この21日の誕生日で74歳になる。例年、この日〈前後〉には本ブログを更新していることから、今年も自らに課したタスク感に駆られ、では、今年は何を書くべきか。定まらないままに入力に入る。
私が現在地に越して来たのが、下の息子が生まれる前年の昭和52年10月。実に44年前のことになり、私、女房、女房の両親、それに上の娘、そして胎内の息子、計6人が当時の同居家族であった。
入居と同時に、おそらく日常的には使わないが、さりとて捨てることも出来ない各人の持ち物(アルバム、小物類、等々)を収納すべく、物置を1つ置いた。
そして、下の子が生まれ、5歳上の娘ともども、幼稚園、小学校、中学校と成長するに連れ、二人が使ってきて、しかし捨てるに忍びなかったのだろう、Tシャツなどの衣類や、バッグ、靴などの履物、野球グローブ、帽子、おもちゃ、絵本、ノート、参考書、等々をも入れ込むようになり、いつの間にか当初1つだったのが、大小の2つが増え、3つ並んで建つようになっていたのである。
管理は、下の子が生まれるのを契機に同居することになった女房の母親(10年ほど前に亡くなっている)の、専ら役割だったが、共働きだった我々夫婦に代わって、2人の子供の子育てを担当してくれたということもあって、その成長の証しとして捨て難く、蓄積していったとも思われる。
かれこれ半年前のことになる。「裏の物置、底が抜けて傾いている。台風なんかがきて倒れたりしたら大変だから、撤去したい」と女房が言ってきた。「今度、植木屋さんに相談してみる」とも。
「植木屋さん」は、ここ10数年来、年に何回か、庭の草刈りや、樹木の整備に定期的に入ってもらっているYさんだ。我々より若干年下だが、年代的には同じようなもので、目下、独り身。女房は話し好きで面倒見のいいこのYさんに、庭木周辺だけでなく、雨樋の修理など、家回り全般のことも相談しているのだ。
「この秋口を目途に、中の物をきれいに処分して、撤去しよう。捨てる物は、ごみの収集日に、何度かに分けて出して、徐々に減らしていけばいい」。ほぼ3カ月前(6月)、この時は庭木の消毒にやってきたYさんにそう言われたらしかった。
〈物置、解体への道〉。そう銘打った女房の、物置の前記のような中身の撤去がそこから始まった。ある種、断舎離でもあって、いざ始めてみると、女房はその物量の多さと一つひとつの点検に、ため息を吐き続けた。見かねて私も、「手伝おうか」と、一度だけ、その処分の現場に立ったことがある。
だが、入れられていたのは、女房の両親の物や、それに子供たちの物、そして女房の教師をしていた頃の学校教材等々に関するものが殆ど。私自身は処分検討の選択に全く関与出来ず、そこからは早々に退散しなければならなかった。
そして、その「解体」期限が今月末に迫り、処分は8~9割方済んだと思われるここ10日ほど前くらいから、女房が、「これを見て、適当に処分して」と、私関連の持ち物を運んでくるようになった。
高校時代の日記、大学時代の作文、成績表、旅の絵葉書、…、“えっ、こんなものまで残していた?”―自分では一切記憶のないそれらを前に、さっと目を通しては、「冷や汗が出てくるな」と女房に言い、しかし捨て切れずに、今度は私関係の物を置いている押入れに、入れ込むのだった。
“もうしばらくしたら、一度、点検して、それから処分しよう”。その押入れには、主としてこれまで私がフリーの仕事で関わった印刷関連物が乱雑に詰め込まれていて、それらの断舎離の一環で、その時にこの過去の新規参入者も併せて、と考えたからに他ならない。
そこで、処分し切れずに残したい、と思うものについては保存し、その理由を体系的に整理して書き置くこともいいかな、等と、将来の断舎離につながりかねない新たなる制作物を考えたりしてのことでもあった。
「私の小学校の成績表まで出てきたわよ。お母さんがここで一緒に住むということで、捨てられずに田舎から持って来たんだと思う」。いよいよ撤去作業がカウントダウンに差しかかっている直近では、女房がまた、”そこまでのもの”を見せつけられてさすがに複雑な気持ちになっている。
捨てるに際して、これは、と思うものは写真に撮り、アーカイブとして残しておくことを考え、実行している女房だが、果たしてこの成績表はどうするのか。かつて小学校の教師だった母親には「ありがたいことだ」と感謝しているらしいが、なぜか捨てることも写真に収めることも躊躇っているのだ。
私にしても、ここ半世紀近くも無縁だった、しかしながら貴重な“冷や汗の過去”を思い出さされて、明日、後期高齢者目前の74歳を迎えるに際し、断舎離の困難さを改めて実感しているところなのであり、つまるところこれが今年のタスクで言いたいテーマとなった。
(シャープ)ブンゴウ
私が現在地に越して来たのが、下の息子が生まれる前年の昭和52年10月。実に44年前のことになり、私、女房、女房の両親、それに上の娘、そして胎内の息子、計6人が当時の同居家族であった。
入居と同時に、おそらく日常的には使わないが、さりとて捨てることも出来ない各人の持ち物(アルバム、小物類、等々)を収納すべく、物置を1つ置いた。
そして、下の子が生まれ、5歳上の娘ともども、幼稚園、小学校、中学校と成長するに連れ、二人が使ってきて、しかし捨てるに忍びなかったのだろう、Tシャツなどの衣類や、バッグ、靴などの履物、野球グローブ、帽子、おもちゃ、絵本、ノート、参考書、等々をも入れ込むようになり、いつの間にか当初1つだったのが、大小の2つが増え、3つ並んで建つようになっていたのである。
管理は、下の子が生まれるのを契機に同居することになった女房の母親(10年ほど前に亡くなっている)の、専ら役割だったが、共働きだった我々夫婦に代わって、2人の子供の子育てを担当してくれたということもあって、その成長の証しとして捨て難く、蓄積していったとも思われる。
かれこれ半年前のことになる。「裏の物置、底が抜けて傾いている。台風なんかがきて倒れたりしたら大変だから、撤去したい」と女房が言ってきた。「今度、植木屋さんに相談してみる」とも。
「植木屋さん」は、ここ10数年来、年に何回か、庭の草刈りや、樹木の整備に定期的に入ってもらっているYさんだ。我々より若干年下だが、年代的には同じようなもので、目下、独り身。女房は話し好きで面倒見のいいこのYさんに、庭木周辺だけでなく、雨樋の修理など、家回り全般のことも相談しているのだ。
「この秋口を目途に、中の物をきれいに処分して、撤去しよう。捨てる物は、ごみの収集日に、何度かに分けて出して、徐々に減らしていけばいい」。ほぼ3カ月前(6月)、この時は庭木の消毒にやってきたYさんにそう言われたらしかった。
〈物置、解体への道〉。そう銘打った女房の、物置の前記のような中身の撤去がそこから始まった。ある種、断舎離でもあって、いざ始めてみると、女房はその物量の多さと一つひとつの点検に、ため息を吐き続けた。見かねて私も、「手伝おうか」と、一度だけ、その処分の現場に立ったことがある。
だが、入れられていたのは、女房の両親の物や、それに子供たちの物、そして女房の教師をしていた頃の学校教材等々に関するものが殆ど。私自身は処分検討の選択に全く関与出来ず、そこからは早々に退散しなければならなかった。
そして、その「解体」期限が今月末に迫り、処分は8~9割方済んだと思われるここ10日ほど前くらいから、女房が、「これを見て、適当に処分して」と、私関連の持ち物を運んでくるようになった。
高校時代の日記、大学時代の作文、成績表、旅の絵葉書、…、“えっ、こんなものまで残していた?”―自分では一切記憶のないそれらを前に、さっと目を通しては、「冷や汗が出てくるな」と女房に言い、しかし捨て切れずに、今度は私関係の物を置いている押入れに、入れ込むのだった。
“もうしばらくしたら、一度、点検して、それから処分しよう”。その押入れには、主としてこれまで私がフリーの仕事で関わった印刷関連物が乱雑に詰め込まれていて、それらの断舎離の一環で、その時にこの過去の新規参入者も併せて、と考えたからに他ならない。
そこで、処分し切れずに残したい、と思うものについては保存し、その理由を体系的に整理して書き置くこともいいかな、等と、将来の断舎離につながりかねない新たなる制作物を考えたりしてのことでもあった。
「私の小学校の成績表まで出てきたわよ。お母さんがここで一緒に住むということで、捨てられずに田舎から持って来たんだと思う」。いよいよ撤去作業がカウントダウンに差しかかっている直近では、女房がまた、”そこまでのもの”を見せつけられてさすがに複雑な気持ちになっている。
捨てるに際して、これは、と思うものは写真に撮り、アーカイブとして残しておくことを考え、実行している女房だが、果たしてこの成績表はどうするのか。かつて小学校の教師だった母親には「ありがたいことだ」と感謝しているらしいが、なぜか捨てることも写真に収めることも躊躇っているのだ。
私にしても、ここ半世紀近くも無縁だった、しかしながら貴重な“冷や汗の過去”を思い出さされて、明日、後期高齢者目前の74歳を迎えるに際し、断舎離の困難さを改めて実感しているところなのであり、つまるところこれが今年のタスクで言いたいテーマとなった。
(シャープ)ブンゴウ