ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

14年駆け込みブログ・忘年会

2014年12月31日 15時42分28秒 | 日記
新しいダイヤリー来年版を今年版と切り替えたところで、もう1度、本年12月の頁を括ってみた。

日々の予定の空白部分が年々多くなっているが、今年はまた、その傾向に一段と弾みがついた感じもあって、その分、よけい時の流れの速さを思い知らされ…、そう、それは現に、まさに激流、奔流とも呼ぶべき、あっと言う間のこのひと月ではあったのだ(否、1年間であったとも言える)。

その、数少ないスケジュールの書き込みの中で、忘年会が5回あった。それぞれの相手は、夫婦付き合い仲間(1日)、自治会仲間(13日)、ゴルフ仲間(20日)、(13日とは別の)自治会仲間(25日)、飲み会仲間(27日)等々といったもので、この回数は、(どうでもいいことだが)世間一般の標準に照らして多かったのか少なかったのか。

1つ確かだったのは、いずれもが、世間スタンダードとは異なり、現在の私を取り巻く日常的環境を反映した、ごくごく身近な忘年会であって、しかも過去にあったような2次会、3次会などは殆ど影を潜めた、というか、ほぼ皆無に近い状態で終わっているということだった。

会の持ち時間は…、大体2時間、長くてせいぜい2時間半が限度。それも、食事の量、酒の量、共に落ちて、かつてからするといかにもおとなしい地点で早々に飽和、満足の域に入り込むという状態だったのだ。

交わされる話は…、当然のことながら、それぞれの会に応じて異なっている。夫婦付き合いや飲み会仲間では、過去の話に遡ったり(若い頃の映画や音楽のこと等も含まれる)、そして誰彼の近況を噂し合ったり。ゴルフ仲間では、スイングがどうの、あの時のスコアがどうの、あそこのコースはどうの、と。

中で、今年、飲みながら最も議論が白熱したのは自治会仲間とのそれだった。高齢化が進み、なり手の不足する自治会をどうしていくのか、地域の将来ビジョンをどう描くか(マジに政治家並みに議論を吹きかけてくる長老がいた)、近隣する丘陵の(4年も続く)宅地開発反対運動をさらにどう継続させていくのか…。

ただ、私に関する限りは、(2回どちらもが10人足らずの)出席メンバーの年齢面から(ほとんどが年上だったのだ)、さらには、地域に対する知識と認識の面から(昨年初めて自治会デビューした私にはこれにおいても著しいハンディがある)、大部分は座の盛り上がりに一歩距離を置き、聞き役に回っていたのだったが…。

そうした5回で共通する、すぐにでも思い浮べられる、導入部かあるいは主流近くに出てきていた話題があった。…病気と健康に関する話だ。特に疾病は、いずれもの会の参加メンバー悉くと言えるくらい、(腰痛や膝痛なども含めると)1つや2つは抱え込んでいるから、誰しもが他人ごとではない。病院や医師の品定めに至るまで、やおら真剣な、かつ熱を帯びた意見交換の場にもなっていたのである。

さて、そうしたそれぞれの忘年会にあって、実は私には、会の流れにもう一つ乗れなかった思いが残っている。これまでだと、例えば女房が一緒であれば、「もうやめなさいよ」とチェックが入るほどには飲んで、口数も多くなっていたところを、今年、女房と一緒だった2回では、彼女から何のお咎めも、ダメ出しもなかった…。

理由は2つある。いずれも本ブログで書いた、食道アカラシアと義歯が絡む。

前者は、毎食事前に飲む薬のお蔭で劇的に減った発作が、油断して(飲食物を)ぞんざいに口に放り込んだり、人との会食で、その場のペースに合わせよう(速く食べよう)と意識し過ぎたりする時にいまだに起こることがあって、それに対する怖れがまだ完全に払拭出来ていないのだ。

後者は、昨年末から今年初めにかけて治療した義歯の噛合具合に、これまた未だ完全に慣れ切れていず、元の歯の状態で噛もうとしてはそれのままならない状況に苦心する。

それぞれは、家での時のように粘り強く付き合えば、なんとか無事に乗り越えることは出来る。が、そこはそれ、そのような会となると、ついつい人の目が気になるし、場の流れに遅れる自分の体たらくが許せなくなってくる、…勢い、焦りとストレスがじわじわともたげてきて、それに気を取られるあまり、話からは自ら遠ざかってしまうのだ。

かくなる上は、人と接する会食の場には、診療を受ける度に言われ続けているかのN歯科・N(女史)先生の言に従い、現状を愈々正しく認識、及びその機能変容を丸ごと受け入れて丁寧に事に当たり、平然と食事出来る習性をものにして臨むしか方法はなさそうだ。

言わば、迎えるべくして迎えている我が身体の大いなる過渡・変調期。今年5回の忘年会を総括し、そうして身に着けるべく新たなる習慣のために(来年の忘年会用に)…、ささやかながら、ひとまず年明け早々から、(食道状態と義歯の不具合の)現状容認・現状肯定を心して、(食べることに)一所懸命、一心不乱、そして一点集中…の、しかし一大誓いを立てるに至った14年、大晦日なのである。

ついでながら、29日は恒例の『第九』演奏会(大フィル・フェスティバルホール)を拝聴してきた。(Mさん、Yさん、Wと4人で)こちらは、メンバーも感動も不変だったことが、こうなると、これはこれで何とも嬉しく、貴いものに思われてくる。

(シャープ)ブンゴウ

「山の辺の道」見聞録

2014年12月02日 15時59分21秒 | 日記
少し前になるが、いつもの山歩きの会、その番外編で「山の辺の道」を歩いた。11月16日(日)のことである。時、あたかも秋真っ盛り。大和のど真ん中を、我々夫婦を含む総勢10名のシニア男女が参加している。それに今回は、Hリーダーの機転により、地元天理市の観光ボランティアさん(Yさん・60代半ば男性)に、終日ガイドをお願いした。

何しろ今回のコース、万葉歌碑あり、由緒ある寺社あり、そして何よりも、さしずめ“古墳銀座”とでも形容できるほどの大小様々な古墳あり、と、まさに〈日本史を歩いている〉(天理市ガイドブック)様相なのだ。よってこの措置は大いに適切であったと言わなければならないだろう。

多くはどこまで行っても畑や田んぼの中を通る比較的平坦な道なのだ。謂われあるポイントだって見過ごしがちだし、そうしたガイドがないと、単に、たわわに実る柿や、みかん(因みにこれは奈良が発祥、とYさんは何度も)、八朔などの柑橘類、あるいは大根、ネギ(何故か、かの下仁田ネギ)等を筆頭とした豊穣なる野菜類、そして錦秋の里山、さらにその遠くに二上山、葛城山、金剛山といった関西100名山(いずれも踏破している)を眺めながら歩くだけの、それこそ何の変哲もない、文字通り野辺歩きに過ぎなかったからだ。

当日は、今回コースの起点になる近鉄天理駅に8時40分の終結。Yさんとも合流して、いざ出発したのは9時前。ここからはいわゆる一筆書き風の紀行記録になっていくわけだが、その前に2点、基本事項をチェック。

その1・「山の辺の道」とは―〈三輪(桜井市)から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ッ道の3官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。上ッ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山の辺の道である。〉(山の辺の道美化促進協議会パンフレット)。

〈『古事記』では崇神天皇の条「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上に在り」、同じく景行紀には「御陵は山辺の道上に在り」とある。〉〈この道は奈良から石上・布留(天理市)を経て三輪(桜井市)に通じていたとみられるが、しだいに西側の上ツ道が多く用いられるようになった。弥生時代後期には、布留(ふる)遺跡と纏向(まきむく)遺跡を結ぶ道であったとも推測されている。その全長は約35kmであるが、その南部に古道の痕跡や景観が残り、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程で、その多くは東海道自然歩道となっている。山林、集落、田畑の間を縫うように通っていて、田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山、そして葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる。〉(ウイキペディア)

そして、天理市作成のガイドブックでは「日本最古の道」として、〈なぜこのように道が敷かれたのかは謎で、巨大建造物の資材運搬用、軍事用とも言われています〉と。

いずれにせよ、単に、大和のその辺の野辺を歩く道だから“山の辺の道”…、と、これが固有名詞などではなく、一般名称とばかり思い込んでいた私の認識が全く間違っていたこと、その無知ぶりをまずは恥じなければならない。

その2・起点となる天理市とは―〈昭和29年4月1日、山辺郡の丹波市町、二階堂村、朝和村、福住村、添上郡櫟本町、磯城郡柳本町の3町3村の合併により天理市が誕生いたしました〉(天理市HP)。〈名称は市制開始当時に一帯に普及していた天理教に由来し、2014年現在、日本で唯一市名に宗教団体の名称が使われている例である。(略)。かつて、天理市民ではない天理教信徒が天理市の市名を「山辺市」に変更することを求めて天理市長を訴えたが、却下された〉(ウイキペディア)。

今からおよそ180年前の1838年、その山辺郡に天理教は発祥したというから、市制60年の天理市は、まさに天理教ありき状態で付けられた名称だったのだ。

行程の開始である。「天理三島本通」の看板が掲げられ、天理教参拝客を意識したに違いない、土産品屋、神具・楽器店、履物、おやさと書房、等々といったお店が通りの両脇に軒を連ねるアーケードを過ぎると、すぐに巨大、荘厳な天理教教会本部(神殿)が。そして広大な敷地一帯(神苑)には、詰所(つめしょ)と言われる地方信者の宿泊施設(信者の多い地域―海外も含む―は独自の会館もあるという。「浅草」の地名が見られた)の他、天理大学の学舎などを見ることが出来る。

粛々とした聖地の雰囲気。一角にはまた、天理大付属の天理参考館が。たまたま目にした27日付の朝日新聞朝刊では、ここで、〈ギリシャ神話の伝説の都市トロイア(トロイ)を「発見」したとされるドイツ人、ハインリッヒ・シューリマン(1822~90)が発掘したギリシャ・ティリンス遺跡の報告書の原画28枚が確認された〉の報に接している。

次は約300m離れた所の「石上神宮」だ。因みに『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と、ここ石上神宮だけであり、日本最古の神宮の1つとも。武器についての伝承が多い神社とかで、369年頃、百済の使者が倭王に献じたという神剣・七支刀(ななつさやのたち・国宝)がつとに有名。

当神宮は、古代には布留社―死者の魂が甦る社―とも呼ばれたそうな。七五三詣でもちらほら見られる拝殿(国宝)、鎌倉時代に建立されたという楼門(重文)など、広大な神苑内、緑に囲まれて点在する古建築群は、歴代の天皇の崇敬を集めてきたという証左でもあるかのよう。

頭部から嘴にかけてが赤、胴体部分が茶髪、それ以外は黒、そして足は茶系といういかにも神がかったのと、それと純白のもの、…2様の鶏が神苑を闊歩している様も何やら神秘的。

前者は東天紅鶏(とうてんこう)といい、天の神の使い、ここには20匹程度いて、「付近の樹木に飛び上がり、天と地を結んでいる」(ガイドのYさん)のだという。後で知ることになるが、この種類の鶏は国の天然記念物。後者は烏骨鶏(うこっけい)、高価な卵を産むらしい。

今回我々は「山の辺の道・南コース」を歩いている。石上神宮の後の「内山永久寺跡」ではYさんのガイドに一段と熱が籠った。その歴史、〈永久2年に鳥羽天皇の詔勅により興福寺大乗院頼実が創建。盛時は52坊を誇ったが、(明治の)廃仏毀釈で廃寺となった〉と、パンフレットではつれないが、Yさん、「現存すれば必ずや世界遺産になっていた」。かつては“関西の日光”とまで言われたというくらいだから、在りし日との落差を嘆くYさんの気持ち、さもありなん、というところか。〈うち山や とざましらずの 花ざかり〉。往時の桜の見事さを讃えた若き(22、23歳頃の)芭蕉の句碑が建ちこそすれ、今は広大な荒れ地に、当時の痕跡を残すのは池のみなのだ。

山の辺の道は、Yさんによれば、多少の起伏はあるが平均して標高100mほどの高さにあり、村と村をつなぐ生活道でもあったという。そう耳にするにつけ、沿道に佇んでいるのを見かけたりする、首に紫の布を巻いた小地蔵などは、その顔付きが風化して判然としないこともあって、いつぞやの時代、自分達や、そこを通行する人の無事を祈って土地の人間が据えた道祖神の意味合いだったのに違いないと想像する。

遠目に、6世紀前半の築造、全長72m、今は竹や常緑樹、紅葉した落葉樹がびっしりと入り混じり、鬱蒼と茂る前方後円の「東乗鞍古墳」跡を見つつ、別名「春日神社」とも呼ばれ、〈奈良春日大社と縁深い隠れた名社〉「夜都伎(やとぎorやつぎ)神社」へ。鎮守の森に文字通り鎮座、拝殿の所々に苔が蒸す茅葺屋根が味わい深い。正門鳥居の脇に〈山の辺の 道ははるけく 野路の上に 乙木(をとぎ)の鳥居 朱(あけ)に立つ見ゆ 東畝〉の歌碑。

今度は、稲の刈り取られた田んぼの中に続く道だ。遠くにはうっすらと、2つの山が寄り添うような二上山の妙なる姿形が。やがて、狭い、古い町並みの中の街道筋のようなコンクリート通りに入り、そこを抜ければ「竹之内環濠集落」。ここから先に進むと、もう1つ、「萱生(かよう)環濠集落」。…“何故この古代の地に環濠が?”の疑問が湧いてくる。

〈中世、大和では、長く続く乱世に人々は自らの暮らしを守るために一考し、村の周囲に濠をめぐらせて外敵を防いだのが環濠集落です。竹之内や萱生の集落には今も濠の一部と竹やぶが残り、その知恵を見ることができます〉(ガイドブック)。その、今も残る濠の一部は、所々で苔混じりの緑がかった水面を曝していたのだったが、この古代の地にも中世があったこと、そして乱世が終わった後、濠は灌漑など水利施設の役割を果たしてきたことを、Yさんにより知る。

さて、この辺りまで来ると、山の辺の道、その源流は“古墳の道”ではなかったのか、の想いが強くなってくる。Yさんのガイドが、どうやらそれを中心に回り始めたのだ。

いずれも田畑の中にこんもりと竹や樹木を群生せているだけだが、「波多子塚古墳」(萱生町集落西方斜面に位置する前方後円墳・4世紀前葉・全長140m)、「西山塚古墳」(古墳時代後期前葉の前方後円墳・全長114m)、「西殿塚古墳」(=「衾田陵(ふすまだりょう)」)―「継体天皇皇后 手白香皇女(たしらかのひめみこ)衾田陵」の宮内庁の看板がかかり、皇室の陵墓然として〈凛とした気〉が―等々が、さほどの距離を置かずに連続する。

さてさて、これら1つ、1つを丁寧に見ていくと際限がない。そこで、とりあえずは引き続き上のスタンスで、この日、この後Yさんが我々に案内してくれた古墳達を簡単に整理しておくことにしよう。

△「中山大塚古墳」(古墳時代初頭・前方後円墳・全長139m)△「黒塚古墳」(古墳時代前期=3世紀後半~4世紀・前方後円墳・全長130m。一帯は卑弥呼の里と銘打たれ、立派な天理市立黒塚古墳展示館があって、実寸大に復元した竪穴式石室や複数の三角縁神獣鏡(銅鏡)のレプリカを見ることが出来る)△「崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)」(大和朝廷の創始者第10代崇神天皇陵―最古の陵・4世紀中葉前方後円墳・全長242m。山辺道勾岡上陵=やまのべのみちのまがりのおかのうえのみささぎ=との宮内庁の碑が建ち、平地から1段高い盛土になっている。周囲が濠で全体は幽境といった趣)△「行燈山(あんどんやま)古墳」(=崇神天皇陵)△「櫛山(くしやま)古墳」(国史跡・4世紀後半・双方中円墳=前後が方形で中が円、全国で3カ所のみ)△「景行天皇陵(けいこうてんのうりょう)」(崇神の孫、日本武尊=やまとたけるのみこと=の父といわれる第12代景行天皇陵・全長300m・4世紀古墳では最大)△「渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)」(=景行天皇陵)。崇神天皇陵と景行天皇陵を結ぶ道の中間点には〈二古陵(にこりょう)に 一人の衛士(えじ)や ほとぎす〉の句碑。

そしてこの日の見納めは、Yさんが「本日のメインディッシュ」と表現したJR巻向(まきむく)駅近くの「箸墓(はしはか」古墳」であった。

〈大きな前方後円墳。全長272m、後円部の直径は157m、高さ23m。前方部の幅は25m、高さ13m。孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の叔母でもあった倭迹迹日百襲姫(やまとととひもそひめ)命の墓である。周囲には周濠の一部がいまも残っている〉(パンフレット)。

では、この3世紀築造とされる古墳が何故“メインディッシュ”足り得るのか…。何を隠そうこの墳墓こそ、近年、かの邪馬台国の女王・卑弥呼のそれとして有力視されているらしいのだ。

この説とは直接関係ないのだろうが、その残存する“濠の一部”は現在、「箸中大池」として「ため池百選」の1つに選定されているという。しかしながら何故かこの日、仮に女王の墓とするのなら、水は満々と張られているのがふさわしいはずなのに、夕方の黄昏時、完全に干上がっていた…。一抹の侘しさと共に、私にはそれも“謎”として残った。

かにかくに山の辺の道には古墳が多い。我々の今回の山の辺行、勢い、この見聞録も後半は古墳一色となっている。そこで改めて初心に戻って、この古墳とは一体何ぞや…。

先の、黒塚古墳展示館の説明だ。〈古墳は1700年前から約300年間に造られた首長の墓である。地上に巨大な盛り土をしてどこからでも眺めることができるように意図されたと考えられる。古墳の形は基本的に前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4種類である。前方後円墳が最も大きく発展し、…日本に権力が誕生したときに出現するところから、各地の首長をまとめる象徴として造られたものと考えられる。〉

さすれば今回は、はしなくも、古代、土地作り、そして国造りに奔走したのであろう人々の志と勇気を感じ取った山の辺行でもあったのだ。ついでながら、同館で併せて掲げられていた「大和古墳群一覧」によれば、天理から桜井一帯にかけて、その数38。するとこの日、我々が目にしたのはその約4分の1にしか過ぎなかったことになる。

然らば!この山の辺には「卑弥呼の里コース」、はたまた「はにわの里コース」とかもあるということだし、さらなる古代人の荒ぶる息遣いを求めて、関西100名山・完全踏破と並び、“大和古墳・全探訪”を我々の新たな目標にするのも悪くない。

(シャープ)ブンゴウ