映画『パンドラの匣』ナント三大陸映画祭2009 特別招待上映決定
シネマヴェーラ渋谷の「洞口依子映画祭」(*1)で生の洞口依子を拝んで以来、にわか洞口ファンになってしまった私は、洞口依子最新作ということで、今週、『パンドラの匣』(原作:太宰治・監督:冨永昌敬)を観てきました。
本作については、川上未映子を役者として起用したことが一つの懸念材料でありましたが(笑)、観た印象としては、かなり成功していたように思えます。川上未映子が演じた「竹さん」は、原作と異なり、新入りの看護師として描かれているので、川上未映子が本来的に有している一種の「異形」感が活きていました。本作は、原作通り、このような竹さんと主人公ひばり、そして若い看護師マア坊の三角関係を軸に推移するわけですが、本作では上記の通り、ひばり以外に竹さんも客人的なので、三角関係の趣は少し変化しています。もっとも、仲里依紗がマア坊をかなり好演していたので、上記の三角関係は原作とは違う形で均衡を保っていました。
冨永監督としては、竹さんを美人の女性教師、マア坊を可愛い女生徒と見立てて、『パンドラの匣』を学園ドラマとして描きたかったようです(*2)。ギターを弾く竹さんを囲んで看護師たちが歌う場面などはそうした解釈の具現化といえます。このときに歌われる歌は、原作にはタイトルしか出てこない「オルレアンの少女」ですが、曲の明るさに反してさりげなく好戦的な歌詞(*3)が付けられているところに時代性を感じます。「戦後の少年小説・少女小説では、回復が目指されるべき〈秩序〉…が『大日本帝国』から『世界平和』に変わったことがあっても、…『〈理想〉の実現を媒介とする〈秩序回復〉』という物語構造には、まったく変化がなかった」(*4)そうですから、本作の舞台である終戦直後であれば、若い看護師たちはこのような歌にも親しんでいたのでしょう。太宰自身も「オルレアンの~」などというタイトルにしたからには、おそらくこのような歌を想定していたものと思われます。
本作に対しては、結核患者の集まりであるにもかかわらず結核描写が甘いといった批判を寄せることは可能です(*5)。しかし、本作はあのような「ラノベ」的小説(*6)を下敷きにしているのだから、ファンタジーに徹した(*7)本作は正しい映画化であったといえます。そして、原作『パンドラの匣』の主旨が、看護師たちの「無垢な美しさ」への憧れと、太宰同様に戦中・戦後を俗世間から離れて過ごしてしまった結核患者たちの「愚かな醜さ」への共感(*8)であったことからすれば、看護師たちを美しく描き、患者たちを陽気に描いた本作は、太宰の意図にも適っているように感じられます。
ところで、私を本作に誘った洞口依子は主人公の母親役で出ていました。冒頭で出ただけで終わりかと思いきや、終盤でも再登場し、看護師たちに馴染んでいました。本作スタッフは竹さんを誰に演じさせるかで逡巡したようですが、あと10年早ければ、洞口依子が竹さんでも良かったかもね?
(*1)当初の私の目当ては黒沢清監督でしたが…。
(*2)本作は廃校になった学校で撮影されています。冨永監督は学校と病院は似た建物だからそうしたと言っていますが、両者はその機能的な類似性ゆえに構造が似ているということを想起すれば、この撮影場所の選択は正解だといえます。
(*3)「ジャンヌは 往きます 戦いに♪」
(*4)宮台真司他『増補サブカルチャー神話解体』264頁
(*5)新入りの患者なのにかなり元気そうにしているとか…。
(*6)太宰は実在した「孔舎衙健康道場」をモデルにして『パンドラの匣』を書いたらしいですが、「孔舎衙健康道場」自体かなりあり得ない施設のようです。
(*7)看護師たちの衣装は、当時のものと異なり、洗練されたデザインになっています。
(*8)太田光「太宰治について」『人間失格ではない太宰治』6頁参照。
シネマヴェーラ渋谷の「洞口依子映画祭」(*1)で生の洞口依子を拝んで以来、にわか洞口ファンになってしまった私は、洞口依子最新作ということで、今週、『パンドラの匣』(原作:太宰治・監督:冨永昌敬)を観てきました。
本作については、川上未映子を役者として起用したことが一つの懸念材料でありましたが(笑)、観た印象としては、かなり成功していたように思えます。川上未映子が演じた「竹さん」は、原作と異なり、新入りの看護師として描かれているので、川上未映子が本来的に有している一種の「異形」感が活きていました。本作は、原作通り、このような竹さんと主人公ひばり、そして若い看護師マア坊の三角関係を軸に推移するわけですが、本作では上記の通り、ひばり以外に竹さんも客人的なので、三角関係の趣は少し変化しています。もっとも、仲里依紗がマア坊をかなり好演していたので、上記の三角関係は原作とは違う形で均衡を保っていました。
冨永監督としては、竹さんを美人の女性教師、マア坊を可愛い女生徒と見立てて、『パンドラの匣』を学園ドラマとして描きたかったようです(*2)。ギターを弾く竹さんを囲んで看護師たちが歌う場面などはそうした解釈の具現化といえます。このときに歌われる歌は、原作にはタイトルしか出てこない「オルレアンの少女」ですが、曲の明るさに反してさりげなく好戦的な歌詞(*3)が付けられているところに時代性を感じます。「戦後の少年小説・少女小説では、回復が目指されるべき〈秩序〉…が『大日本帝国』から『世界平和』に変わったことがあっても、…『〈理想〉の実現を媒介とする〈秩序回復〉』という物語構造には、まったく変化がなかった」(*4)そうですから、本作の舞台である終戦直後であれば、若い看護師たちはこのような歌にも親しんでいたのでしょう。太宰自身も「オルレアンの~」などというタイトルにしたからには、おそらくこのような歌を想定していたものと思われます。
本作に対しては、結核患者の集まりであるにもかかわらず結核描写が甘いといった批判を寄せることは可能です(*5)。しかし、本作はあのような「ラノベ」的小説(*6)を下敷きにしているのだから、ファンタジーに徹した(*7)本作は正しい映画化であったといえます。そして、原作『パンドラの匣』の主旨が、看護師たちの「無垢な美しさ」への憧れと、太宰同様に戦中・戦後を俗世間から離れて過ごしてしまった結核患者たちの「愚かな醜さ」への共感(*8)であったことからすれば、看護師たちを美しく描き、患者たちを陽気に描いた本作は、太宰の意図にも適っているように感じられます。
ところで、私を本作に誘った洞口依子は主人公の母親役で出ていました。冒頭で出ただけで終わりかと思いきや、終盤でも再登場し、看護師たちに馴染んでいました。本作スタッフは竹さんを誰に演じさせるかで逡巡したようですが、あと10年早ければ、洞口依子が竹さんでも良かったかもね?
(*1)当初の私の目当ては黒沢清監督でしたが…。
(*2)本作は廃校になった学校で撮影されています。冨永監督は学校と病院は似た建物だからそうしたと言っていますが、両者はその機能的な類似性ゆえに構造が似ているということを想起すれば、この撮影場所の選択は正解だといえます。
(*3)「ジャンヌは 往きます 戦いに♪」
(*4)宮台真司他『増補サブカルチャー神話解体』264頁
(*5)新入りの患者なのにかなり元気そうにしているとか…。
(*6)太宰は実在した「孔舎衙健康道場」をモデルにして『パンドラの匣』を書いたらしいですが、「孔舎衙健康道場」自体かなりあり得ない施設のようです。
(*7)看護師たちの衣装は、当時のものと異なり、洗練されたデザインになっています。
(*8)太田光「太宰治について」『人間失格ではない太宰治』6頁参照。
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