現実を味方につけよ

今までに出逢った「真実」を伝えていきます

受け

2010-05-17 11:39:11 | 日記
神経が図太くなる本 (桜木健古 著)より


「命知らず」と評される人がいます。命なんかいらない、自分一身などどうなってもよいというのですから恐れるもののある道理が無い。世にこれほど強い精神状態はあり得ないでしょう。
この危険を母親が身を捨ててかばうと言うような時、この「命知らず」の精神が、とっさに本能的に出てくるわけですが、別に急の時に限らない。
仕事であれ対人関係であれ、対象に没入してこれと一枚になる時、人は誰しも「自分を忘れる」状態になることができます。こういうときに、人間は強くもあり、幸福でもあるのだと私は思います。
そして、自分を投入する、そのためには生命の危険にさらされても恐れを持たない、と言うのであれば、かれは不死身の強さの持ち主と評されて良いでしょう。「我欲の無い人は強い」ということでしょうか。

ある男性が好きな女性に告白できないとします。
男性が告白する勇気を持てないのは「失敗を恐れる心理」のためです。プロポーズして拒否された場合の自分の惨めさ、それ以後のつきあいの難しさなどに耐えられそうに無い。話がバレて第三者から笑いものにされる可能性も屈辱として描かれる。
この恐るべき事態を回避するために、意思表示の機会をいつまでも先延ばししようとする。
この男性は女性本人をも恐れています。「彼女が自分をどう評価するか」を恐れているのです。低く評価されることに耐えられない、だからプロポーズが拒否された場合を恐怖しなくてはならないわけです。

彼に恐れの心理がかけらほども無かったとしたら、彼はいいたいことを言い、やりたいままをやるというたくましい生き方ができたに違いない。
失敗を恐れず、他人の批評を恐れない-これではブレーキなし、アクセルだけの自動車のようなもの。
恐れの感情がまったく消えてしまった、と仮定して御覧なさい。ただそれだけであなたは別人のように強くなってしまうはずです。





受けについて別の角度から見ていきましょう。
誰だって幸せに生きたいです。前回「損失を受け入れて、人の役に立つ」という考えを説明しましたがどんどん色んな人の役に立っていると、何かあったときに「あいつにたのもう」「あいつを使おう」となりますね。
つまり自分の運命が変わってくるんです。仕事であれば新しい仕事を任されるかもしれない、また別のたいしたことでないことに呼ばれるかも知れない。
「パソコンが使えないんだけどこんな文書を作って欲しい」「こういう料理の作り方を子供に教えてあげて欲しい」「ボランティアでゴミ拾いするんだけど一緒に行ってくれないか?」
なんでもいいんです。人の要求にたいして笑顔で「いいよ」と答えることです。そして普段から頼まれやすい人物でいること。
そして頼まれごとには自分の全力を尽くす。
そうすると、また次回べつの新しいところへ呼ばれて行きます。
どんどんあっちこっちへ連れて行かれる・・・そうすると、ふと新しい出逢いがあるんです。

思いもかけないところで友人ができたり、新しい分野に引きづりこまれる。
運命というのは人が運んでくるんです。だから人を大切にしなければいけないんです。
子供だからといいかげんに対応したり、お年寄りだからと軽く扱ったりしていると思わぬしっぺ返しがあります。
それはすぐには出てこないんです。まわりまわって自分のもとに返って来る。結局、因果というのは絶対に逃れられないんですね。

私は「自己保存」をできるだけ捨てて人の役に立つことをずっと説明しているんですが、この自己保存とは一体なんでしょう?
損を受け入れて、あるいは苦しみを受け入れて、余分な労力を使うことを受け入れて、人のために尽くせれば自分の運命が変わり始めるんですが、これがなかなかできない。

自分をなぜ守る必要があるんでしょう?それは自分の体が物質であり、有限だからですね。
自分の体がトヨタのトラックに引かれても大丈夫であれば、なにも守る必要はありません。
あるいはスパイダーマンのようにサタニストの手のサインをしながらビルから飛び降りても無事であれば、なにも守る必要はないんです。
ロスチャイルドの作ったイスラエルを支援しているマクドナルドの「えびフィレオ」に全財産をつぎ込んで、1週間後には食べるものが何も無いが絶対に飢え死にしないのであれば、なにも守る必要はないんです!

でもそんなわけにはいきませんね。


だから自分の「有限である体」を守るために人は恐怖を感じるようになっているんです。
この恐怖を克服することができれば「自己保存」の問題も消え去るはずです。





恐怖とはそもそも何でしょう?
もし人間に恐れの本能が無かったらどういうことになるか。いま殺されようとしているのに死への恐怖がまったくない、としたら人の命などいとも手軽に、次から次へと地上から姿を消すでしょう。
とすると、恐怖心とは人間の自己保存のために神が与えたもうた才能である、と考えることもできます。

「他人の批評が気になる」というとき、その批評なるものは、本当に実在するものなのでしょうか。
悪評であるからといって、これを気にすべき理由がどこにあるでしょうか。それらによって自分の生命や生活に実害が及ぶというのですか。相手はべつに刃物をふりかざして迫ってきているわけではないのです。
人が何を言っていようと、口と言う物体がパクパク動きそこから空気が放出されて声と言う音になっているという物理現象があるに過ぎないのです。

受験勉強中のある高校3年生から手紙をもらったことがあります。
「落ちたらどうしよう」その想念ばかりで頭がふさがって勉強に全然手がつかないというのです。
彼が恐れているのは落第そのものではありません。親の期待、先生や友人の関心、これらのものの前に落第と言う事実がさらされたとき自分の立場が耐えられないとよそうされるために落第を恐れるのです。落第した時の他人の眼をこそ恐れているわけです。
もしかれの周辺に、関心を持つ人がひとりもないとした場合どうなりましょうか。
合格しようが落ちようがほとんどどうでもよいこと。どっちにしたってその結果を笑ってこうていするだけでしょう。それなら落第への恐れなど生じようが無い。たんに勉強し努力するほかに手がないはずです。
失敗への恐れとは「自分の失敗に向けられる他人の眼への恐れ」と定義することができるでしょう。





恐怖にはどうも2種類あるようで、本当に「自己保存のための恐怖」と「まったく恐れる必要もない想像上の恐怖」がそれぞれある。
これってよくありますよね。夜の学校がなんとなく怖いとか(自分を傷つける存在がいない)。
また、人間はなにか新しいことを始める場合にも「大丈夫かな」と恐れを感じることがあります。

生きている限りこの恐怖から逃れられないのでしょうか?
そんなことはありませんね。子供が危険にさらされた時に母親が身をていして助ける、その時に恐れの感情はない。
同じように目の前のいくばかの苦しみを受け入れ他人のために役に立つことをする。

共に「受け」ができている状態です。
現実を受け入れることができている。

外界と調和ができている。これが現実を味方につけるということです。

人間、嫌なことが目の前に来た時につい「いま」から目をそむけてしまいます。
めんどくさいな、やりたくないな、損したくないな、苦しいのは嫌だな・・・
しかし「いま」はあなたにとって辛い状況になっているかもしれませんが、これが後になってどう転ぶかなんて誰にもわからないわけです。めんどくさい仕事を引き受けた・・・その結果まったく別の分野から収入が得られることになった。苦しいのを我慢して誰かの用事を手伝った・・・その結果新しい出会いがあった。
「今」目の前のものが自分にとってマイナスに見えても、その出来事がどう転換するのかまで見えない。だから、嫌だなと見える今を拒否してしまう。
派遣にお金を払っているのは嫌だな、と思うからイキナリ
御手洗「九州で派遣を1000人切ります。」というまぬけなことをしてしまうんです。
経済界の連中は経済のことなんかまったくわかっていないのでしょう。

長い目で見ることができるようになれば簡単なんですが、なかなかそういうことができる人は少ないようです。教育で、社会で、家庭で、「できるだけ効率よく、できるだけ早く、できるだけ無駄なくいろんなことをしなさい」と言うように基本的な考え方や行動をゆがめられてしまっているからですね。
これを改善して運命をよくしようと言うんですから、こいつはわけのわからん奴だと思われる方も多いかも知れません。


にがいピーマンを食え、というのか。その通りです。その目の前の「にがさ」があなたの身体を、健康を形作るでしょう?
赤と黄色と緑のピーマンと焼き鳥を食え、炭火焼がおすすめだぞ、というのか。
そんなことは言ってません。

でもみんな笑顔になって、協力的になって、みんなの運命がどんどん良くなれば日本全体も良くなっていくでしょう?
じゃあ、自分の知っていることは惜しみなく全部伝えよう。そう思っています。