ひょうたん酒場のひとりごと

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「情人」

2016年06月13日 12時23分24秒 | 日記

朝日新聞の、毎月第2金日に瀬戸内寂聴さんの「寂聴 残された日々」と題するエッセイが連載されている。齢90を越え、大病(胆のうがん)を克服して、なお執筆力旺盛な作家の文章である。初回以来、注目して読んできた。

先日(6月11日)、連載13回目の題は「明日」。出だしはこうだ。

〈一年の中で、私の最も好きな5月がすでに終わってしまった。5月は私の誕生月であると同時に、月の終わりは、私の情人の命日であった。〉

いきなりの「情人」というあけすけな表現に息を呑んだ。最近のテレビや新聞での言説には、人生の酸いも甘いも知り尽くしたような、あるいは総てを達観したような、さらには、この世に恐ろしいことは最早失くなったとでもいうような、瀬戸内さんの直球勝負の心情の発露を感じ取ってきたが、これもまたその延長上にあると思ったのだ。

文章は続ける。〈男には妻子があり、まだ66歳であった。76歳ならまだあきらめがつくだろうけれど、66歳で死ぬのはあんまりだと男は嘆いた。物書きの男は、もっともっと書きたいと身もだえしていた。〉

「情人」が「男」に切り変わったことに瀬戸内さんのどのような心理的な変化があったのかは分からないが、いずれにせよ、この「情人」・「物書きの男」が、私の学生時代、私の卒論でテーマにした作家、I・Mであることにすぐに気付いた。

確かこの連載の初めの頃(昨年)だった。そのI・Mの娘I・Aが何かの文学賞を受賞し、それに関連して寄せた文章の中で、I・Mとの浅からぬ関係を包み隠さず告白していて、そのあっけらかんとした赤裸々さ加減に、かつて作家論を書きながらその事実を知らずにいた私は、初めて知ったことでの驚き以上に、軽い衝撃を覚えたことを強く印象に残していたのだ。それでもって、今回は、その続編かと…。

前回が娘I・Aが主調音、その添え物みたいな扱いだったのに対して、今回はI・Mとの間にあったあれこれが記されている。もっとも、テーマは「核なき世界への祈り」という、今回のオバマ大統領の広島訪問で、生前のI・Mが生まれ故郷の長崎や、広島の原爆被害者に熱心に救済の金を送り届けていたことを思い起こし、綴る中で、〈世界の明日に平和の陽の輝くことを〉祈願する、至って厳粛な内容のものではあったのだが。

〈彼は、戦争にとられないで生き残った。生き残ったことが恥のように感じて、彼は自分の仕事として選んだ文学に、世の底辺に生きて苦しむ人々の生活を書き続けていた。貧しい人、差別に苦しむ人、恋の実らぬ人たちが、彼の小説には選ばれていた。暗い主題と難しい文章についてくる読者は多くなかった。〉

そして、あれこれが記された中でのこの一文には、半世紀前、東京の一般人の家に間借りしていた部屋の炬燵机で、布団に入らず朝晩寝起きし、そのままの状態で、ほぼ3カ月間に亘って卒論のまとめに格闘したそのI・Mの作品世界が、一挙に私の頭の中を駆け巡ったのである。

加えるに、〈彼〉の小説の強いテーマ性の1つには、そうした虐げられた、いわば底辺の生活に生きる被害者の心理の中にも、どうしようもない加害者のそれ(差別)が抜け難く巣食うことを、残酷なまでに描き切ったことがある。

勢い、小説世界は、本来は救済されなければならないはずの弱者(被差別者)同士が、お互いの自我をもろに出し、葛藤を重ね合う修羅場と化す。

ついでながら、そうしたI・Mの世界を私は、当時、ある種肯定的に評されていた「実験小説」という視点からまとめ上げようとしたのだった。

それは、1つの文章の中に、過去、現在、未来の複数の時制が入り込むといった特異な文体をもつ、極めて前衛的な小説世界であり、かつ、作者であるI・Mは間違いなく現代文学の旗手の一人である、といった風に。

従って、そんなI・Mの小説に〈ついてくる読者は多くなかった〉のは事実だったのだ。現にI・M自身も「自分の本当の読者は100人に満たない」と語り、私はそこに、妙に作家としての本物観を感じたのは確かである。

I・Mは大正15年(昭和元年)の生まれ。まさに昭和の年号そのものが彼の年齢であり、昭和と共に生き切った。戦前の皇国青年から戦後、共産主義者になり、やがて運動を挫折。文学に生きる活路を見出していったのだ。(この辺の件は、また何かの折に触れることがあるかもしれない)。

今から思えば、私の学生時代、半世紀前というのは、I・Mは40代前半から中盤にかかる頃だ。「実験小説」もその揺籃期から発展期のものであり、確かに芥川賞の候補になった作品(『地の群れ』)もあったりはしたが、決して完成の域に到達したものではなかった。言うならば、そう、発展途上。

だが、私は、卒論をまとめ上げて以来、二度とI・Mの小説は読もうとはしなかった。ある意味、分かり尽くした感があったし、それよりも何よりもその〈暗い主題〉に最早それ以上、読むに耐えられない思いがあったからでもある。島尾敏夫が精神異常をきたした妻との世界を繰り返し描いたように、I・Mもまた、その世界に執拗に拘ったのだった。

さて、閑話休題。そのI・Mと瀬戸内さんとの関係性である。瀬戸内さんが出家したのは1973年、51歳の時だ。それより4歳若いというI・Mは、当時47歳。常識的に言えば、出家は俗世間からの解脱を意味するのであって、”そのような男女の関係”も断たれなければならないと解釈するのが普通だが、二人は、実際にそれを期に”終わった”のだろうか。

私の卒論の時期は出家に至る前の話だし、その頃はまだ”進行中”だった、にしてもである。

〈ある朝、締め切りが終わった翌日、訪ねてきた彼が、いつもよりやせてぐったりして、貧相な体が余計、貧相に病的に見えた。心配する私に、力いっぱいのきつい小説を書いてきたからと告げた。お互い自分の小説の活字になる前のことは口にしないのに、その日に限って、彼はその小説の中からまだ抜け出していないように、語りたがった。長崎に原爆が落とされる前日の、幾組かの人々の一日を書いたという。〉

因みにこの小説は『明日』と言い、他ならぬ瀬戸内さんも関与してその題が命名されたということだ。さらには、〈その小説は映画にもなり、死後、次々に絶版される彼の小説の中でも、きりりと残っている〉と瀬戸内さんが、今なお絶賛もする。

ところが、発表されたのは1982年。I・M56歳であり、瀬戸内さんは60歳。出家後、ほぼ10年を経た時期に当たる。発表前後の妙に生々しい瀬戸内さんのその回顧文に、I・Mのその後の息遣いをすぐ近くに聞いた思いがし、懐かしさが増幅したのと同時に、はて、その二人の関係は”その時点では、どんなものだったのか”と想像を逞しくするのを禁じ得なかったのである。

《別れの辛さに、馴れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。》

こんな格言(ネット「癒しツアー」サイト/「偉人の名言・格言」)を綴る、いわば生涯をかけての愛の求道者、瀬戸内さんだからこそのことなのだろうと思う。

少しばかり下世話で、不謹慎に過ぎるだろうか。奔放さに煽られて非礼千万の憶測。私の青春の一コマをも誘う、懐かしさに免じて、偉大なる先達に、乞う、赦免の巻、である。

(シャープ)ブンゴウ