ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

ブッダ航空の悲劇

2011年09月27日 11時20分22秒 | 日記
2日前の25日朝、ネパール・ヒマラヤ遊覧飛行帰りのブッダ航空機がカトマンズ近郊で墜落、乗っていた19人全員が死亡したという。前回ブログでネパールの文字を入力したばかりであり、何とも奇縁な感じがしないでもないが、いずれにせよこのニュースに少なからぬ衝撃を受けている。

過去、他ならぬ私もその遊覧飛行機には搭乗したのであり、のみならず、遊覧飛行はその旅行中での深い感動をくれた確かな時間の1つだったからである。

旅行メモを紐解いてみると我々が搭乗したのは昨年の1月22日のことだった。前日の晩の記述。

“明日のモーニングコールは5時45分。6時15分からレストランで朝食。6時45分にホテル出発(遊覧飛行オプション班・1人20,000円)。空港まで15分ぐらいという。ただし、飛行時間がずれることもあるらしい。朝、空港での待ち時間は寒いとか。18人乗りの飛行機だが、窓際でないのが2席。だから16人が乗る。真ん中が通路で両サイドに座席。遊覧するのでそれで見る分には問題なし。そしてエベレストだけは操縦席から見ることができるという。飛んでる時間は50分ぐらい。”

そして当日のメモ。“7時5分前、空港着。7時35分、離陸。‐‐カトマンズから飛び立ったから、往路、ヒマラヤは左側の方に見えたし、帰りは右側の方に見えた。‐‐エベレストの前で旋回する時に、操縦席の方に呼ばれた。‐‐機内ではガイドさんがヒマラヤの山々を英語で説明。‐‐8時半無事着陸。約55分間のフライト。すごかったなー!という声が機内から一斉に上がる‐‐”

さらに、旅から帰って書いたこのブログでの、このような遊覧飛行の模様は、次のように認めていたのである(「ネパールから戻って」H22.1.28)。

〈最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感だったのである。〉

さらにさらに。この8月に書き上げたばかり、その旅を題材にした私の創作の中では、この部分を次のように昇華させていたのだった。

『“あっ、あそこに慧海がいる。”
 到頭そんな幻覚までもたらされたのは、ポカラからカトマンズに戻り、ほぼ一時間をかけての、連峰の見納め、今回の目玉企画でもあったヒマラヤ遊覧飛行中のことである。旅程五日目になっていた。定員が二十人弱、真ん中に通路があって両サイドに一人席が縦一列に並ぶという超小型機から望むヒマラヤ連邦は限りなく近く在った。しかも視線と同じ位置に朝陽に輝く冠雪の頂を捉えることになり、従って、峰々の切っ先から裾に降りる雪面の所々に顕れ出ている出っ張りや窪みも、その陰影共々、隅々まで見て取れる。総てがこれまでとは異なる連峰のリアリティなのであった。
 約三十分ほどの飛行で旋回に入る。エベレストに近付いた地点で折り返すのだったが、いざその時になると、機内の客は一人ずつコックピットに招かれ、愈々間近になったエベレストの雄姿を拝観することになる。慧海を幻視したと思ったのは、そうして私の番になり、コックピットに入ってエベレストを確認した時であった。
 操縦室では、頭髪を後ろで束ね、きりっとした面立ち、黒っぽい制服に身を包んだ痩身の女性副操縦士が待ち受け、狭い座席に座ったまま、その後ろに立った私に何事か英語を交えながらエベレストの方角を指し示す。それに従い視線を送った先は紛れもなくエベレストであった。
 私は数十秒間それに見入っていた。と、その私の視野に雪渓の切り立った斜面に刻まれている極小の茶褐色の“点”が目に入ったのだ。それは即ち、雪中に飛び出た岩みたいなものに違いなかったのだろう。が、にも拘らず私にはそれが、ヒマラヤ越えで雪肌にへばり付く慧海、入蔵目前の慧海の姿そのものに視えたのだ。
“〈断事観三昧〉で歩んでいるのか?”
 道なき道、あるいは分岐路でどちらの道を行くべきか迷った時、ひとしきり瞑想に委ねて選択したという慧海の究極の選択手法にも思いを巡らせながらである。』

この文章の前後関係についての説明は省略するが、創作全体においてもこの部分はクライマックスに当たる場面であり、だから、それだけ遊覧飛行は私にとってインパクトが強かったとも言ってよかった。

と同時に、一歩間違えれば私にしても今回のような事故の当事者になる可能性はあったという、新たに確率性の問題として想起すると、やはりぞっとする。

亡くなった19人のうち、乗務員が3人、と。ひょっとするとその3人は、我々搭乗の際のあの操縦士であり、優しく丁寧だったキャビンアテンダントなのかも知れない。

そんなことを想うにつけ、こうなるとあれは、命がけの感動の瞬間だったのだと改めて思わずにはいられない。

ひとまず、尊い体験をくれたブッダ航空の、今回の悲劇に合掌。

(シャープ)ブンゴウ

64歳前夜

2011年09月20日 16時56分42秒 | 日記

明日21日をもって、満64歳となる。最近は高齢者という時、65歳以上がターゲットとされるようだから、文字通り私が老人の仲間入りを果たすのにちょうどあと1年ということになる。

また、昨年もこの機にブログに書いているが、本日、かの10年閉じ籠り計画の3年が経、明日からは4年目に入ることにもなるのだ。

ひとまず、では、この3年間、私は何を成し得たのか。

内容はともかく、結果的に、いずれも200枚弱の中編を1年半に1作のペースで2作ほどをまとめあげている。ここまでは書く能力の不足をまたまた深く認識させられ、かつその連続だったようにも思うのだが、とりあえず書き切ったことでのささやかな肯定感を自分に与えている一面もある。それによってまた、性懲りもなく次のテーマに取りかかろうとしている。

最初の1作は、自分の生い立ちから青春までを自伝的に書いた。ある種私小説風にみえなくもないが、私としてはそれを素材に、(人間の)意識の開発過程、あるいは己の人生の各位相に潜む観念の諸相を明確にしてみたかったし、最終的には、そこからこれからの創作の中における人物の一典型がもたらされることを願ったのだったが、さて、どれほどのものだったのか、今のところは定かではない。

2作目は、昨年1月旅したネパールを題材にした。そこで圧倒されたヒンズー教のカオスとヒマラヤの神秘性の意味合いとを、この地に縁の僧、川口慧海の『西蔵旅行記』を絡めてものそうとしたのだったが、これまた十分なものに仕上がったとは思えない。

というわけで、改めて翻ってみれば、この3年間は、とりあえず、自分にとって書くことの意味、さらにはそのテーマを求めて、手っ取り早いモティーフに手を染めたと言えなくもない。

否、厳密には、それまでに、私には途中で中断したままのテーマがあったから、それを一旦措いて、さらなるテーマの拡がりの可能性を追求して彷徨った期間であったとも言えるのかも知れなかった。

因みに、中断したままのテーマ・モティーフとは、右翼や宗教が絡んでいたり、はたまた在日外国人の感情を慮ったり、美術の贋作であったりと、こうして並べると我ながら、“どうして、かくも‐‐”と思うほど、尋常ならざる、むしろおぞましい部類に入るものばかりなのには気が重くなる。

けれども、故意にかあるいは成り行きでか、自分が引き出してしまったそういう諸々にある一定の決着をもたらさない限り、次に進めないような気持ちでいるのも確かなのだ。

果たして、今回の2作は、そろそろ再開をと考えているそれらのテーマ追求にいかなる関わりを持つに至るのか。あるいは全く無縁で終わるのか。

はたまた、またぞろ再開を見送り、さらなるテーマ・題材の追求に、なお今しばらくの時間を費やそうとするのか。

どうやら、閉じ籠り4年目もまだまだ迷走が続きそうではある。

が、この間愈々深めようとしている書く行為への絶対的帰依は、これだけはそろそろ自分の中にしっかりと刻印しなければならないと考えている。出来得るならば“高齢者”に仲間入りする前に。

(シャープ)ブンゴウ

年輪

2011年09月10日 12時02分10秒 | 日記
9月に入って急激に、特に朝晩は涼しさを増したように思う。昨年のとにかく暑かった印象から比べると、今年はまた、一段と凌ぎやすいとも感じられてしまう。このまま、秋に突入してくれるのなら、人一倍汗かきの私にとってはこの上ない流れではあるが―。

それにしても、今年の夏ほど、「特別な」、あるいは「こんな時だからこそ」「これで勇気付けられるなら」といったフレーズが、何かを語る際の枕詞のように付いて回って氾濫したことはなかったろう。甲子園の高校野球で、プロ野球のオールスターで、あるいは女子サッカーW杯のなでしこで、沸点に達し、ある種、そう語ることがルールと化したのか、とさえ感じさせられるくらいに。そして、単にスポーツ界に止まらない現象として社会的拡がりをもった。

例えば、普通、アスリートなら「頑張ります」「勝ちます」のひとことで済むところを、こうしたフレーズを付加することで、だが、それは、私には、彼の地への連帯の意志を表示するという意味合い以上に、結束を固め、行動するモチベーションを高めるものとしての効用をこそ狙う、即ち他ならぬ自分達用のものではなかったかと穿ちたくなるほどでもあったのだ。

それで結果が残せれば、それはそれでいいのかもしれない。が、ただ、それによる落としどころの見えないのが何とも釈然としない。勝者の笑顔だけは判然とするが、その結果と彼らがひとまず思いを馳せたはずの「特別な」事柄との関係性が確認出来ないのだ。というよりも、勝利の前では、まるでそのことは雲散霧消してしまっているように思われ、その未完結性に、だから、フレーズは邪魔だった。それで終わるなら、使われた彼の地にとってもいい迷惑というものだろう。

てな具合に、去りゆく夏に、一面どこかで苛立ちながら、ある検索をネット上で入れ込んでいる過程で、学生時代の懐かしい名前と出くわした。仮にSとする。

Sは学生時代から小説を書き始め、一時中断の時期があったけれども、現在は会社を経営する傍ら、作家として復帰しており、書き続けている。と、そのHPが謳う。時に、講演などもするらしく、彼が学生時代に著した1作しか知らなかった私には、Sのその活動が驚きであったし、正直なところ少々羨ましくもなった。

これまでの著作物の紹介がされている。勿論知った本はない。ただ、それを推薦する評者の文章などが載っていて、それを読む限りでは、ある一定のレベルには達し、しかも知る人ぞ知る、くらいの業界の位置にはあるようだった。

ブログ風に近況も述べている。その感性、そのボキャブラリーが我々の送った学生時代を彷彿とさせ、のみならず、微妙なところで、現在の私自身にも重なる部分があることを垣間見せてくれる。ただ、私との違いは、明確に彼の土俵は築かれ、それを踏み台にさらなる世界が描かれていくのだろうと予感させられたことだ。

経てきた彼の年輪がストレートにSワールドに反映している。

ここで、ついでにもう一人、学生時代の友人の近況が気になり出し、あるかなしか判らないその名前・Hを検索入力する。と、あった。早速アクセス。出てきたのは、ユーチューブ、某県の県議会で県の教育長として答弁に立つ彼の姿であった。

3年前の映像。背は低く、やや小太り気味だった学生時代からするとさらに貫禄は付いた感じで、これは学生時代にはなかったことだったが、話しぶりがいかにも堂々として、落ち着いている。長年の教師稼業、確か高校の校長を務めた後の教育委員会のはずだったから、ここでもまたHの年輪を感じたのだった。学生時代は、単に人がいいのが取り柄だったのに、一角の風格を持つに至っている―。

それにつけても。と、そうした彼らに比べ、年輪の欠片も感じられない自分が情けなかった。歩んできたものが全然ストックされてないことを突き付けられたようで、愕然とするのである。

“それでも俺は俺、やらなければ―”と、改めて気を取り直し、鞭を入れようとするのだが、今回ばかりは、こうなったら偶々目にしたことを恨むべきか、(そういう問題ではないだろう)、彼我の落差の大きさに遭遇して、へこむこと大。

(シャープ)ブンゴウ

異変

2011年09月01日 14時51分21秒 | 日記
1カ月振りのブログ更新である(のはずだった)。

先程、ちょっと間が空き過ぎたかな、と思い、そろそろ更新を、と考えて、ブログを開けてみて、びっくり。途轍もない異変が生じていた。

ブログには管理者のみが開ける頁があり、この中では、日々のアクセス数を見ることが出来る。私も時折、どの程度の数になっているのか、チェックを入れている。ブログをやっている人なら無論周知のことだろうが、このアクセス記録は、閲覧者数、訪問者数、そして全ブログ中での順位数が示され、さらには、週単位のトータル数字も算出されている。

異変が生じていたのは、このアクセス数においてであった。

通常、私の閲覧者数は1日平均50~60VP、訪問者数が30~40IPといったところ。どんな理由からか、記事の更新時等に100VPを超え、90IPに達するようなこともあるが、稀だ。当然、ブログ中の順位などは付いたことがなく、その欄は常に問題外を意味する横棒・「―」になっている。

ところがである。今日、開いて、それを確認したところ、昨日、つまり8月31日のアクセス数が桁違いだったのだ。

閲覧者7,180PV、訪問者5,905IP、そして順位は全ブログ1,626,877中、何と14位!

これは我がブログほぼ5カ月分に該当するアクセス数であり、順位に至っては、まさに驚天動地とでもしか表現出来ない珍事と言えた。

慌てて、早速、原因分析。と言ってもそれを厳密にする手法が分からない。とりあえず、ブログのトップページを再度開き、点検。するとそれらしき原因を発見したのである。

これも周知のことなのだろうけれど、ブログにはそれぞれの掲載記事の下にそれを読んだ方がコメント出来るコーナーがあって、その有無をトップページでも印している。私のブログでは、幸か不幸か(多分不幸だと思う)年1回あるか無しかの書き込みで、前回はほぼ1年前に寄せてもらったものだ。

そのコメントチェック欄に、今回新たな記載サインがある。発信タイトルを見れば「島田紳助・暴力団云々」と。

どういうことかと思い、即座にそこをクリックすると、出てきたのは誰やらの不明で怪しげなHP。まして、マカフィ(ウイルスプロテクト)が危険であることを警告し、そして「このまま進みますか?」と注意を促してくる曲者サイトだった。

気持ち悪くなって、勿論それ以上は入り込まず、すぐに引き返す。続けてブログの管理者コーナーを呼び出して、そのコメント自体を削除したのだった。

実は、このコメント書き込み欄はこれまで数回削除したことがある。いずれも同一人物が寄せたと思われる、私の記事内容に全く関係ない、というよりも完全に嫌がらせというのが確実な卑猥に満ちた内容のものだったからだ。

今回は、その意図が何であるのか分からないし、何故私のブログの、しかも2年前の記事のその欄を使ったのかも分からない。けれども、今が旬の彼の人の話題だ。恐らく、何かの検索サイトでそのHPの存在を知った人達が、それの掲載されている私のブログにもどっと押し寄せて、これが異変を生じさせた元凶に違いなかった。

狙い撃ちされたとまでは思わないが、ある面、ネットというのはやはり不気味な性格を持っているものだと再認識させられている。よって、今回の本格的なブログ更新は一旦仕切り直しとする次第。

(シャープ)ブンゴウ