1970年代が子供時代でした。

昭和時代の虐待家庭記録など、自分の不幸についての告白です。

最終章

2022-09-01 17:56:00 | 日記
わたしは精神医学の専門家ではないので、ここで人格障害についてあれこれ私見を述べても仕方がないと思われます。よって、反社会性人格障害についての記述は避けます。
が、要するにわたしがずっと気になっていたのが、「母の反社会性人格障害がわたしに遺伝していないだろうか??」ということでした。

(今は「人格障害」より「パーソナリティ障害」という言い方をする方がマイルドだと思われているらしく、後者の呼称が使われることが多いようですが、「人格がおかしいんだから人格障害って呼んだ方がわかりやすいじゃないか」とわたしは思うので、わざとそう書いています。)

わたしに遺伝しているか? 答えはたぶんノーだと思います。わたしは母みたいにお寿司屋さんでエビの「踊り」なんて食べないし(お寿司屋さんも、母がサイコパスだと見抜いて生きたエビを勧めてきたんでしょうかね?)、人に暴力を振るったこともないし、いじめ、暴言、マウンティング等すべて大嫌いで、一切しません。
会社に12年勤続していたし、その後フリーになっても人々と調和しながら人間関係トラブルなくやってきたし…まあ、自分が精神障害であることは考えにくいと思います。

ただ、頭もよく才能もあった(性格は偏っていたものの)父と比べると、わたしは遥かにバカなんじゃないか、という恐怖が、年齢とともに強くなってきました。
若い時は、自分には才能があると勘違いしていた。しかし、わたしには50パーセントはバカの血(母の血)が混じっているため、実は自分で思っているよりずっとバカだったのでは。——近年ますますそう思うようになりました。

虐待によって、自尊心がちゃんと育たないまま、ただ「悔しくない生き方がしたい!」という思いだけで、がむしゃらに生きてきてしまったわたしです。

しかし、いま言えることは、自尊心なんてあってもなくても、「ちゃんとした仕事」をしさえすれば、人は認めてくれる。ということです。

バカのスペクトラムの、どの目盛の辺りにいようが、自分ができる精一杯の「ちゃんとした仕事」をすればいい。それがわたしが人生で得た結論です。

というわけで、ここで第一期を終了させていただきます。
気が向いたら第二期を始めるかもしれませんが、いつになるのか、予定は未定です。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました。

反社会性人格障害

2022-08-31 22:05:00 | 日記
実の母親からさんざんひどい目に遭って、母親をひどく嫌悪するようになったわたしですが、しかし、その考えを突き詰めた結果、「母の血を半分ひいているであろう自分」にまでも自己嫌悪を抱くようになります。

つまり、わたしの人生の問題点は、「あいつの遺伝子が混ざっていると思うと、自分を愛せない。」ということなのです。

遺伝、という恐怖の現象に思い至ると「毒親に関する悪口を言う」ことは、天に向かって唾するようなものだ、と気づいてしまいます。「もしかして、母の異常性はまったく受け継いでいないんじゃないかな? そうだといいな…?」なんて空しく願っても、実際には遺伝ゼロ影響ゼロということは考えにくいだろうし、現に顔も似ています。

(父に似るのは、別にいいんです。父も変人ではありましたが、暴力は振るわなかった。何より、父には才能があり、その才能だけで一家を経済的に成り立たせてきました。
問題は、父のブランドに寄生するだけして自分はなんにも稼がずに、わたしに暴力を振るって楽しく生きてきた、母の方です。)

母は、俗に言うサイコパスなのではないか、という疑いをわたしは持っています。
もう少し精神医学っぽく言うならば、「反社会性人格障害」というやつです。

八ヶ岳に家族旅行に行った時のこと——
高原には赤トンボがたくさん飛んでいて、それが東京では見られないほどの大群だったので、子供のわたしは夢中でトンボを捕まえて遊んでいました。
捕獲したトンボの羽を2本指でつかんで持っていると、母は、
「ちょっと貸して。」
と取り上げるなり、いきなりトンボの左右の羽をバリバリむしり取りました。
羽をもがれ胴体だけになって地面に落ちた、見るも無残なトンボを指差して、母は、
「昔はこうやって、ままごとの時に”鶏肉”に見たてて遊んだものよ。」
とニコニコしていました。
なんて残酷な! と、わたしは驚愕…。

生き物に残酷なことをして全く平気、というのは、反社会性人格障害の特徴です。酒鬼薔薇なんかも、猫を殺して遊んでいた、と報道されていました。

また、「人の心がわからない」「共感能力がない」のも母の特徴です。
ある時、家族で歩いている街角で、白い杖をついた人が
「○○はどこですか?」
と道を訊いてきました。
母はなんと、
「すぐ目の前です。」
と答えました!
当然ですが、目が見えない質問者の人は怒ってしまい、「もういいです!」とさっさと立ち去っていきました。
母はしかし、本気で不思議そうに、口を尖らせながら、
「人に訊いておいて、急に怒って行っちゃうなんて、なんなのかしら?」
とか言っていました。
この様子は、単にデリカシーがない、とかいう次元ではない、頭のネジが一本取れた人にしか見えませんでした…。

イッツ・フライデー!

2022-08-30 22:21:00 | 日記
父と母のことを、以前の記事で「ロビンソン・クルーソーとフライデー」に喩えたことがありました。
父は家庭というものを「世の中から孤立した状態で」「他人の影響を断ち切り」「自分本位、独裁状態で」樹立した——そのさまが、まるで無人島のロビンソン・クルーソーのようにも思えたのです。彼の島にたまたま現れ奴隷として採用された「土人」(差別語)のフライデーに相当するのが母、という構図です。
といっても実は、デフォーが書いた『ロビンソン…』では、ロビンソンはたまたま船が難破して止むを得ず無人島に漂着した人というだけで、独裁者だのカルトの王だのを目指すつもりは一切ありませんでした。だからこの比喩はあまり適切ではなかったのですが、むしろわたしは「フライデー=母」という部分が言いたかったのかも…。

母は、はっきり言って「バカ」です。学歴も大したことなく、また、口を開けば愚かなことしか言わないので、話す人が話せば数十秒あれば「これはバカだな。」と判断がつく。そういうレベルの人間です。
だから、誰かの奴隷になるのも、さもありなん。フライデー的ポジションは実にうってつけだったのです。(ただし『ロビンソン…』という小説の中のフライデーは決してバカではなく、片言の英語で立派に会話するようになったりし、地頭の良さを発揮していた——ので、母と一緒にしたら失礼なんですが。)

「”奴隷”だとか何言ってんの? お母さんはお父さんの"妻"でしょう? それに、自分の母親のことをバカとか言うもんじゃないよ!」
と思われるかもしれません。
いや、前の記事を全部読んでいただければ理解可能かと思うのですが、母は単なる専業主婦の家事労働を超えた、24時間在宅している父に四六時中侍っている侍女みたいな役割をさせられていたので、それを「奴隷」と表現してもさほど間違ってはいないかと考えます。(父が、「肩が凝ったなー」と言えば肩を揉み、「なんかスーッとしたものが飲みたいなー」と言えばサイダーを買いに走る。といった感じ。あと、父が思いついた事をばーっと話すのを全部聞いて記憶しなくてはいけない。など、一日中待機の何でも使用人。)
また、「産みの母をディスるなというお叱りあるかも」に関してですが、母から暴力を受けてきたわたしとしては、とてもじゃないが母を肯定的に評価することなどできない。バカはバカなんで、それははっきり言いたいのです。

父の偏向イデオロギー強要についてはもう繰り返しませんが、まあ、それは「自分の子供は自分の思想どおり、理想どおりになってほしい」という理念(間違った理念であったとしても)があってのことだったんだと思います。結果は最悪だったけれど、理念を持つこと自体、その原点自体は「善なる意志」だったのかもしれないです。
それに、父は決して、わたしに暴力を振るうことはなかったのです。

一方、母には何の理念もなく、ただ「ご主人様」の言ったことに「そうだ、そうだ!」と従って騒ぎ立てる役、そして暴力実行役、をやっていただけです。
理念がないばかりでなく、はっきりと「悪意」がある、と感じました。
もう少し分析するなら、父に支配されてストレスがたまっていた母の、鬱憤晴らしのためのサンドバッグにわたしがなっていた、ということだったのではないでしょうか。

何か怒られる理由があったとしても暴力は厭なものですが、うちではしばしば、「そんなメチャクチャな!」という言いがかりからの殴りがありました。
たとえば、ある時、わたしがコップから麦茶を飲んでいるのを横でジトッと見ていた母が、急に、
「ゴクゴク、と喉を鳴らして飲むな!」
と怒鳴るなり、わたしをぶちました。
(ええっ? 人間は、飲む時にはゴクッてなるもんなんじゃないの?!)
とわたしは驚きましたが、まだ飲みたかったので、なるべく音がたたないように?トライしましたが、もちろんまた「ゴクッ」っとなります。
「だから喉を鳴らして飲むなってば!」
またバシッ。
そんな馬鹿な、と誰でも思いますよね。



他人とは何か?

2022-08-29 19:09:00 | 日記
なぜこんなネガティブな思い出を毎日書いてるのかというと、これを読んで「わたし(読み手さん)の人生もいろいろ大変だったけどこれよりはマシだな」と思ってもらえたら、ということなんです。

中には「えー、苦労したとか言っても、戦争で負傷して障害が残ったとかそういう身体の傷はないんだし、飢え死にしそうに貧乏したって話でもないわけだし、全然大したことないんじゃね?」と言う方もいらっしゃるかもしれません。——そうですね、実際、別に大したことないのかも。
なにもわたしは「自分が世界で一番不幸」だとか思っているわけではないし、不幸自慢をする気はないんです。
ただ、あまりにもみんなと違う育てられ方をして、誰でも彼でもから「わたしたちの仲間じゃない。」と疎外され続け、仲間というものがこの世に一人もいないと、生きるのが結構ハードだった、ということは言いたいです。

仲間がいない、というのは、「いかなる集団にも帰属意識を持てないよう育てられた」結果です。
昭和ひと桁生まれの父は、敗戦のトラウマからか、「国を信じるな」「島国根性は最悪」などとわたしに言い続けてきました。だからわたしにはあまり「日本人」としてのアイデンティティが形成されませんでした。キモノも一回も着たことがありません(うちは「七五三」だの「成人式」だの一切やらないポリシーだったので)。お盆って何やるものなのかもよく知りません。お墓まいりにも一度も行ったことがありません。父はボクシングが好きで、テレビでよく見ていましたが、その際は必ず、絶対に、日本人じゃない方を(「メキシコがんばれ!」とかって)応援していました。
ネトウヨみたいな人ならここで、「それって反日じゃん!」となるのでしょう。そうなのかもしれませんが、「反日」?本家本元の父ですら、「政治的アクティビズムは、やってもしょうがない。芸術しかない。」という考えになっていましたので、このわたしに至ってはさらにノンポリであります。政治的な主張は一切ありません。

じゃあ、一生「芸術村」にこもっていればいいだろう。というようなものですが、芸術というジャンルは衰退の一途を辿っていて(エンタメしかない世の中になってきて)、もはやそんな限界集落に仲間を求めてもしょうがない。
で、「結局、お金しかない。」という身も蓋もない結論となり、今は会社をやっています。大して儲かってもいませんが、文筆よりはマシでしょう。

死ぬ時になったら、「うちは無宗教だ。」と育てられたわたしは、あの世に旅立つパスポートを発行してあげましょうと身元引き受けしてくれる特定宗教もなく、一人で終了していくのです。別にそれでいいと今は思います。

親戚付き合いも皆無、配偶者もおらず、ご近所づきあいなんかももちろんなし、友達もたいしていない。わたしのこの状態って、「兄弟は諸悪の根源」という親の教えをさらに突き詰めた結果「あらゆる人間関係は諸悪の根源」という究極のニヒリズムに到達した、ということかもしれません。あまり他人におすすめできる生き方ではありませんが、こんな人もいるんだということを面白がっていただけたら。

わたしが今までの人生で得てきた教訓は、「他人に何かを期待してはいけない」「他人は、観察して面白がる対象である」ということです。
ここまで吹っ切れたから、少しは楽になれた…。

いじめフリー素材

2022-08-28 22:09:00 | 日記
ピーター・ガブリエルの”Not One of Us”という曲をのちに聴いたわたしは、「小学生の時の自分は、まさにこう思われたんだな」と理解しました。(「自分たちの仲間じゃない」という。)人は、集団の中に自分たちとは違う異分子を発見すると、ボコボコにいじめるものです。
鉛筆削り器ではなくナイフで汚く手削りした鉛筆を、キャラクターもついていない昭和初期みたいな筆箱に詰めこんで持ってきてる、って時点で、もう「獲物発見!」となるに決まっている。そんなの当たり前というものです。
変わった点は鉛筆だけでなく、「自転車に乗れない・持ってない」「おもちゃを一切持ってない」「アニメの話が通じない」「健康保険に入っていない」(保険証のコピーを貼付してくださいというプリントが学校で配られるといつも、「健康保険には加入していません」と母が当該スペースに手書きで書いたのを持たされました。うちは保険類には入らない主義だったのです)などなど…もう、いじめたくなる要素が満天のきら星のごとく、いじめっ子たちに向かってチカチカ点滅しまくっています。これでいじめない方がおかしい、というものです。

おまけに、うちの親はPTA活動をバカにして全部ガン無視、一切関わりを持ちませんでしたから、小学生たちにしてみたら、わたしは「チクられない」絶好のいじめターゲットでした。普通なら、他のお母さんから「あなたんちの子、いじめられてるわよ」などと耳打ちされたりしそうですが、うちの母は24時間父の世話をするのに専念しており、親同士の交流なんかまったくしませんでした。
また、うちの両親は運動会などの学校行事に来るということも、一度もありませんでした。
親が出てくる恐れがないなら、これはもう、わたしは、自由にいじめていい「フリー素材」みたいなものです。

小学生にしては結構すごい内容のいじめだったと思いますが、それに関しては、くだらないのでここでは省略します。
わたしにとっては、学校でのいじめより家庭での虐待の方が、よりバイオレンス度が高く辛かった、というのもあり、わたしはいじめられてもいじめられても、それでも家よりはマシ、と毎日一生懸命、バカみたいに小学校に通っていました。

親が絶対に文句を言ってこないと知れわたると、子供からいじめられるだけでなく、なんと、先生にもつけこまれます。
小学校3、4年の時の担任は、当時のわたしから見て「おばあちゃん先生」(といっても今のわたしぐらいだったのでしょう苦笑)で、学校図書館なんとか協会みたいなものの要職?についている人でした。
わたしは、本しか娯楽がなかったため読み書き作文は得意な子でした。だから説得力があるヤラセ要員だと思われたのか、わたしはある日の放課後、おばあちゃん先生に呼び出され、誰もいない部屋でマンツーマンで向き合って座らせられました。
「先生が言うとおり書いて。」
そう言われてわたしは、原稿用紙に口述筆記させられました。
「『へそは茶なんかわかさない』を読んで。三年一組 城南」
それは読書感想文のでっち上げでした。(本のタイトルはフィクションにしてあります。半世紀近く前の出来事でとっくに時効だろうけれど、悪事は悪事なので。)

先生が言うとおりに口述筆記した「わたしの」読書感想文は、読書感想文コンクールの東京都代表作品に選ばれました。 
自分の意志とは関係なく、やらせアクターにされてしまったわたしは、双肩に罪の意識がのしかかるのを感じました。当然、そんなやらせ事件のことを「芸術至上主義で、嘘が嫌いで、自分の頭で考えろ主義」の父になんか恐ろしくて言えるはずもありませんでした。(チョー悪おばあちゃん担任の読みは大当たり、企ては大成功だったわけです。)
もちろん、わたしは他の誰にもこのことを告白できませんでした。やらせアクターとして、学校の校内放送で「東京都代表の感想文」を朗読しながら、わたしはしかし、心の中で(ここのところの言い回しはババくさくて小学生が書いた感じじゃないんだけどなあ…)などと密かにダメ出ししていた——そんなことを覚えています。

親が子供を守らないと、子供は「身元不明人」なみに、どんどん利用されてしまう、というお話でした。