2日前の25日朝、ネパール・ヒマラヤ遊覧飛行帰りのブッダ航空機がカトマンズ近郊で墜落、乗っていた19人全員が死亡したという。前回ブログでネパールの文字を入力したばかりであり、何とも奇縁な感じがしないでもないが、いずれにせよこのニュースに少なからぬ衝撃を受けている。
過去、他ならぬ私もその遊覧飛行機には搭乗したのであり、のみならず、遊覧飛行はその旅行中での深い感動をくれた確かな時間の1つだったからである。
旅行メモを紐解いてみると我々が搭乗したのは昨年の1月22日のことだった。前日の晩の記述。
“明日のモーニングコールは5時45分。6時15分からレストランで朝食。6時45分にホテル出発(遊覧飛行オプション班・1人20,000円)。空港まで15分ぐらいという。ただし、飛行時間がずれることもあるらしい。朝、空港での待ち時間は寒いとか。18人乗りの飛行機だが、窓際でないのが2席。だから16人が乗る。真ん中が通路で両サイドに座席。遊覧するのでそれで見る分には問題なし。そしてエベレストだけは操縦席から見ることができるという。飛んでる時間は50分ぐらい。”
そして当日のメモ。“7時5分前、空港着。7時35分、離陸。‐‐カトマンズから飛び立ったから、往路、ヒマラヤは左側の方に見えたし、帰りは右側の方に見えた。‐‐エベレストの前で旋回する時に、操縦席の方に呼ばれた。‐‐機内ではガイドさんがヒマラヤの山々を英語で説明。‐‐8時半無事着陸。約55分間のフライト。すごかったなー!という声が機内から一斉に上がる‐‐”
さらに、旅から帰って書いたこのブログでの、このような遊覧飛行の模様は、次のように認めていたのである(「ネパールから戻って」H22.1.28)。
〈最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感だったのである。〉
さらにさらに。この8月に書き上げたばかり、その旅を題材にした私の創作の中では、この部分を次のように昇華させていたのだった。
『“あっ、あそこに慧海がいる。”
到頭そんな幻覚までもたらされたのは、ポカラからカトマンズに戻り、ほぼ一時間をかけての、連峰の見納め、今回の目玉企画でもあったヒマラヤ遊覧飛行中のことである。旅程五日目になっていた。定員が二十人弱、真ん中に通路があって両サイドに一人席が縦一列に並ぶという超小型機から望むヒマラヤ連邦は限りなく近く在った。しかも視線と同じ位置に朝陽に輝く冠雪の頂を捉えることになり、従って、峰々の切っ先から裾に降りる雪面の所々に顕れ出ている出っ張りや窪みも、その陰影共々、隅々まで見て取れる。総てがこれまでとは異なる連峰のリアリティなのであった。
約三十分ほどの飛行で旋回に入る。エベレストに近付いた地点で折り返すのだったが、いざその時になると、機内の客は一人ずつコックピットに招かれ、愈々間近になったエベレストの雄姿を拝観することになる。慧海を幻視したと思ったのは、そうして私の番になり、コックピットに入ってエベレストを確認した時であった。
操縦室では、頭髪を後ろで束ね、きりっとした面立ち、黒っぽい制服に身を包んだ痩身の女性副操縦士が待ち受け、狭い座席に座ったまま、その後ろに立った私に何事か英語を交えながらエベレストの方角を指し示す。それに従い視線を送った先は紛れもなくエベレストであった。
私は数十秒間それに見入っていた。と、その私の視野に雪渓の切り立った斜面に刻まれている極小の茶褐色の“点”が目に入ったのだ。それは即ち、雪中に飛び出た岩みたいなものに違いなかったのだろう。が、にも拘らず私にはそれが、ヒマラヤ越えで雪肌にへばり付く慧海、入蔵目前の慧海の姿そのものに視えたのだ。
“〈断事観三昧〉で歩んでいるのか?”
道なき道、あるいは分岐路でどちらの道を行くべきか迷った時、ひとしきり瞑想に委ねて選択したという慧海の究極の選択手法にも思いを巡らせながらである。』
この文章の前後関係についての説明は省略するが、創作全体においてもこの部分はクライマックスに当たる場面であり、だから、それだけ遊覧飛行は私にとってインパクトが強かったとも言ってよかった。
と同時に、一歩間違えれば私にしても今回のような事故の当事者になる可能性はあったという、新たに確率性の問題として想起すると、やはりぞっとする。
亡くなった19人のうち、乗務員が3人、と。ひょっとするとその3人は、我々搭乗の際のあの操縦士であり、優しく丁寧だったキャビンアテンダントなのかも知れない。
そんなことを想うにつけ、こうなるとあれは、命がけの感動の瞬間だったのだと改めて思わずにはいられない。
ひとまず、尊い体験をくれたブッダ航空の、今回の悲劇に合掌。
(シャープ)ブンゴウ
過去、他ならぬ私もその遊覧飛行機には搭乗したのであり、のみならず、遊覧飛行はその旅行中での深い感動をくれた確かな時間の1つだったからである。
旅行メモを紐解いてみると我々が搭乗したのは昨年の1月22日のことだった。前日の晩の記述。
“明日のモーニングコールは5時45分。6時15分からレストランで朝食。6時45分にホテル出発(遊覧飛行オプション班・1人20,000円)。空港まで15分ぐらいという。ただし、飛行時間がずれることもあるらしい。朝、空港での待ち時間は寒いとか。18人乗りの飛行機だが、窓際でないのが2席。だから16人が乗る。真ん中が通路で両サイドに座席。遊覧するのでそれで見る分には問題なし。そしてエベレストだけは操縦席から見ることができるという。飛んでる時間は50分ぐらい。”
そして当日のメモ。“7時5分前、空港着。7時35分、離陸。‐‐カトマンズから飛び立ったから、往路、ヒマラヤは左側の方に見えたし、帰りは右側の方に見えた。‐‐エベレストの前で旋回する時に、操縦席の方に呼ばれた。‐‐機内ではガイドさんがヒマラヤの山々を英語で説明。‐‐8時半無事着陸。約55分間のフライト。すごかったなー!という声が機内から一斉に上がる‐‐”
さらに、旅から帰って書いたこのブログでの、このような遊覧飛行の模様は、次のように認めていたのである(「ネパールから戻って」H22.1.28)。
〈最後の仕上げは、ネパール5日目、1時間弱に及ぶ、ヒマラヤ遊覧飛行。地上から見上げるだけだったかの連峰が、飛行機の窓外に間近に鎮座している。16人乗りの飛行機、その乗客1人、1人に、交代で操縦室(コックピット)にも入れてくれて展望させてもくれる。そんなこんなで、文字通り、清澄な自然美に圧倒され、あっと言う間の1時間。これで2万円は決して高くない。降りた時に渡された搭乗記念証明書には、“I did not climb Mt Everest…but touched it with my heart!”と記されてあった。実感だったのである。〉
さらにさらに。この8月に書き上げたばかり、その旅を題材にした私の創作の中では、この部分を次のように昇華させていたのだった。
『“あっ、あそこに慧海がいる。”
到頭そんな幻覚までもたらされたのは、ポカラからカトマンズに戻り、ほぼ一時間をかけての、連峰の見納め、今回の目玉企画でもあったヒマラヤ遊覧飛行中のことである。旅程五日目になっていた。定員が二十人弱、真ん中に通路があって両サイドに一人席が縦一列に並ぶという超小型機から望むヒマラヤ連邦は限りなく近く在った。しかも視線と同じ位置に朝陽に輝く冠雪の頂を捉えることになり、従って、峰々の切っ先から裾に降りる雪面の所々に顕れ出ている出っ張りや窪みも、その陰影共々、隅々まで見て取れる。総てがこれまでとは異なる連峰のリアリティなのであった。
約三十分ほどの飛行で旋回に入る。エベレストに近付いた地点で折り返すのだったが、いざその時になると、機内の客は一人ずつコックピットに招かれ、愈々間近になったエベレストの雄姿を拝観することになる。慧海を幻視したと思ったのは、そうして私の番になり、コックピットに入ってエベレストを確認した時であった。
操縦室では、頭髪を後ろで束ね、きりっとした面立ち、黒っぽい制服に身を包んだ痩身の女性副操縦士が待ち受け、狭い座席に座ったまま、その後ろに立った私に何事か英語を交えながらエベレストの方角を指し示す。それに従い視線を送った先は紛れもなくエベレストであった。
私は数十秒間それに見入っていた。と、その私の視野に雪渓の切り立った斜面に刻まれている極小の茶褐色の“点”が目に入ったのだ。それは即ち、雪中に飛び出た岩みたいなものに違いなかったのだろう。が、にも拘らず私にはそれが、ヒマラヤ越えで雪肌にへばり付く慧海、入蔵目前の慧海の姿そのものに視えたのだ。
“〈断事観三昧〉で歩んでいるのか?”
道なき道、あるいは分岐路でどちらの道を行くべきか迷った時、ひとしきり瞑想に委ねて選択したという慧海の究極の選択手法にも思いを巡らせながらである。』
この文章の前後関係についての説明は省略するが、創作全体においてもこの部分はクライマックスに当たる場面であり、だから、それだけ遊覧飛行は私にとってインパクトが強かったとも言ってよかった。
と同時に、一歩間違えれば私にしても今回のような事故の当事者になる可能性はあったという、新たに確率性の問題として想起すると、やはりぞっとする。
亡くなった19人のうち、乗務員が3人、と。ひょっとするとその3人は、我々搭乗の際のあの操縦士であり、優しく丁寧だったキャビンアテンダントなのかも知れない。
そんなことを想うにつけ、こうなるとあれは、命がけの感動の瞬間だったのだと改めて思わずにはいられない。
ひとまず、尊い体験をくれたブッダ航空の、今回の悲劇に合掌。
(シャープ)ブンゴウ