供にとっては四時間ほどに感じられる…。速度は距離を時間で割る。日常生活の精神的な速度は、歳とともに速くなっていく。速度を上げている宇宙船を想像すればよい。内部では何も変わっていないように見えるが、外界とは時間的空間的なズレが生じはじめる。宇宙船が光に比較して無視できない速度になると、相対論的効果が現われて、外部の星の分布は歪み、通信の電波の波長は変移し、宇宙船自体が宇宙から孤立しはじめる。厄年の感覚というのは、いつの間にか亜光速域に近づいた宇宙船の感覚なのかもしれない。星図を確認し、通信の波長を修正し、航路を再調整しなければ…。

Dさんの見解:子どもと大人では、一日や一年の流れの速さが違うのが実感です。子どもの時間が大人の進みと違うのは一日に経験する出来事の大きさが大人の何倍も重く、濃密であるからなのではないでしょうか。楽しいことも、驚きも、悲しいことも、つらさも、大人の何倍も大きく濃密な時間として感じているのでしょう。

Eさんの見解:発見の数の多さの違いかな。子供のときは何をしても初体験やいろんな発見がありますよね。同じ様な遊びでも、その中から色んな発見が無数に感じられる。本当は大人だって一緒。苦労したり必死になって初めてのことにチャレンジしているときは、時間が長く感じるときもあれば、あっと言う間に過ぎさっていくことがあります。つまり新たな壁との出会いの場合は、子供であろうが大人であろうが色んな葛藤・興味があり、時間を長くも短くも感じる。”時間を感じている”。ただ、一般的な社会人になると、日常生活が毎日同様の日々。変化も発見も少なくなります。すると、一日が長く感じられる割に、一年があっという間に過ぎますね。かといって、何か思い出が残ることが多いかというと…。”初体験”という壁ってとても大切なんだと思います。ですから、大人でもいろんな事にどんどん挑戦している方は子供の様に輝いていますし、時間の感じ方も普通の大人とは異なるのだと思います。日常の生活に慣れることは大切ですが、それが惰性になるとちょっとつまらないですよね。

と、まあ、その真相はと言ったものの、ざっと見ただけでも様々な見解があって、中にはニュアンス的に似たような論調もあるけれど、振り子論、宇宙船論も飛び出してきたりして、まさに百家争鳴の様相なのだ。要は、万人が感じている割には、その根拠となると明確に一元化されたものはなく、逆に言えば、それなりの理屈であれば成立する話なのだろうということが分かり、で、その限りにおいて、私の唱えた先の仮説も強ち“不正解”にはならない?ということのようでもあって、一安心ではある。

ところで、かくの如く百人百様の見解が成立するこの問題に、最も説得力を持っていたのは、知り得た範囲では、先の『ゾウの時間ネズミの時間』の著者、本川さんが別の機会に述べている次の文章だったような気がする。

〈私たちは生まれ、成長し、老いていくわけですが、この一生を通して流れている時間も、同じ速度ではないのかもしれません。体重あたりのエネルギー消費量は、子供では高く、老いてくればくるほど減っていきます。エネルギー消費量と時間の速さが比例するという代謝時間の考えに立てば、子供の時間は速く進み、大人の時間は遅く、老人の時間はもっとゆっくりということになるでしょう。たしかに自分自身を振り返ってみると、時間の感じ方は年とともに変わってきました。子供の頃の夏休みはものすごく長かったし、一日もとても長く感じられたものです。最近はとみに一日が速く過ぎ去っていきますね。この違いは、エネルギー消費量と関係した時間で説明できそうな気がします。つまり、子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか。代謝時間は年とともに長くなります。20歳までの変化は急激で、それ以降はゆっくりと代謝時間が長くなっていきます。子供の一時間が、大人のほぼ二時間に当たります。大人では子供に比べて時間が二倍ほどゆっくりなのです。〉(『時間―生物の視点とヒトの生き方』)

即ち、この論旨には、それがエネルギーの消費量という科学的数値を元に言及したものだけに、説得力を感じさせられたのであった。そして本川さんはこの本を、〈「エネルギーを使えば使うほど時間が速く進む」「生物の時間とは、エネルギーを使って、自らが創り出すものであり、けっして、ベルトコンベアーに乗っけられて流されていくようなものではない」というのが、私の主張です。生物の時間を通して、これだけ忙しくなった現代をどう生きるか、この長くなった老後をどう生きるかを考えます。現代社会が抱えている大問題に、生物学の視点から切り込ん〉で書いたのだという。ということであれば、これは最早、人間賛歌の本だ。老いた時間は何故早いのかをしっかり習得できるのと同時に、そこにある生の意味をも教示されるはずだし、勇気だってもらえるかもしれない。

無論私はまだ読んでない。このように思わぬ形で知り得た折角の本だから、この際、是非手にしてみよう。NHKライブラリー(1996年)から出ているらしい。

(シャープ)ブンゴウ

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
1年過ぎる早さについて (平山直行)
2015-08-26 15:23:50
若年は1ヶ月過ぎるのが遅く、老後は1ヶ月過ぎるのが早くなります。
返信する

コメントを投稿