1970年代が子供時代でした。

昭和時代の虐待家庭記録など、自分の不幸についての告白です。

ご近所さん、外人さん、愛人さん

2022-08-22 21:26:00 | 日記
ここまで読んで下さった方の中には、「虐待家庭とか言ってるけど、たいして虐待されてなかったんでは? 思い込みでは?」という印象を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。
だからちょっと、ここで客観的な事実(わたしの主観的訴えではないと納得してもらえそうな要素)を出してきましょう。

うちはマンション住まいだったのですが、両隣の住人が異常に何度も変わっていました。
どちらのお隣さんも、だいたい三年か四年以内には引っ越してしまいます。
分譲マンションなのに、ですよ!

その理由は、今考えたら、うちがあまりにうるさかったからだと思います。
フル絶叫でわたしを罵倒する、あの声の大きさは、尋常ではなかった…。
また、わたしも暴力を振るわれてギャーギャー泣いたりしていましたから、日々、三人の絶叫劇場です。
阿鼻叫喚はご近所につつぬけだったはずですが、「あの子かわいそうだな、児童相談所に通報しよう」などという人は誰もおらず、みんな無言で引っ越していきました。

怒声に加え、飲み会騒音もありました。
うちの父が自宅で仕事をする文筆業だったため、我が家にはしょっちゅう「お客さん」が来ていました。昼間、純粋に打ち合わせに来るだけの編集者の訪問は無害なのですが、夜遅くまで飲んで談笑していく人たちもいて、あれはかなり近所迷惑だったのではないでしょうか。

そのように、うちの機能は「父の仕事場・兼・接待所(笑)」というのが主であって、子供は結構どうでもよかったのかもしれません。だから、子育て中心の一般的お勤め人家庭のように、子供に心ある対応など、「できないし、する気もない」といったところだったのでしょう。

わたしがまだ6、7歳ぐらいの頃、おたふく風邪にかかって、顔が四角形みたいに腫れ、寝込んでいたことがありました。
その腫れが最悪だった晩、うちに詩人のYさんが遊びに来ていました。
夜中、Yさんと飲んで酔っ払っていた父は、おたふくにかかった娘の顔が面白いから見せてあげる、となったのでしょう、
「おーい、城南、出てきなさい!」
と、寝ていたわたしを叩き起こしました。
わたしは子供部屋からパジャマ姿でヨロヨロ出てきて、「こんばんは。(ペコリ)」とYさんに挨拶させられる羽目に。
Yさんと父が、二人とも爆笑していた様子が、今でも忘れられません。
おたふく風邪の時に酔客の見せ物になった子供、というのは世界広しといえども、そう多くはいないのではないでしょうか。

ご近所に話を戻すと、

うちの隣に、ペロシさん(仮名)というイタリア系アメリカ人の国際結婚夫婦が暮らしていたことがありました。
父はいつも、ペロシさんのことを話すとき「隣のアメていが…」と言っていて、幼いわたしは、「アメてい」というのが「アメリカ人さん」みたいな意味だと思いこんでいました。(「てい」の部分が敬称、みたいな解釈?)

前にも書いたように、父は左翼くさい人で、「アメリカ帝国主義」の略、「アメ帝」という用語を実は使っていたのでした。(現在でも、わたしの嫌いな抽核派のyoutube動画「前進チャ●ネル」などでいまだ「日帝」「米帝」とか言っています←嫌いと言いながら見ているらしい!)
しかし、
子供のわたしはそんなことはつゆ知らず、「テレビに出ていたアメていがね…」というように、幼稚園や小学校で「アメてい」という言葉を使いまくっていました。当然ですが友達や幼稚園教諭などから訂正されるはずもなく、わたしはかなり長い間、そのままその語を慣用していました。(後日、父本人が苦笑混じりに「その言葉はちょっと…」とたしなめてきて、本件は収束。)

さて、ペロシさん(仮名)が引っ越してしまったあとの隣室には、色白さん(仮名)という一人暮らしの女性が入居しました。子供のわたしは「おばさん」だと思っていましたが、今考えたらまだ三十代だったかもしれない、和風美人でした。
しかし、彼女は実は一人暮らしというのとちょっと違う、「愛人」の人で、彼女のもとには部屋の持ち主である年配の「社長さん」がときどき来ていました。
その事実を知った両親は、好奇心と悪意と差別意識に満ちた陰口を叩き始めました。「三号室の二号」だの「ソレシャ上がり(昔、芸者のことを婉曲に言う時に「それ」者とか言ったのだそう。)」だの…実に口汚かったです。
特に母は、「専業主婦は日陰ものより上だ!」みたいにマウンティングする気まんまんでした。そしてなぜか母は、わたしを使って色白さんの家に、「おすそわけ届け攻撃」をさせるのでした。
それも、やたらと頻繁に!

「城南、これを色白さんに持っていきなさい。」
と命令されたわたしは、お菓子やら何やらを持たされ、隣の家に一人でピンポンと訪ねていかざるを得ない…。
ノーメイクで出てきた色白さんは、かすかに困惑ぎみの表情をしていましたが、小学生のわたしに罪はないことはわかっていたのでしょう、いつも優しく対応してくれました。(ごめんね、色白さん。)とわたしは心の中で思っていました。
無意味なお届けをさせた母は、わたしが戻ってくると「色白さんどうだった?」と好奇心丸出しで訊いてきました。ありがとうって言ってたよ、とわたしは短く答えるのですが、正直、母が鬱陶しくてしょうがなかったです。きっとわたしが「急に来られて不意をつかれた色白さんは、ノーメイクで結構ブスだったよ」的なことでも言えば母は喜んだのでしょうが、母が満足するためだけになんで自分と色白さんが二人して困らなければいけないのか?? 本当に理解できませんでした。
色白さんは、母のような意地悪なキチ●イとは比べものにならない、人柄も外見も優れた立派な人でした。
色白さん、今でもどこかで元気に生きているのかなあ…。


人生最悪の誕生日

2022-08-21 21:02:00 | 日記
わたしの家が「反消費社会・おもちゃ買わない主義」だなどとは知らないお友達が、誕生会に「リカちゃんグッズ」の誕プレを続々持参、リカちゃん人形そのものを持ってないわたしは、困惑、呆然…。

でも、わたしはその程度のことで悲しんで泣くようなヤワな子供ではありませんでした。フッ、と皮肉な笑顔を浮かべて、心の中でこう毒づいていました:
「この際かわいそうだからリカちゃん買ってあげよう」なんてことには絶対にならないんだよ! うちの親はハードコアだから、リカちゃんハウスががらんどうの空き家として存在し続けたって、着てもらう機会もない小さなお洋服が不気味な「遺品」みたいになってしまったって、知ったこっちゃない、と無視するんだよ!

(案の定、その後やっぱり、わたしの思ったとおりになりました。)

でも、誕生会の最も悲惨な部分はそこではなかったのです。さらに酷いメインイベントが待っていました…

「竹ぼうき大会」という珍企画でした。

飲食やプレゼント渡しなどがひととおり終わった頃、父が「中庭に行こう!」とみんなに呼びかけました。
マンションの共有部分の庭に、女子たちを引き連れていく父…。その手には、外を掃く長いほうきが握られています。
なんか、厭な予感しかしない…。

「じゃあ、今から竹ぼうき大会をやります!」中庭に着くと、父が高らかに宣言しました。
「てのひらの上にこのほうきを立てて…」父は、さかさまにして立てたほうきの竹の柄を手に乗せ、バランスを取りながらふらふら歩きだすデモンストレーションを開始。「はい、1、2、3、4、5、6…」
カウントしているうちに、ほうきは倒れる。
「誰がいちばん長い時間できるか? はい、やってみよう!」
おいおい!
ちょっとこれは無理! 
とわたしは心の中で絶叫しました。
今は昭和初期とかじゃなくて、1970年代だよ⁈ 高度経済成長時代の申し子、物質まみれのチャラチャラ女子たちに、「竹ぼうき」って、何考えてんの⁈ ありえないでしょ!
わたし、もうこれ以上学校でいじめられたくないんだよ!

「いち抜けたー!」
と叫んで、わたしは走って部屋に帰ってしまいました。

その後お誕生会がどういう終わり方をしたかは全く覚えていません。ただ、覚えているのは、その晩めちゃくちゃに怒られたこと。
もう怒鳴られる怒鳴られる!
何時間も地獄のように怒鳴られ続けました。
こうなることはわかっていたはず…。

「親に逆らう」などという恐ろしいことは滅多にできるものではありませんでしたが、その時のわたしは、自分を守るために(学校でいじめ殺されないために)そうするしかなかったのです。

時間が経過してから考えると、「なんでそもそも誕生会やろうって事になったの?」という疑問がわいてきます。誕生会なんて結局は物質的になるに決まっている。うちのポリシーに合うはずもない。だいたい、我が家は誕生日に親が子にプレゼントくれるという習慣さえ一切なかった。
もしかして、父が、「会を開くことで、ワンチャン、反物質主義というイデオロギーを広められたら!」とか思った?…なんてことは、まさかなかったでしょうけど…。「竹ぼうき大会を盛り上げて、物に頼らずとも楽しく遊べるんだと子供たちに教える、素敵なパパになりたかった」?「8、9歳の子供を喜ばすのなんかちょろいだろう」??
いやいやいやいや。
戦争で価値観転倒させられて愕然とした、政治の季節に「運動」の無効さに気づいてニヒリスティックになった、など、父の事情はわかります。さらに芸術至上主義になって、ロビンソン・クルーソーみたいに、母というフライデーを率いて、ワークフロムホーム引きこもり独立国を作った。
そこまではいいけど、なぜわたし? 子供のわたしまで巻きこまないでほしかったです。

子育てなんてカルト創設してまでするものではなく、「世代が違えば、もう違う生き物なんだ」「教えられることなんか限られている」ぐらいに諦めて、ただ最低限の躾と衣食住保証をしていればよいのでは——と、今のわたしは思っています。
(次回に続く)




お菓子、自転車、そしてリカちゃん不在リカちゃんハウス

2022-08-20 20:59:00 | 日記
いやなことばかりの子供時代、わたしの唯一の楽しみは、「食べること」でした。
家で虐待、というと「ろくな食べ物を与えてもらえなかったのでは?」というイメージがあるかもしれませんが、それは違いました。むしろ、母が専業主婦であるため、食事作りには変な気合いが入っていましたので、一食一食にかける手間やお金は平均以上だったのではないかと思います。
食に関しては、父も、24時間ずっと家にいる文筆業だったため「食ぐらいしか楽しみがない」という感じだったのでしょう、母の作る三度の食事に要求するものは多かったのです。それで母は、フランス料理教室に通ったりしていました。(わたしに言わせれば「鼻もちならないカルチャーセンターばばあ」という感じに、どんどんなっていきました。)
うちの両親は二人とも、決して育ちがいいわけでもお金持ちの出身でもありません。が、特に母には、山の手ぶって気取りたがるいやらしいところがありました。(父の方はただ美味しいものが食べたいだけで、見栄っ張りではありません。服装などには無頓着で質素でした。)母にとっておやつといえばケーキとか手作りワッフルとか和菓子屋の和菓子であり、スーパーで売っている袋菓子などは「駄菓子」とか呼んでバカにし(この用法は「駄菓子」という言葉の正しい定義から外れているように思えますが)、決して買ってはくれませんでした。
でもわたしが本当に食べたいおやつは、「サッポロポテト」や「ベビースターラーメン」だったのです!

小学校に入って初めて、放課後に友達の家で「ベビースターラーメン」を食べた時の感動は今でも忘れられません。化学調味料風の強烈なうま味は、今までに家で与えられたどんな食べ物とも違っていました。わたしはたちまち夢中になりました。
また「サッポロポテト」も、さらにそれが進化した「バーベキュー味」も、この世のものとは思えないほどおいしくて、魅了されました(そして今でも大好きです)。
甘いものでは「明治かなぼうくん」という、ピーナッツチョコレートが棒ビスケットの周りについている商品が当時あって、そのCMの「金棒もった鬼が来る!」という歌を歌いながら、嬉々として歩き食べ、踊り食べしていました。友達のフミちゃんの家で、そうやって、みんなが食べているような「普通の」お菓子を自由に食べて、好きなことを喋って好き勝手に遊んでいる時こそ、最高に幸せな時間でした。家に帰りたくない、このままここのうちの子になりたい、と心から思いました。そんなこと願ったって叶うはずもなかったのですが…。

フミちゃんは自転車を持っていましたが、わたしは持っていませんでした。そもそも自転車に乗れない、というか乗ったことがなかったわたしでした。父が、「自転車は危ないから、禁止。」という主義だったのです。
そんなわたしは、フミちゃんが自転車で走る後ろをいつも「待って〜!」と走って追いかけていました。
それだけでもバカにされる大きな要因だったのに、しかし、フミちゃんだけは決してわたしをいじめたりしませんでした。彼女はいつも自転車をノロノロ運転にしてくれて、わたしは駆け足という、その変なコンビで一緒に駄菓子屋に行ったりしていました。そしてまた駄菓子屋のおばあちゃんからベビースターラーメンを買うのでした。

フミちゃんとの思い出は小学校一、二年の頃のもので、その後、彼女は引っ越していなくなってしまいます。
うちで、なぜか一回だけ、わたしの「お誕生会」などというものをやることになった、その時にはもうフミちゃんはいなかったので、たぶん誕生会は小学校三年生ぐらいの出来事だったのではないかと思います。
その時に家にどんな友達を呼んだのか、一切記憶がありません。(ただ、フミちゃんがいなかったのは確か。)記憶がところどころしかないのですが、我が家という特殊すぎる地獄ハウスに「普通の人たち」が押しかけて誕生会だなんて死ぬほどいやだ! だってうちが変な家だってバレてしまうじゃないか! と企画段階で既に思ったことは覚えています。

父が「反消費社会」「反物質主義」という思想の持ち主だということは前にも書いたとおりです。
そのポリシーのせいで、わたしは市販の「おもちゃ」というものを一切買ってもらえませんでした。わたしは友達が持っている、テクマクマヤコンとかいうコンパクト(そもそも秘密のアッコちゃんというアニメを見たことがないのでその商品の意味がよくわかっていなかったのですが…)や、お風呂で遊ぶダリヤなんとかセットや、小さいホットケーキがほんとに焼けるミニフライパンとコンロや、そういう、輝かしい、素敵なおもちゃが欲しかったのです。でも、我が家で許可されているのは「たけとんぼ」「手作りのお手玉(中にあずきが入っている)」「ケン玉」など、工夫して自分で技能を高めましょう系の、昭和初期みたいな貧乏くさいおもちゃだけ。

誕生会に来る友達は、そんな事情は理解していなかったのだと思います。

うちが「みんなと同じ」を徹底的に排斥するのは、バースデーケーキに関してもそうでした。普通のバースデーケーキ、つまり「○○ちゃんおたんじょうびおめでとう」と書いたマジパン?のプレートがのっていて、バタークリームを搾り出して形づくったピンクの薔薇の花が飾られた、そんなケーキは、父いわく「愚劣だ。」ということで、禁止。うちでは飾りも何もない、ユーハイムのフランクフルタークランツが誕生日ケーキがわりに供されました。これも、なんだかすごくみじめでした。(クランツもおいしいのだけど、そういう問題じゃなくて、一生に一回でもいいから「城南ちゃんおたんじょうびおめでとう」というデコレーションケーキを見てみたかった。)

誕生会といえば、友達がプレゼントをくれることが普通はワクワク最重要ポイントですが、わたしはプレゼントに関しても悪い予感しか持っていませんでした。

そしてその予感が大当たり…

当時、リカちゃん人形が大流行していて、小学女子のほぼ誰でも持っているようなアイテムとなっていました。しかし、その「ほぼ」の枠からはみ出ている、世にも稀な例外少女が、わたしだったのです。

誕生会に招待されたみんなは、そんなことを知らず、わたしも当然リカちゃん人形を持っていると思いこんで、

リカちゃんハウス(家のみ)!

リカちゃんのお洋服!

など、さまざまなリカちゃんアイテムを誕生日プレゼントとして下さいました。しかし、わたしは肝心の「リカちゃん本体」を持っていませんでした…。
(次回に続く)



小学校やめろと言う親、行きたい子供。

2022-08-19 18:38:00 | 日記
いじめられても小学校に行きたい!
家にいるよりはマシ!(家より学校の方がまだしも厭なこと不合理なことが少ない!)

と思っていたわたしですが、朝学校に行こうとすると「学校行くな!」という怒声が聞こえ、玄関でランドセルを引っ張られ、ランドセルに体重をかけられて転倒させられる、ということがよくありました。(言うのは父、ぶち倒し実行犯は母。)

そんなバカな! 子供に「学校行くな」なんて言う親がいるわけない!…とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、
いたんです。実話です。
わたしの父は、そもそも日本が嫌いだし、日本の義務教育への不信感があったのです。

家でせっかく独自の教義(物質主義は駄目だとか、天皇制は駄目だとか)を植えつけているのに、学校に行くせいで消費社会の悪風に染まる、君が代斉唱とか平気で言うような環境に晒される——だったら行くな!と。

「義務教育っていっても、罰金払えば行かなくていいんだ!」というのが父の口癖でした。(この言葉の真偽のほどは未だにわかりませんが。)

そんなに公立学校に行かせるのが嫌なら、めちゃくちゃ独自の校風で父も納得できるような私立学校でも探せばいいようなものですが、たぶん、そういうことではなかったんです。

要は、うちってカルトだったから!
外からのいかなる情報も、父以外の価値観も、子供に与えたくなかったのでしょう。

情報統制とか言うと大げさかもしれません。うちにはテレビも存在していて、世間の情報から全く隔絶されていたわけではありません。
が、しかし、
見たいテレビ番組を子供の私が勝手に選べたりする機会は、絶対になかったのです。
父が決めた番組を、夕食後に黙って三人で見る。これがルールでした。
クイズ番組なんかが中心で、アニメなどはほとんど見せてもらえませんでした。『サザエさん』『ハイジ』など、学校で話題に出るポピュラーなアニメを私は一回も見たことがなく、友達の話についていけませんでした。

普通は「教育に悪そう」なテレビ番組を避け、子供に害の無さそうな番組を選ぶ、という方向でセンサーシップが働きそうなものですが、うちの父はなにしろ「反権力の芸術家」なので価値観が逆で、「小市民的なものはダメ、でもアナーキーなものはいい!」ということで、『8時だよ全員集合』などはOKでした。(全員集合をPTAがワースト番組として名指しした、という話が逆に父の心の琴線に触れたようです。)アニメはほぼ禁止に近かったのですが、父が「ナンセンスで面白い」と判断した赤塚不二夫のアニメは一時期見ていた覚えがあります。(あまりに古い記憶なので題名などは失念。)

たしか小学校四年生ぐらいの時、みんなが急に『およげ、たい焼きくん』という歌を歌い出し、なんだなんだ、いったいどういうテレビ番組でどう流行っているどういうものなんだ⁇と、わたしは冷や汗をかきました。
知らないと言うとまたバカにされるので、みんなが歌う『たい焼きくん』を必死に聞いて覚えようとしました。
何とか覚えたつもりだったものの、「全校集会」とかいう場で、みんなでこの曲を歌いましょうとなった時、一人だけ、微妙な休符のところで4分の1拍ぐらい早く歌ってしまいました。(元うたを一回も聴いたことがないから仕方なかったのですが。)
千人以上いる全校生徒の中で、たった一人、わたしだけが、シーンとしている時に早く歌い出してしまった…
たかがたい焼きくん、されどたい焼きくん。わたし以外の小学校全員が、ひとり残らずテレビによって正しくインプットされていて微妙な休符のところで正しく沈黙していた——そのことがわたしには結構つらかったのです。ああ、究極の疎外感。いくら「みんなと同じ」ふりをしていても、異分子だということがこうやってバレてしまうんだな、とその瞬間強く思いました。

あまり楽しいことがなかった小学校時代。唯一の心の逃げ先は、食べることだったかもしれません。
(次回に続く)




第二次大戦のトラウマ、強制継承。

2022-08-19 02:52:00 | 日記
わたしの父は、「反権力」「反消費社会」「島国根性大嫌い」といった、かなり偏ったイデオロギーの持ち主でした。(「でした」と書きましたとおり、もう他界しました。)政治的活動をしていたわけではなく、職業は物書きだったのですが、まあ「左」の人です。

戦争でひどい思いをした結果そうなったのかと推測します。

父は終戦時、13歳でした。当然、実際に戦ったことはなく「軍国少年」どまり。
でも、というか、だからこそ、というか、戦争中はバッチリ洗脳されて、世界地図に次々と旗を立ててワクワクしながら「大日本帝国の大勝利」を信じこんでいたそうです。
子供は純粋で騙されやすい…。

いきなり敗戦となって、「今まで信じこまされてきたことは何だったんだ!」とショックを受けた13歳の父は、すべての価値観が転倒する中、急速に左翼思想に入り込んでいったようです。
 
その後、父は会社員にもならず、いかなるお勤め人にもならず、自宅で原稿を書く自由業を選びました。
そして、まるでロビンソン・クルーソーがフライデーをパートナー(?奴隷?)にするように、母と結婚。
わたしという娘が生まれると、家族三人だけのロビンソン島みたいなものが形成されました。

言い換えれば、ミニミニ北朝鮮みたいな専制国家です。父がジョンウンです。

父は何がしたかったのかと考えると、おそらく、敗戦で「国なんて信用できない!」、戦後は兄弟と金銭問題で揉めたりし「兄弟も信用できない!」など、人間不信のあまり、最小限の家族だけを従えてカルトみたいに家に引きこもりたくなった——そんなところでしょう。

母は専業主婦として、目が覚めている間は常に父の世話をし続けなければなりません。父は24時間自宅にいて自宅で仕事をしているので、無期限の住み込み女中みたいなものです!

1960年代や70年代は専業主婦が当たり前の時代だったとはいえ、ここまで四六時中、はべっていなければならない妻は、まず、いなかったでしょう。

母は父に隷属し溜まったストレスを子供虐待で発散していました。
わたしは母のサンドバッグにされ、ヒステリックに怒鳴られたり、殴られたり…。幼児の頃はよく「お尻を出せ」と言われて、裸の臀部を布団叩きでバシバシ叩かれたりもしました。

父は、わたしに手を上げることは決してありませんでした。暴力担当は、もっぱら母でした。

でも、叱責(口頭で怒る、怒鳴る)は、父にもしょっちゅうされていました。
父母二人がかりで何時間も怒鳴りつけ、説教! わたしがどう謝っても表現に文句をつけ全否定! 永遠のように抽象的な屁理屈が続く! という、二対一の虐待モードでした。

虐待といっても、わたしは、よくニュースに出てくるような「熱湯をかける」「何日も食事を与えない」「アイロンで皮膚を焼く」みたいなことをされていたわけではありません。
と言うと、「まあ大した虐待じゃなかったんでしょ?」と思われるかもしれません。
たしかに、命に関わる事はありませんでしたが、暴力よりさらに厭だったのが「よその人は関係ない!」とか言って、あまりに独自すぎる我が家ルールを押し付けられることでした。社会的孤立を強いられるというか。

例えば、小学校に入るとき、「手が器用になるから、鉛筆はナイフで削りなさい。鉛筆削り禁止。」と言われて、「ひごのかみ」という鞘付きの小刀を渡され…
ガタガタの手削りの鉛筆を持って登校…

昔の話といっても、わたしが小学校に入ったのは1972年です。既に誰もが「鉛筆削り器」で綺麗にスムーズに鉛筆を削っている時代です!
一人だけガタガタに手削りした鉛筆を持っていたら、「なんだそれ!」とみんなが驚き呆れ、わたしはたちまちボコボコに虐められました。当然だと思います。これでいじめにならない方がおかしいというものです。

学校に持っていく持ち物にも、我が家流の厳しいルールがあって、「マンガ(キャラクター)が描いてあるものは駄目。」(消費者社会に反対?という意味だったらしいです)「下敷きはセルロイドのものに限る。」(これに至ってはまったく意味不明…)とか言われて、かわいくない無地の、他の誰も持っていないようなアナクロ文房具を買い与えられてしまいました。
何度も言いますが、これでいじめにならない方がおかしいというものです。

こうして見事いじめられっ子になったわたしですが、学校の方が「家という地獄」よりまだマシだ、と思っていたので休むことなく一生懸命通っていました。

それがまた気に食わないのか、教育にも文句があったのか、親は信じられない言動を始めたのでした。
(次回に続く)