ひょうたん酒場のひとりごと

ひょうたん島独立国/島民のひとりごとをブログで。

イチローさん

2009年10月23日 15時27分33秒 | 日記
築後30年余を数える我が家が、段階的に内装リニューアルに入っている。

それは7月下旬、1階と2階のトイレ部分から始まった。以降、門扉とガレージの開閉扉を交換し、キッチンの壁張替えと食卓テーブルセットの交換、応接セットの交換へと進んでいくのだが、その間には、積もり積もった大型ゴミよろしく、どうやら捨てるに捨てられず、女房が置いていた風な、二人の子供達の使った教科書とか絵本、おもちゃ類、あるいは数回使用したのみの健康器具とか、どこにこんなにあったのかと思うようなグラス・茶器類、ほんの1時期稼動したに過ぎない卓球台等々、家族の30年に及ぶ生活の残滓(軽トラックに3台分)を引き取ってもらったりもしている。

また、夏の終わりには、伸び放題にしていた庭の草木を一斉に散髪。それまで肩くらいまであった髪を五分刈りにした感じですっきりと手入れしてもらい、極めつけは、若干家が傾き加減だったということのようだが、それによって建て付けの悪かった居間のガラス戸の滑りをよくしてもらったりもしている。

特にガラス戸は、ここ数年、それの開け閉めに苦労してきただけに、復旧の喜びは一入。これなら何故もっと早く相談しなかったのか、と後悔の念も混じるほどだったのだが、それ以上に、この家にまだまだ住んでみるのもいいのかもしれない、といった新たなる希望が湧いてきたのも確かであった。家人はいざしらず、少なくとも私はこの一事をもって、最近は、“最早、30年を越えた我が家はこれまでか”の方向に傾く心の振幅が大きくなっていたのだ。事実、宅地開発で同時期に住み始めた周りの住宅では、全面建替え・新築がやたら目立つようになってきているのである。

ところで、このリニューアルで発注した業者に、応接セットと食卓セットの購入以外は、上記の懸案事項を総てお願いすることができた。この間の一連の修理・修繕を主導してきた女房が、「地元の業者に依頼したい」ということで電話帳を調べ上げ、2~3の候補先から選択させてもらった業者さんである。本業が、壁の塗り変えなどの内装分野ということだったが、それ以外でも、例えば庭木の手入れなどは、自分達のネットワークでもっている造園業者を紹介してくれ(従来我が家に年1回入ってもらっていた植木屋さんは高齢のため昨年末をもって引退、新たにやっていただける方を探さなければならないと思っていた矢先だった)、また、門扉の取替えや大型ゴミの回収にしても、そういう形で築いているルートを動かすことで請け負ってくれたのだった。

業者の担当者はコンドウ・イチローさん(40歳前後)と言った。私は直接名刺を見たわけではないので、その辺の事情がよく分からなかったのだが、女房が、“名刺に大きくイチローと印刷してあったわよ”と言うので、女房との間では“イチローさん”と彼のことを呼び合った。かのイチローを意識してのことだったのだろう。

修繕期間中のある時、インターホーン越しに「コンドウです」と言ってきたことがある。その時は女房がいなかったので、私が受話器に出た。けれど、誰か分からず、“また何か販売の勧誘員か”と勘違いし、「どちらのコンドウさん?」とつっけんどんに訊き返した。「キッチンの壁紙の見本をお持ちしたのですが」という返事が返ってきて、“ああ、イチローさんか”と納得し、急ぎ玄関のドアに向かったのだったが、これについては、後日女房が彼にこの顛末を話ししたとかで、それ以降、私が彼のインターホーンに出た時は、「イチローです」と言うようになったのは愛敬か。無骨な風貌に似合わず、可愛らしいのである。

いずれにせよ、仕事振りが丁寧なことと、何でも相談に乗ってくれるということで、女房の彼に対する評価は頗る高い。私にしても、ある種、“ワンストップ・マルチ展開”をしてくれるみたいで、今後、まだまだ修繕箇所が多く待ち受ける家回りについて、よき相談相手が出来たと喜んでいる。

「やっぱり、餅は餅屋、プロは上手にやるね。こちらであれこれ悩むより、全部任せるべきだな」。率直な私とそして女房の今回の感想であった。

そのイチローさんが独立するという。これまでのネットワークは全部従来通り活用できるらしい。快く前の会社からその了解を取り付けたようだった。一種の暖簾分けかとも思う。何はともあれ、現在のイチローさん流に仕事をやっていけば万事OKのはずだ。我々二人にとっての、かかりつけの町医者ならぬ、住まいのよろず治療請け負い職人さんの誕生に、まずは乾杯である。

(シャープ)ブンゴウ

サイクリング、ヤッホー!

2009年10月15日 17時19分52秒 | 日記
 京都に住むようになって7年になる。
 住み始めた頃は休日のたびにR子さんを伴って、寺社仏閣、古刹と観光ガイドブックを片手に巡り歩いた。春夏秋冬、心を誘惑する物見遊山のありかは尽きることなく、週半ばになると次の行き先に胸をワクワク、お尻をムズムズさせた。そうして出掛け、帰宅すると地図を開き、制覇した史跡を赤いサインペンで囲んで達成感にひたった。
 そんなある日、電車やバスで行動するより自転車のほうが自由度の高いことに気付いた。思いたったらじっとしておれないのがぼくの性分。早速、買い求めたのが中古のマウンテンバイク。いま、ぼくが愛用している“バックミンスター・フラー”、通称“バッキー”だ。この名は別段、メーカー名でもブランド名でもなく、我が家の一員になった証にぼくが勝手に付けた名前だ。R子さんに、「バックを見んと、スタートして、フラっと進むんやね」と、揶揄されたが、何を隠そうこの名は『宇宙船地球号』の著者のフルネームを借用しているのだ。ちなみに、R子さんが愛用しているのはママチャリで、その名は“リッチモンド”で通称“リッチー”。なにやらホテルの名前のようだが、R子さん曰く「リッチな世界」らしい。

 9月26日(土)晴れ。深夜から朝方まで「朝まで生テレビ」を観ていたおかげで、やはり起床は遅い。寝ぼけ眼をこすって窓のカーテンを開けるとすでに太陽は高い。庭ではバッキーとリッチーが今か今かとスタートを待ちあぐねている。午前11時30分、かねてから目標に定めていた長距離サイクリングに挑戦とペダルを踏みだした。
 コースは、「嵐山八幡木津・京都府自転車道」で、嵐山の渡月橋を渡り、南へ下るとサイクリングロードのスタート地点がある。そこから桂川沿いにどんどん南下していくと終着点の木津となる片道45.7キロの走行距離だ。しかし、スタート早々に考えた。最初のチャレンジにしてこの長距離の往復は無謀すぎると。ペダルを止めて緊急会議を開き、即座に目標変更の結論を出した。その結果、八幡市の岩清水八幡宮を往路の折り返し点に決定。予定をどんどん変更できるのも自転車の自由さ、そしてぼくの意思の軟弱さである。
 いつもながら、背中のリュックには7つ道具をしのばせて用意万端。R子さんの愛車リッチーの前カゴにはこれもいつもながらのおにぎり弁当が仕込まれている。

 桂川の堤に一直線の筋を引くサイクリングロードは、夏の名残りの熱を反射している。松尾大社を右にやり過ごして桂大橋までやってくると、すでに喉はからから。リュックで熱を帯びた背中は、Tシャツが汗を吸いこんでいる。ひとまず小休止と、バッキーをいたわりながら路肩に寄せる。そして半分凍らせたミネラルウォーターをがぶ飲みする。暑さにはタフなR子さんも、リッチーの前カゴのウーロン茶で喉を潤す。「なかなかいい感じやなぁ。桂川の流れと遠くの愛宕山の風景」と、悦に入るぼく。そうやねぇ、と頷きながら、「愛宕山の頂上がポコンと出てるのどうしてか知ってる?」と、頓知を出題するR子さん。「それは、何か落ちてきたたんこぶやろ」。ウーロン茶をもう一度口に含んでから、「昔々、比叡山と愛宕山が高さ比べで喧嘩をして、愛宕山がゲンコツで殴られたコブが正解。そのぶん高くなったわけ」と、くだらない解答でしたり顔。昨年、足腰が泣き出しそうな苦難の末に踏破した愛宕山の頂上が脳裏に浮かんだ。あのコブが、登頂の最後の最後でぼくを一層苦しめたのだ。

 バッキーもリッチーも軽快に走る。サイクリングロードの陽射しはきついが心地よい風もあり、すこぶる上機嫌でどんどん進んでいく。桂川の河川敷からは、少年野球やサッカーで駆け回る子どもたちの声がとどいてくる。ペダルも軽く名神高速道路を超え、♪サイクリング、サイクリング、ヤッホー、ヤッホー♪ と歌声も軽やかに進んでいくと、道に迷った。適当な下調べ、いい加減な地図持参の準備不足にたたられ、行く道を遮られた。ちょうどそこへ、名も知らぬ自転車野郎が颯爽と走ってきた。見るからにプロのサイクラーのごとく、自転車もコスチュームもぼくたちとは雲泥の差。よたよたと自転車野郎に近づき右手をあげ、制止を促して道をたずねた。
 つまり、この先は行き止まりで、東に方向を変えて天神川と鴨川を渡ってから南下するとのこと。エエッ! 鴨川を渡る?と、理解が不十分だったが納得したように笑顔で礼を言った。要するに、この先が桂川と鴨川の合流地点なのであった(走ってみて納得)。そして、さらにその先で桂川と宇治川と木津川の三川が合流し、淀川へと名を変える。

 およそ、2時間の走行時間を要して八幡市を目前にした背割堤(せわりてい)に到着。ここは1.4キロも桜のトンネルが続く花見に絶好の堤。緑濃い葉桜の影にシートを敷いてようやくおにぎり弁当の時間だ。朝から何も食べていない胃袋に極冷えのビールを流し込む。う~ん最高。最近少しだけ飲めるようになったR子さんもひと口飲んで、おいしい!と、道半ばの感激。あたりでは、バーベキューのセットを持ち込んだ家族が、子どもとはしゃぎながらうまそうに肉をほおばっている。風に乗ってここまで漂う肉の香りもいいが、ぼくはR子さんのおにぎり弁当が今は一番うまい。デザートにカステラを食べ、熱いブラックコーヒーをすすると過不足なき満足を得て、小さな幸せを感じる。

 背割堤から岩清水八幡宮まではほんの十数分で到着した。京阪電車の八幡駅前の自転車預かり所に1台500円を払ってバッキーとリッチーを預け、ケーブルカーで頂上に向かう。標高143メートルの低い山だが、見晴らしはなかなかのもので、展望台の望遠鏡からは三川合流が目の中を流れる。岩清水八幡宮さまに無事到着したことを報告して帰路の安全を祈願し、下山は緑陰の下をそぞろ歩いた。そして、門前の一の鳥居のそばに佇む情緒溢れる茶屋「走井餅老舗」で一息いれた。この茶屋は、大津宿名物走井餅で有名な和菓子店。240年前に大津で暖簾をかけ、この地には明治43年に移転。歌川広重の錦絵「東海道五十三次」にも描かれているほどの老舗だ。R子さんは早速、お土産に「走井餅」を買い込み、ぼくはミルクかき氷の甘さにうっとりとする。それよりなにより、店の中の床几の上にポットで用意されていた番茶のうまかったこと。ぼくもR子さんも駆けつけ3杯した。

 帰路は疲れた。お互いに往路ほど口数も多くなかった。道には迷わなかった。陽が沈むまでには帰宅したかったが、自宅の前に着いた時はとっぷりと暮れていた。バッキーとリッチーも疲れていたようだ。後の楽しみは、地図を開いて渡月橋のスタート地点から折り返しの岩清水八幡宮までの道のりを、思い出しながらウイスキーの水割りを飲むこと。しかし、その夜は夕食を終えるとそんな元気もなくマグロのようになって寝てしまった。

From イットウカ

USJ

2009年10月13日 14時45分50秒 | 日記
10月の初旬(4日)に、娘夫婦一家(夫婦+小5男子・小3女子)と我々夫婦とで、1日、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に遊んだ。私以外は全員これが初めてである。私はオープニングの時(ということはかれこれ14~15年前)、マスコミ関係者へのプレビューで1度だけ体験している。

特に火や水を有効に使い、飛行機までも飛ばさせてしまうリアルなアトラクション関係や、映画に題材を取った(ターミネーター)3D画面の迫力に、最初の時は驚き、賛嘆したものだったが、何故か“これは1度だけでいい、多分リピートはないだろう”と思ったのだった。

確かにエンターテインメントへの貪欲さという点においては、脱帽、敬服させられたのは間違いない。その時、かつて、ある映画の趣味人に、“ハリウッドの連中は、それが例えいかに荒唐無稽なものであっても、一旦映画製作となると全員必死、娯楽創りに真正面から取り組んでいる”というアメリカ人映画関係者の製作者魂みたいなものを聞かされたことがあったが、そういうものがここにもあるのかな、と彼のことばがダブったことを思い出す。

そして今回。考えてみれば、前回と同じようなショーを見て回っている。逆に言えば、目玉と言われる部分はそれぐらいしかなく、15年前とほとんど一緒、変わっていないのだ。新たには、15年前にはなかった(あったのかもしれなかったが私は見ていなかった)「バッグドラフト」というステージを、“恐怖の大火災をリアルに再現。炎の猛威を、肌で実感”とのキャッチに誘われ、覘いたりもしたのだったが、これまた壮大なスケール感があったのは確かだったけれど、落とし所は他のアトラクションと同様。何故か変わり映えがしない。

一つにアメリカ・ハリウッド映画の場合、シンプルな勧善懲悪の世界が描かれる、正義が悪に勝つというのがパターンであるという評は、よく耳にするところだ。そしてそうした発想が、この種アトラクションにも生きている。言えば、仕掛けの原理原則が同じように感じられてしまうというのはそういう意味合いにおいてである。

即ち、一度はステージで展開している劇中の緊迫感を観客に与え、それのクライマックスの瞬間には、客席や床を振動させることでステージとの一体感を醸成させて観客になお一層のサプライズ体験を喚起させる。つまり観客を劇中に誘う。

だが、このサービス原理は多くあるアトラクションの中で、一つだけなら希少価値性があろうというもの。それを同じように、(おそらく)すべてのアトラクションの原理にもってくるとなると、それはもう、最終的には“飽き”以外の何物でもない。

“もうリピートはないな”とかつて思い、今度もまたそのように感じてしまったのは、まさにその辺に原因があるのではなかったのか。

しかし、それがUSJのキャラといえばキャラだし、売りなのは間違いないところなのだろう。その基本を崩せば、最早USJではなくなってしまう。逆に、これで15年ももっているというのは、それで由とするリーピーター層がそれなりに存在する証しなのかもしれない、とも思う。

ところで、二人の孫達(こそっと言うが、実は私には孫がいる)。小5の男の子は、それなりにそうしたアトラクションを楽しんだようだったが、小3の女の子は、一つのステージだけで、後は幾ら勧めても観ようとはしなかった。あれほど、楽しみしていたのに、と少しばかり不思議に思ったけれど、どうやら、そのスケールと衝撃は彼女の想像以上のものだったようで、鑑賞はたった一つで十分らしかったのだ。明らかに負の感動に陥っていたのである。

そう言えば、兄の方にしても、楽しんだとは言っても、我が家に来た折に連れ出す、かの遊歩道の散策ほどには自由度がなく、二人ともに、そうした時の草木との戯れに生き生きとなるような感じを受け取れなかったのは私の思い過ごしだったか。

入場券のワンデイチケット(乗り物乗り放題)というやつが、大人5800円(×4)で、子供3900円(×2)。これだけで既に、我々庶民には少なくない出費だ。そして飲み物・弁当類は持ち込めないから、園内にある、90分食べ放題のレストラン(大人2380円(×4)・子供(1580円(×2))が魅力的に映る。それに私と娘婿の場合、アトラクションの合間にビール(大850円?(×2)&小500円?(×2))を飲んだり、孫達はコーラ(1本250円?(×2))が欲しくなったり、さらに女房と娘はソフトクリーム(?円(×2))がいいねと言い出し、そして最終的に、孫達がそれぞれの友達へのお土産(?円×合計8人分)を考えたりしたものだから、さて、本日の経費は総額いくらかかったものやら。

繰り返すことになるが、それは我々庶民には決して少なくない出費である。“リピートはないな”と思わす要因はこういうところにもあったのだと、これは現実的な生活感が言っていた。

(シャープ)ブンゴウ

里山

2009年10月02日 14時39分08秒 | 日記
9月中旬のことになるが、我らがNPOの協賛企業でもある某社に対して、1つの提案をなしている。ひとくちに言えば“里山を保護、育成するような事業展開をしませんか”といったものをだ。同時にそれは、当NPOが今後課題として取り込んでいきたいテーマでもあった。

今回提案の背景では、これまで本業部分での地域密着度が深く、さらに今後、事業を通じて地域貢献をなすという企業理念を明確にもった同社の意向を強く意識していた。結果、その機軸に、ある種今流行になっているとも言えるが、エコロジーを据えたのだった。これは同社の広報PR物の中に、断片的にこの問題に取り組んでいこうとしている姿勢が見え隠れしていたからでもある。

つまり、提案の要諦は、地域の里山、及び一定地域内のエコ農産物や有機栽培食物等、エコロジー関連の情報を発信することと、それに加えて、「道の駅」に似て、そうした地域の地場農産品や地域工芸技術のブランド品等の直売所を設けないか、というものである。そして、それをやがて、言うところの里山ネットワーク的なものに構築していくのはどうだろう、と。そうすることで、里山を保護・育成する基盤を作り、それを同社の地域貢献事業の柱としてはどうだろう、と。

このイメージを描く上では、先行する「エコツーリズム」(環境省)や「里山100選」(森林文化協会)のコンセプト、あるいは一般有力企業の植樹や緑化運動といったエコに関する企業メセナ的な動向なども、下支えになってくれた。

ところで、こうしたテーマは私自身、大いに関心がある。実は、かれこれ25年ぐらい前になるだろうか、以前勤めていた会社で、そうした題材を正面から取り上げる情報誌企画を立案したことがあったのだ。『ザ・いなか』というタイトルまで決めて商標登録をし、半ば以上企画も固まって、発刊寸前までいったのだったが、会社の諸般の事情で、結局、陽の目を見ることはなかったものである。

今回の企画立案中にはそのことを思い出していた。因みにその時の企画骨子は、“都会人に送る田舎情報”というのをサブタイトルにもっていったくらいで、まだ続いている高度成長下、都会人の余暇に田舎の自然に触れてみるのはどうですか、といった生活提案系の内容だった。同じ自然やエコロジーをネタにしているといっても、若干、現在の深刻度を増しているような状況とは違ったところで発想していたことは否めない。

ただ1点、この情報誌の実現した暁には、都市と田舎を交流させるという視点から、その頃既にかなり進んでいた、都市に人口が集中することでの反比例現象としての田舎の過疎化傾向の歯止めに少しでも役立てばいいとか、登校拒否や引きこもりの子供を対象にした山村留学などを取り上げて、人間性回復にも寄与できる媒体にしようといったような、ごく一部であったにせよ、社会的に果たすべき役割部分をどこかで意識していたのは確かだったのである。

繰り返すことになるが、それは、現在の地球規模で押し寄せてきている自然破壊や温暖化による生態系の危機という次元の問題と比べると、まだまだいかにものどかだったのは事実だろう。だが、従って、今日ここまで拡大することになる問題の核心はある意味、その時点でも無意識裡にも捉えていたのではないかとは思う。即ち、あの情報誌が出ていれば、例えば、今は限界集落とまで名付けられるに至った過疎化をいかほどかは食い止めることが出来たのではなかったか。そしてそれが出来ているということは少なくもそこに人が住み、まさに里山として残り、自然と、地域の固有の伝統文化とが息づいていることなのだ、と。あるいは、山村留学などを通じて、必ずしもそればかりでないだろうが、自然との触れ合いによって子供が立ち直り、人間性を回復していくといったケースを発信することで、今見るような青少年の凶悪な犯罪や行き場のない疎外を多少なりとも防ぐことが出来たのではなかったか、とか。

結局、今回の提案は、即実現ということにはならなかった。が、但し同社には、そうしたエコロジー問題に、個人的に、かつボランティアとして関わっている社員が少なからずいるという。

「そういう社員達と、あなたたちNPOとの間で勉強会みたいなものを定期的に開いていってみてはどうだろうか。」

これが現段階での同社(社長)の見解であった。「そうした中で、実際に動いて、各種エコ実践現場とさらなるパイプをつないで、そうすることで何らかの事業化の方向も見えてくるかもしれない」と言うのである。

今や、大局的にみて言えることは、自然を巡る議論は、私に流れた25年間でも隔世の感があるくらいに変化し、深刻度を増しているのだし、25年前とは比べようもないほどの重い課題になっている。この勉強会(連絡会)が今後どうなっていくのかはまだまだ不透明であるけれども、個人的には、仮に実現すればあの時実現できなかった問題への復活折衝みたいな取組みになるかもしれないと期待している。

それが、いずれ、もっともっと多くの人を巻き込んで、たくさんの叡智を仰ぐ、そんな呼びかけが出来る動きになっていければいいな、とも。

(シャープ)ブンゴウ