ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

74歳

2021年09月20日 10時59分14秒 | 日記
この21日の誕生日で74歳になる。例年、この日〈前後〉には本ブログを更新していることから、今年も自らに課したタスク感に駆られ、では、今年は何を書くべきか。定まらないままに入力に入る。

私が現在地に越して来たのが、下の息子が生まれる前年の昭和52年10月。実に44年前のことになり、私、女房、女房の両親、それに上の娘、そして胎内の息子、計6人が当時の同居家族であった。

入居と同時に、おそらく日常的には使わないが、さりとて捨てることも出来ない各人の持ち物(アルバム、小物類、等々)を収納すべく、物置を1つ置いた。

そして、下の子が生まれ、5歳上の娘ともども、幼稚園、小学校、中学校と成長するに連れ、二人が使ってきて、しかし捨てるに忍びなかったのだろう、Tシャツなどの衣類や、バッグ、靴などの履物、野球グローブ、帽子、おもちゃ、絵本、ノート、参考書、等々をも入れ込むようになり、いつの間にか当初1つだったのが、大小の2つが増え、3つ並んで建つようになっていたのである。

管理は、下の子が生まれるのを契機に同居することになった女房の母親(10年ほど前に亡くなっている)の、専ら役割だったが、共働きだった我々夫婦に代わって、2人の子供の子育てを担当してくれたということもあって、その成長の証しとして捨て難く、蓄積していったとも思われる。

かれこれ半年前のことになる。「裏の物置、底が抜けて傾いている。台風なんかがきて倒れたりしたら大変だから、撤去したい」と女房が言ってきた。「今度、植木屋さんに相談してみる」とも。

「植木屋さん」は、ここ10数年来、年に何回か、庭の草刈りや、樹木の整備に定期的に入ってもらっているYさんだ。我々より若干年下だが、年代的には同じようなもので、目下、独り身。女房は話し好きで面倒見のいいこのYさんに、庭木周辺だけでなく、雨樋の修理など、家回り全般のことも相談しているのだ。

「この秋口を目途に、中の物をきれいに処分して、撤去しよう。捨てる物は、ごみの収集日に、何度かに分けて出して、徐々に減らしていけばいい」。ほぼ3カ月前(6月)、この時は庭木の消毒にやってきたYさんにそう言われたらしかった。

〈物置、解体への道〉。そう銘打った女房の、物置の前記のような中身の撤去がそこから始まった。ある種、断舎離でもあって、いざ始めてみると、女房はその物量の多さと一つひとつの点検に、ため息を吐き続けた。見かねて私も、「手伝おうか」と、一度だけ、その処分の現場に立ったことがある。

だが、入れられていたのは、女房の両親の物や、それに子供たちの物、そして女房の教師をしていた頃の学校教材等々に関するものが殆ど。私自身は処分検討の選択に全く関与出来ず、そこからは早々に退散しなければならなかった。

そして、その「解体」期限が今月末に迫り、処分は8~9割方済んだと思われるここ10日ほど前くらいから、女房が、「これを見て、適当に処分して」と、私関連の持ち物を運んでくるようになった。

高校時代の日記、大学時代の作文、成績表、旅の絵葉書、…、“えっ、こんなものまで残していた?”―自分では一切記憶のないそれらを前に、さっと目を通しては、「冷や汗が出てくるな」と女房に言い、しかし捨て切れずに、今度は私関係の物を置いている押入れに、入れ込むのだった。

“もうしばらくしたら、一度、点検して、それから処分しよう”。その押入れには、主としてこれまで私がフリーの仕事で関わった印刷関連物が乱雑に詰め込まれていて、それらの断舎離の一環で、その時にこの過去の新規参入者も併せて、と考えたからに他ならない。

そこで、処分し切れずに残したい、と思うものについては保存し、その理由を体系的に整理して書き置くこともいいかな、等と、将来の断舎離につながりかねない新たなる制作物を考えたりしてのことでもあった。

「私の小学校の成績表まで出てきたわよ。お母さんがここで一緒に住むということで、捨てられずに田舎から持って来たんだと思う」。いよいよ撤去作業がカウントダウンに差しかかっている直近では、女房がまた、”そこまでのもの”を見せつけられてさすがに複雑な気持ちになっている。

捨てるに際して、これは、と思うものは写真に撮り、アーカイブとして残しておくことを考え、実行している女房だが、果たしてこの成績表はどうするのか。かつて小学校の教師だった母親には「ありがたいことだ」と感謝しているらしいが、なぜか捨てることも写真に収めることも躊躇っているのだ。

私にしても、ここ半世紀近くも無縁だった、しかしながら貴重な“冷や汗の過去”を思い出さされて、明日、後期高齢者目前の74歳を迎えるに際し、断舎離の困難さを改めて実感しているところなのであり、つまるところこれが今年のタスクで言いたいテーマとなった。

(シャープ)ブンゴウ

8月(R3.8.1記)

2021年08月02日 11時15分15秒 | 日記
今日から8月だ。1年の後半に入って1カ月も過ぎてしまっている。コロナ禍は第5次が押し寄せ、東京の新規感染者は、昨日(31日)、『過去最多の4058人だった。1日で4千人を超えたのは初めてで、3千人超は4日連続となった』という新聞報道に、背筋が凍りつき、唖然とする。

他方で、目下開催中の東京オリンピック。印象として、新聞1面では控えめな報道ながら、いざ、スポーツ欄を開くと、連日の日本勢のメダル獲得(金メダルは現時点で史上最多を上回っているという)に湧いている。

特に私の定期購読しているA新聞などは、確か開幕1月ぐらい前には、社説で「オリンピック中止」を掲げ、それが社内的に、オリンピックの公式スポンサーとなっている同社経営陣をはじめ、現場のスポーツ記者などからの猛反発があったとかで、新聞社内の混乱がそのまま紙面に出ているかのような感じでもあり、これまた唖然とするのだ。

正直、長年の読者である私などにとっては、これは堪らない。まして、この混乱の中で、最早、これまで一極にあった「中止」を求める論調が消え、ひたすら「無事終えることを願う」方向に変質したのは許せない。

この変容ぶりに大手ジャーナリムとは言え、所詮商業紙という限界を、改めて見せつけられるような思いだし、かと言って、では、A紙はもう購読をやめるか、と言おうにも、他に代わる媒体がない。

それは、数次に亘る、コロナ緊急事態宣言発出の首相会見のテレビ報道を見ても明らかだ。どうやら内閣記者クラブとかの同業者連盟があって、会見は、内閣府との間で、質問に関する様々な要件を擦り合わせる中で成立するようではあるらしいのだが、如何に首相の答えがピント外れで、人を食ったよう内容でもそれを糺そうとしない。(もっともそれをすると、次回会見からは弾き出され、それを記者クラブ側も容認しているらしい。そんな報道人で作られる媒体のどこに魅力があるのか。)

結果、ここでは視聴者である我々(少なくとも私)にもたらされるのは、言葉がそれとして交わらず、機能せず、空疎な権力の実相を隔靴掻痒の思いで見るしか出来ないことでの空しさばかりである。

あともう一つ。そんなジャーナリズム環境に身を置く記者連の、そんな縛りを払拭するような、かつては存在したらしい記者魂やら反骨精神の劣化ぶりが目に余る。

そうである以上、真の言葉の伝達者足り得ず、それどころか、のっぺらぼうで無表情、それでいて変な野心だけは臆面もなく隠そうとしない、かの御仁の不遜さを冗長させるばかりだろう。

何とも味気なく過ぎ去ってしまった7月への哀惜も込め、どこへも向かわせようのない鬱積した今の憤懣を、ひとまずマスコミ、とりわけ、現状A新聞に対して放ち、引き続き味気無く送らなければならなくなりそうな8月を、辛うじて気を取り直して過ごそうと思っている。

(シャープ)ブンゴウ

ワクチン接種

2021年06月26日 15時16分40秒 | 日記
昨日(25日)、待望の? 新型コロナの第1回目ワクチン接種を受けた。ファイザー社製のものらしい。

ただ、何社製とかと言っても、こちらに選択の余地はないからして、所詮、詮無い話ではある。そしてよしんば選び得るとしても、どの社のものがどんなだ、と明確な知識を持っているわけでもなく、猫に小判状態であることには変わりはないのだが…。

それでも、何故か早くワクチン注射は打っておきたいと心は逸っていた。中で、あえて打たない、今は出なくても、将来に亘ってどのような副反応が出るか分からないし、それが怖いから、といった世の中の慎重論を耳にするにつけ、過去に起こった製薬剤の悲劇等を思い、なるほど、そういう考えもあるな、と妙に納得しながらも、しかし接種券の一日も早く届くのを待ちわびていたのだったが、今月2日午前中、女房の分と2通、間違いなく市役所から送られてきた。

その日、昼過ぎ、外出から戻った4時以降、待機していた女房と、慌ただしく接種予約のアプローチに入る。少々緩和されてきたとは言え、まだまだ、電話を何度かけてもつながらない、ネット予約もスムーズに運ばない、というニュースが溢れていたことから、長期戦になる覚悟を持って、である。

両面作戦に出た。即ち、私がパソコン、女房が電話に向かったのだ。同時に、4時20分頃から着手した。

まずは、私のパソコンが順調に滑り出し、接種券番号をはじめ、属性入力を済ませた後、接種会場を選び、接種日時を選択、予約…しようとしたところで、そこから前に進まない。「次へ」がパタッと止まってしまったのだ。

この状況を女房に伝えようと、様子を窺ったところ、彼女も「続けて10回ぐらいかけているのに、ずっと電話中」と苦戦の模様を伝えてくる。

これを受け私は、再度、一から入力し始めたのだった…が、しかし、事情は前と一緒、肝心の予約日時のステップに入ろうにも入れないのだ。開始してから優に20分は経っていた。

4時50分。「やっと通じた」。女房が受話器で何やら話している間隙を縫って、私に声をかけてきた。そして、パソコンの前に座っている私の傍まで来ると、一旦受話器を耳から離し、「これから、二人分申し込めるかどうか、言ってみる」と言い、その場で申し込みを始めたのだった。

約、5分くらいのやり取り。「親切な女性だったわ」と、無事二人分の予約が取れたこと、当日の受付手順の説明を受けたこと、等々を、電話相手への感想と共に、晴れ晴れとした表情で言って来た。

その表情は、女房にしてもかなりの覚悟を持って臨んだはずであり、それが意外にも、こんなに早く予約できるとは思わなかった、ラッキー! といったような達成感に包まれているようでもあった。

これで一安心…、私も深く安堵したのは無論である。するとどうだ。女房の電話予約が終わって1分と経たない4時56分、私のパソコンに、「予約受け付けました」との市からのメール配信が入ったのだ。“最後まで入力できず、送付した覚えがないのに何故?”。

軽い疑問が残ったが、「受け付けた」と連絡してきた会場、日時が、女房が申し込んだものと合致していたので、メールの返信が届いたからくりが依然分からないままに、由とした。

実は、この市からのメール配信は、接種日の前日(24日)の夕方、「再確認」としても送られてきて、何と親切な、と思いつつも愈々そのからくりが分からず、不思議だな、との感懐をさらに抱きながら、さて、25日の接種日である。

3時からの接種、その15分前には会場へ、と女房が電話の段階で言われていたことを遵守すべく、今回、接種会場への送迎を買って出てくれた近くに住む娘が、2時過ぎ、家まで迎えに来てくれたその車に飛び乗り、会場に着いたのが2時半。

2時45分になると、通告通り〈3時接種予定〉の紙が張り出され、その前に該当する人達が列を作り始め、我々もそこに並んだ。

2時50分にはその列が動き出し、順次、受け付け(接種券と本人確認証明・保険証を提示)、予診票確認(既往症等について予め自己申告、その内容確認)、予診前診断(体温計測・36.7度)、予診(医師立会い・常備薬確認→血液サラサラ薬服用=注射後2分、しっかり押さえておくこと)、等々を経巡り、いざワクチン接種、となるのだった。

ここまで、一連の流れはスムーズで、しかし10分程度費やしている。そして、ワクチン「打ち手」(中年の女性)の前に座ったのが3時前。

名前は? アルコールアレルギーは? など訊かれた後、「ではここを消毒します」と左腕の筋肉外側部分をアルコールガーゼで拭き、「少しだけチクッとします」と言いながら、注射針を指し込んできたのである。

「ハイ、終わりです。打ったところをあまりこすらないように」。確かに“チク”っとした感覚は残った。だが、それだけ。時間にすると僅か数秒。あれほど接種券の届くのを待ちわび、予約申し込みでも大いに気を揉まされた割には、これだけか! と、その呆気なさには、逆に物足らなさを覚えたほどだ。

その後は、注射針の当てられた部位を必死で抑え、「状態観察」のためのコーナーの椅子に15分留め置かれ、次回、2回目の接種(7月16日)確認を受け、終了した。3時15分過ぎである。

帰りの車中、娘は頻りに副反応がないか、訊いてきたが、2人共に異常無し。

私には無事打ち終えたことでの解放感もさることながら、あの終了までの10分強、それこそ各段階での手続き、人流がスムーズにいっていることの下支え、医師か看護師か、はたまた市の職員か、それらの人達のてきぱきと動き、それれでいて“おもてなし”精神よろしい親切、丁寧な接種来場者への応接振りが、妙に思い返されて、気持ちを明るくさせてくれていた。

一夜明けた今日。女房は依然として何ともないと言い、私は、注射を打ったその箇所が、触ったり、力を入れたりすると少々痛む。重大な副反応とまでは言えないが、女房からは「それだけ若いんだわ」と言われ、私的には“やはり打ったのが利き腕でなくてよかった”と思ったりしている。

副反応は2回目の方が大きい、と言われている。さて、次はどうなるのか。

(シャープ)ブンゴウ

2021年05月23日 17時23分04秒 | 日記
昨夕(22日夕)、実に5日ぶりの散歩に出た。沖縄、九州、四国などに続き、近畿地方も今月中旬、平年よりも約3週間も早いという速さで梅雨入りし、その天気図さながらにここ数日間、断続的に雨が降り、散歩がままならなかったのである。

勢い、この間、家から外に出たのは1昨日(21日・金)、定期的な血液検査、採血のためにかかりつけのA診療所を訪れた半日の2時間のみ。後は1歩も出ることなく、日中、起きている時間は殆どパソコンの前に座っていた。昨年8月から着手している、知人Oさんの自分史、その執筆に携わっていたからに他ならない。

この自分史、取材の8割方を済ませ、あと2割の取材が残っている状態ながら、並行して執筆に取り掛かっているのだ。残る分は、その進捗に合わせ、適宜その時間を入れていく、というOさんとの現段階での協議に基づいている。

執筆にはほぼ2カ月前から取り組み始めたのだが、思った以上に苦戦を強いられている。取材の中身が、ある程度時系列を踏まえつつも、時に本筋を外れ枝葉に入るや、そこでの話が盛り上がり、結果、時制が入り乱れる、といったことが、ある程度想定内のことではあったにせよ、避けられずに来て、しかしこれは、決して否定すべきことではなく、出来上がる本の内容の膨らみを考えればむしろ歓迎すべきことなのだが、いざ、それらを文章化する、1つのストーリーの中に関係付けていこうとすれば、織り込み済みのことながら、結構手強く、時間を必要とするのだ。

Oさんも、その辺のことについては理解を示してくれている。いい本にするために、「ぼちぼちやって行きましょう」と言ってくれ、当初、発行予定だった来年3月、が、それはたとえずれ込んでも「いい本になるのなら、それはそれでいい、僕もまだ元気だから」という考えでいてくれる。

現在の執筆状況は、全体の1割~1.5割という辺りか。文章のボリュームも当初想定の倍、場合によっては1冊にまとまり切れず、分冊になる可能性も出て来た。

つまりは、そうした可能性も見据える文章作成はかなりの集中力を必要とし、これに加え、この間の散歩を妨げる雨がストレスとなって、正直バイオリズムは停滞状態にあり、昨夕はこんな心理状態での散歩となったのだった。

朝から雨が降ったり止んだり、時折り、薄日が射したりもした昨日。“今日もダメか”と思った夕方5時半頃には、一時、小康状態を保つ状態となっている。“どうしようか…”。“執筆”の方も、作日の区切りまでには到達しておらず、ということもあり、迷ったが、4日間散歩無しのストレスを憂える自分が命じてきた。“今日は大丈夫だ、出でよ”。

かかる次第で、いつもの散歩の時間より15分ぐらい遅れの、5時48分に家を出た。「傘、持って行った方がいいよ」と、その私に女房が忠告してくる。

出て10分ぐらい、女房が案じた通り霧雨が降り出した。無視できないこともなかったが持参した傘を広げる。すると、この4日間、忘れていた腰痛、特に脚に痺れを感じ出し、いつもの散歩の時の負の側面が戻ってきていることを自覚するのである。

30分ぐらいが経過した。その頃には霧雨は止み、西の方角は雲が切れ、僅かに青空が覗いている。無論、傘は畳んで、そしてその時までには、高台にある養護学校、その並びに開発されたヒルズ住宅を経、そこから通りを伝って三方が見渡せる公園に至り、なお、自分の住宅地内を巡ろうとする、いつもの散歩コースのちょうど真ん中辺にいた。

その真ん中辺の車道と並行して走る歩道、前方15mぐらいの距離に、子供を間に挟んで2人の女性の姿があり、何やら立ち止まって語り合っている。子供は2歳ぐらいの女の子、髪が長く、縮れている風でもあり、異国の子供のようにも見えた。

10mぐらい先に近づくと、その子は日本人とはっきりしたが、手をつながれ、何やら私に向かって話しかけている風でもある。つないでいる女性はマスク越しながらおばあちゃんのようだ。傍らで空を見上げ、何やらその二人に話しかけている女性がお母さんらしくもあり、つまりは3世代による、私と同様、散歩の途中と思われた。

3人の傍まで来て、“やはりそうだった”と確信した。そしてそのまま通り過ぎようとしたところに、孫の手を引いたお祖母ちゃんが、待ち構えていたように「虹ですよ」と声をかけてきたのだ。

「きれいですね」。私は思わず振り返って空を見上げ、即座に答えた。

途端、「ひゃひゃひゃ」と、お祖母ちゃんに手を引かれた女の子がその手にもたれかかるようにして身をよじり、歓声を上げながら、だが恥ずかしげな仕種も作って私に目を向けてきたのである。

“3歳ぐらいかな”。私は、昨年11月、東京にいる息子夫婦に生まれ、しかしコロナのために面会することが未だ出来ず、息子の嫁が送ってくるラインでしかお目にかかれていない、1歳半になる孫娘を思い浮かべながら思った。

瞬間、「きれいだね」、私は、2度目、今度はその子に向かって言っていた。すると、その子は「2つ」と返してきたのだ。

咄嗟のことでその意味が分からず、しかし、傍で、笑顔でそんな彼女を見守るお祖母ちゃんと、そして母親に気兼ねし、「あ、そう」とだけ、女に子に返し、足早にその場を去った。

遠ざかる私の背中に、「2つ」、もう1度、そう呼びかけるように発している彼女の声が聞こえてきた。

そこから私は、住宅地内に入り、その端にある公園に達する。そこが散歩コースのほぼ最終地点に当たり、そこのベンチで仕上げのストレッチをするのが常だ。そして、昨日の頭の中には、先刻、15分ぐらい前に遭った3世代、とりわけ女の子の表情が抜けずにあった。

ベンチに座り、例によってまず左側の脚を右脚の上で交叉させ、膝をもって胸に近づける。そのまま約25秒…、を維持しようとして空を見上げた。すると、西の方角にはさらに青空が広がり、夕陽が射している。時計を見れば6時45分、ここ数日、見ることの出来なかった夕景でもあった。

東の方に目を移す。と、あそこからはしばらく経っているのにも拘わらず、虹がまだ張り出している!。そして、比較的はっきりと描かれている赤青の交じる太線に僅かに離れて並び、これはその1本よりも少し薄めながら、何と、さっきは全然気付かなかったもう一条の太線が、雲に途切れながらも半円を描いているではないか!!。

“ああ、これを言っていたのか”。ここで私は初めて、女の子が「2つ」と言った意味を理解し、15m先を歩いてくる私に、そして見送ってからも、一旦私が虹に気付き、「きれいだね」と反応したことには満足しつつも、そのことをどうしても伝えたかったのだ、と、思い至ったのである。

虹と、そして女の子とのやり取りで、ストレッチでのいつも感じる身体の重さは殆ど忘れていた。さらにあのバイオリズムからも、いっとき解放された気分になっていた。

ただ、「たしかに2つだね」…女の子に言ってやれなかった後悔が澱のように残った。

(シャープ)ブンゴウ

ライバル喪失

2021年04月06日 16時00分19秒 | 日記
先月、3月末日を以て満6年に亘った某A新聞の読者モニターを終えた。以前、本ブログで紹介したことがあったが、土日と休日を除く毎日、当日の朝刊と前日の夕刊の中から、モニタリングする記事を1本選び、およそ300字ぐらいの文章にまとめ、当日の午前11時までに新聞社の係までネットで送付するという決まりだった。

特に報酬はなく、ただ、送付したモニタリングが採択された分(これは毎日、新聞社内の記者連に開示していたらしい)について、500円の図書カードを送ってくるというもので、始める時点での納得事項ではあった。

それとして確認したわけではないが、モニター期間は原則1期・6カ月だけれども更新継続も可(これによって私は8期・6年に及んだわけだった)で、ここから類推してモニターの人員は総数300人、400人、あるいは500人くらいに上るのか。採用は、この人らによって寄せられる文章の中から、1日、数件に絞られた。

その日の夕方前の3時前後、係から、その日採用された分の文章を送ってくる。これを、試験の回答用紙を見るようで楽しみだ、という感想を係に送ったモニターもいたようだが、私もまたそのうちの一人ではあったのだ。

着信時間の前後幅は30分から40分あり、その日によって異なるから、3時前後、そろそろとなると、他のパソコン作業をしながらでもメールの着信が気になり出す。

そしてある時点から、その幅の前の方の時間(2時半頃)に届けば採用、後ろの方のそれ(3時過ぎ)だったら不採用、という法則性のあることが何となく感じられ出し(たまたま私の分の採用がその時間帯が多く思われただけで、別にそういうシステムにはなってなかったのかもしれないが)、着信の時間でそこを開ける前にその日の結果を予測したものであった。

そんなある種昂揚を覚える中でメールを開き、結果的に私の採用された分は6年間を通じ、週に平均して1回、月にすると4~5回程度だったように思われる。

そしてこの採用には、どこの世界でも同じように常連が出てきていた。週に何回採用を以て、常連と呼ぶのか、私の場合はそうと呼べるのか、その辺は定かではないが、私が常連と思えた人たちは、少なくとも私と同程度か、あるいはそれ以上の採用をものにしていたはずである。

その常連、6年間の直近で印象に残るのは、例えば「北海道・女性・40代/主婦」(採用分の文章はこうした肩書きの下に紹介された)だったり、「千葉・男性・50代/会社員」、「東京・女性・50代/会社員」、「東京・男性・50代・無職」、「埼玉・男性・60代・無職」、「神奈川・男性・70代・無職」だったりした。

さらには、6年間の前半の部分では、「兵庫・男性・60代/無職」、「兵庫・男性・60代/農業」といった肩書きも忘れ難く、この2人を含む総てのライバルモニターからは、その採用回数と言い、肝心のモニタリングの切れ味と言い、十分に引き寄せられるものがあった。

そして、この6年間を通じては、「岐阜・男性・70代・無職」と「茨城・男性・70代・無職」の2つが私には突出していた。「60代」から出発し、途中から「70代」になった私とは異なり、お二人とも最初から「70代」を名乗っていたことから、多分私よりは年上には違いなかったが、中でも前者からは、私のモニタリングの視点とかなり似通う部分がある、と感じさせられるものが多々あった。

いずれにせよ、同じ70代、しかもモニター期間も重なるということが、私をして、殊更にお二人をライバル視させたのかもしれなかったのだが…。

本来は、確か3年前、モニターの継続は原則廃止とされ、その時点で終了となるはずだった。だが、「生活の一部になっている」「ボケ防止の役に立っている」等々の意見と共に、継続を熱望する声が多くあったとかで、方針を撤回し、改めて継続希望者を受け付けるという、再度の連絡があったのは、最初のそれから2週間後ぐらいのことだった。ひょっとしたら、このお二人なんかはその急先鋒に立って、継続を要望されたのかもしれない。

このライバル二人には、私の場合もそうだったが、時に2週間以上も採用された文章を見ることがないこともあって、自分の身に引き付け、ひょっとして病気か?と案じたり。受け取った図書券はまとめておいて、「孫の正月のお年玉にした」といった声も係には寄せられていたらしく、それには自分もそうだと我が意を得たりと思ったのと同時に、お二人もそうではないのか、と想像を馳せたりもしたものだ。

6年間、私にとっても「生活の一部」であり、「ボケ防止」に確かになっていたモニタリングが終わる。と同時に、実際には会ったことはないが、いいライバルだった人達、とりわけそのお二人への思いも消滅することになるわけだ。

未だどこか遠い意識ながら、しかし確実に抜け難くある“終活”の1つを、長かった朝のルーティンから逃れてホッとする気持ちのすると共に、今またやり終えた思いはある。

一方では、その採用、不採用に強い拘りをみせ、“ライバル”をまで作り上げる自分の性に、いつまで経っても、というか、この期に及んでも、さらにまたは、こんなところにおいても、完全に大人になり切れない、根っからの己の度し難い団塊の業をみるようで、忸怩たる思いもあるのだ。

さはさりながら、それに倍してこのライバル喪失が何とも寂しく感じられてならないのを、どうにも制御出来ずにいる。

(シャープ)ブンゴウ